中山みき研究ノート4-9 このまゝひいてしまうか
こうして教祖の周りには人を寄せず、神道天理教会は寄って来た人に日本神話に基づく差別思想を教える、という状況の中で、新暦明治20(1887)年1月1日、教祖は風呂から上がられて、ふとよろめかれたと伝えられています。しかし、実は「ふと」などという状態ではありません。前年の秋の事をおひさは、
と伝えています。
1月4日。この時には教祖の体が冷たくなり、息が止まるという身上になられました。そこで、ご休息所の次の間で飯降伊蔵を通してうかがうと、次のようにおさしづがありました。
私がここで生きて、ひながたを通っても誰にも見せず、説いても誰にも聞かせない。人集めの看板に私を使うだけで、来た人に嘘を説いているようなことでは、115歳まで生きても世界はたすかるはずがないではないか。私の話を否定して(疑うは、当時は否定の意)、嘘を教え、差別感を与え、自分達の身の安泰や繁栄を考えている者の看板になるために生きているような事はしない。もう退いて了うか、納まって了うか、という厳しいお言葉でありました。
ここまで身上が迫っていれば、教祖がもう生きない、と心を定めればそれで終わりです。
これは、人間に命を絶ってしまう力や人の命を取ってしまう力があるという意味ではありません。教祖はたすけ一条のために生き続けるという思いで90歳になったのです。体が弱っても真実を説き続けた人が、もう聞く者がいない、聞いても誰も伝えないという時、もう生きるのを止めようと思えばそのまま命は終わってしまいます。
このお言葉に一同は驚き、教祖の教えを説こうという人達は教祖がそんなお心になられたら大変と、おつとめを一生懸命やらせて頂こうとする。けれども、それでは教祖がまた捕えられ、我々も捕えられ、教会設置も吹き飛んでしまうではないかという人達の反対で、昼間、公然とつとめる事は出来ない。それで、夜やろうということになりました。1月9日には、
というお言葉がありました。弾圧があるからおつとめは出来ません、と申し上げているのに対して「私は弾圧がある事を承知でおつとめをやれと言っているのだ。弾圧の厳しさは、警察で痛められて寝ている私のこの身が一番良く知っている。今、寝ているのは年を取ったからではない。病気になって寝ているのでもないのだよ」
という意味です。
続いて、13日の午前3時頃に真之亮が、
と申し上げています。これが梶本と前川という親戚を従えた中山家代表、神道天理教会会長の言葉なのです。さらに続けて、おてふりを公然と練習する所をお許し頂いたら、その後、おつとめをやります、と言ったのです。これは神道教会設立の事を指しています。しかし、たとえ練習が出来て人を集められても、神道教会になってしまったら、たすけ一条の方針は行なえなくなってしまうのです。これは明治22年、神道教会になった郡山、兵神、山名にかんろだいづとめが許されなかったことで明らかです。特に山名は教会になるまでは許されていたかぐらづとめを、神道教会になった時から禁止されてしまいました。
その後で櫟本分署にかかわりのある問答が出て来ます。
と『稿本教祖伝』に書いてあります。
しかし、この時居合わせた諸井国三郎は次のように書き残しています。
兵神版のおさしづでは「法律あり、法律ありても心の定めが第一やで」となっており、この方が意味がよく分かります。ここで言う法律とは、民主国家で民が暮らし易いように作られた法律などでは ありません。
「吾れこそ天津神の裔である。民は私の下に服従せよ。私は世界を統一支配するのだ」と宣言した天皇が一方的に作った法律なのです。この法律に従っていては、難渋をたすけろっくの地に踏みならすことや世直しは絶対に出来ません。間違った世界で間違った法を守っていては世界だすけは出来ないのです。
4-8 五ヶ条の請書 ←
第4章 扉は開かれた
→ 10 神の社の心定め
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?