中山みき研究ノート4-2 ひとの田に水を
明治16年の大きな事件として、雨乞いづとめが上げられます。『稿本教祖伝』には、
ここは現在の天理幼稚園の敷地内で、牛はぎ場とあるからには聖地といった趣ではなかったようです。
その後坤(西南)は現在の郡山詰所がある辺りでつとめられ、その後続いて乾(西北)、これは百年祭のバス乗降場の西側で、北大路の傍に神田神社がありますが、その社殿と鳥居との間の空き地で行なわれました。
その頃から「黒雲が東山の上から忽ちにして空一面に広がり」大雨が降ってきました。人々はずぶ濡れになりながらも、最後に、艮(東北)の角で力一杯のかぐらをつとめたのです。ここは、第二食堂前の道路を北に行き、北大路に突き当たった所にある店の裏の方に当たります。
この時は雨乞づとめをしたら、雨が降ったのです。雨が降ったという事実だけを取り上げて、おつとめは御守護があらたかですと話されているが、雨乞づとめの理については、明治9年にすでに教えられています。(第三章参照)
明治10年のおふでさきでは、「りゅうけつくれば、水がほしかろ」(注=おふでさき 十三 101)というお言葉があり、農作物を作るのに、どのように水を使わせて頂くかという、心構えをお教え下さっています。雨乞づとめとは、水不足を互いにたすけ合うことによって乗り越える心定めのおつとめであったのです。
二代真柱が『続ひとことはなし その二』に、いろいろなおつとめの言葉を紹介しています。それを見ると、拝み祈祷の文句を十一通り教えて下さったという感じですが、
「あしきをはらうて どうぞ雨をしっかりたのむ 天理王命 なむ天理王命 なむ天理王命」
では、おつとめに歌が合いません。それでこの言葉では行なわれなかったのではないか、とも考えられます。 辻忠作が明治31年に書いた『ひながた』(注=『復元』 31号収載)には、
とあります。ここでは雨乞づとめの言葉が違っています。この言葉だと大体手振りはそのままで言葉が合います。
辻忠作は「あしきはらい 雨たもれ一れつすます かんろだい」という言葉で雨乞づとめが行なわれたと伝えていますが、雨乞づとめがこの言葉で行なわれたということにも、一考の余地があります。雨乞づとめの時にも、「あしきはらい たすけせきこむ 一れつすましてかんろだい」と歌われていたのではないかという思いも捨て切れないのです。当時のおつとめは、「ちよっとはなし」に続いて、「あしきはらい たすけたまえ 一れつすますかんろだい」を、21回繰り返してつとめられていたとも、辻忠作が伝えているからです。
「けっこう源さん」という映画が作られました。その中で、山城での雨乞いづとめが演じられていますが、その時に、山本利三郎が教祖のお言葉を取り次いで、
「人の田に水をやるという心で、おつとめをしなさい」
と人々を論していました。
我田引水というのは我身思案の最たる姿です。この川筋の水は我が村に権利がある、という主張が、ほかの村には水不足を起こします。また、各人が自分の田に水を引き、人の田にはやらないという心であれば、同じ水の量であっても、干害に倒れる田が出来てしまう。これが水不足の実情なのです。水不足の時こそ、人の田に水をやる心が必要なのです。
高井直吉は、昭和の時代になってからも、
「自分の費用使って、出張して一生懸命雨乞づとめをやって、雨降ったら人の田や、まあ、それがこのお道や、教祖の教えや」
と、何度も話されています。
日照りの時こそ、立毛作るために水は誰でも欲しいのだから、互いに補い合いたすけ合って、自分の努力で得た水を人の田にやるような心を持ったら、少ない水の量であっても乗り切っていけるのです。このことはみかぐらうた一下り目に、
と端的にお教え下さるように、皆が豊かに暮らすには、この心構えが必要なのです。雨乞づとめの結果としては、雨が降った時もあり、降らなかった時もあったと伝えられていますが、雨を降らせることが雨乞づとめの目的ではなかったのです。
布留の石上神宮の雨乞は有名で、ここでは雨乞の祈祷が何度も行なわれていました。その他、ご利益があるとされる参り場所がこの近在に数多くあるので、信者達が「よろずたすけといいますが、こういうご守護はないのですか」と聞いたこともあったでしょう。
それに対して教祖は、あちこちの参り場所や神社仏閣で、ご利益があると言っているような気安めの効果は、このおつとめでも得られるが、そんな祈祷に頼るのではなく、互いたすけ合いの心を定め、陽気づくめの世に立て替えるのがこのおつとめ であるとして、いろ/\なおつとめを作られたのではないかと思われます。
疑ってかかれば11通りものおつとめが教えられたといいますが、一度もつとめられていないおつとめも並んでいることからみて、天輪王明神や転輪王講社を運営し続けた人達が、教祖の教えと外れた、拝み祈祷のおつとめの文句を考え出したという事も、ありえない事とは言えません。いろいろなおつとめを伝えている資料そのものを、洗い直して見るという事も必要だと思われます。
『稿本教祖伝』では、雨乞づとめが行なわれた後、警察が全く罪のないところに罪をつけて人々を引っ張って行ったという表現が見えます。しかし、この時、おつとめ着に付けていた紋は、直径3寸の大きな12弁の菊の紋なのだから、それだけで国の方針に逆らっており、政治犯に近い扱いを受けても仕方のないことです。天皇も人間であるということを、雨乞づとめなどにかこつけて皆に示そうとした、として厳しく取締りを受けたものと思われます。
この雨乞づとめの時の罪状は、近村に降る雨まで三島村に降らせたということで水利妨害、また、街道傍でつとめをしたから道路妨害。何ともあきれるような理由ですが、言い掛かりはどうにでもつくということを示しています。
そうした時期に、教祖がご休息所にお移りになりました。
陰暦10月26日、このお道が始まった縁日に、ご休息所が出来上がったのです。
元治元年につとめ場所が出来て、教祖、こかんを中心にして寄り来る人々におつとめを教え、道が説かれていました。
ところが慶応3年に、秀司によってつとめ場所に天輪王明神が祀られて以来、明治13年から転輪王講社になった時も、つとめ場所は応法の理が説かれる場所となっていました。それが、転輪王講社の壊滅、親戚連合の壊滅により、全てが取り払われました。さらに教祖がつとめ場所を離れ、木の香も新しいご休息所に移られたことで、お屋敷全体が応法の理でなく、教祖の教えが説かれる所になったのです。
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