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中山みき研究ノート4-2 ひとの田に水を

明治16年の大きな事件として、雨乞いづとめ、、、、、、が上げられます。『稿本教祖伝』には、

明治16年は、年の初めから厳しい取締りがつゞき、昼も夜も巡査の回って来ない日とては無かったが、この夏は、近畿一帯に亙っての大旱魃であり、三島村も長い間の旱魃つゞきで、田圃にはひゞが入り、稲は葉も茎も赤くなって、今にも枯れん有様と成った。村人達は、村の鎮守にお籠りして、三夜に亙って雨乞をしたけれども、一向に験めが見えない。そこで、村の人々は、お屋敷へやって来て、お籠りをさして下され。と頼んだ。年来の厳しい取締りで、参詣人は一人も寄せつけてはならぬ。おつとめをしてはならぬ。おつとめをしたら、教祖を連れて行く。と言 われて居た頃であるから、お屋敷では、当局の取締りの厳しい旨を述べ、言葉を尽して断わった。しかし、村人とても、万策つきた場合であったから、お籠りさして貰う訳に行かぬなら、雨乞いづとめをして下され。氏神の境内にておつとめして下され。と、一昼夜退かなかった。その上、警察から取調べに来たら、私達が頼んだのであると言うて、決して御迷惑はかけません。と、繰り返し/\懇願した。そこで真之亮も気の毒に思い、教祖に伺うと、お言葉があって、

『雨降るも神、降らぬのも神、皆、神の自由である。 心次第、雨を授けるで。さあ掛かれ/\。』

と、仰せられた。そこで、村総代の石西計治と相談して、先ず、村の氏神の境内に集まる事とし、一同準備をとゝのえ、8月15日(陰暦7月13日)の午後4時頃、お屋敷を立ち出で、氏神の境内へと向った。この日は、朝から晴天で、空には一点の雲もなかった。

真之亮と飯降伊蔵の二人はお屋敷に留まり、かんろだいの所で一心にお願いした。当日、雨乞づとめに参加の人々は、辻忠作、仲田儀三郎、同かじ、、、桝井伊三郎、高井直吉、山本利三郎、岡田與之助、澤田権治郎、博多藤平、村田かじ、、、中山重吉、西浦彌平、飯降よしゑ、、、、辻とめぎく、、、、、音吉等である。

男女とも、教祖のお召下ろしの赤衣を、差渡し三寸の大きさに切り、十二弁の縫取りした紋を、背中に縫いつけて居た。

かぐらの、獅子面2、面8、鳴物9を、それ/\”この人数に割りつけた上、氏神の境内に集まり、それから三島領の南の方を廻って、先ず、巽(東南)の角、当時牛はぎ場と言うて居た所で、雨乞づとめをした。`

ここは現在の天理幼稚園の敷地内で、牛はぎ場とあるからには聖地といった趣ではなかったようです。

あしきをはらうて どうぞ雨をしっかりたのむ 天理王命 なむ天理王命 なむ天理王命 繰り返し/\、心を合わせ精魂を打ち込んで勤めた。

その後坤(西南)は現在の郡山詰所がある辺りでつとめられ、その後続いて乾(西北)、これは百年祭のバス乗降場の西側で、北大路の傍に神田神社がありますが、その社殿と鳥居との間の空き地で行なわれました。

その頃から「黒雲が東山の上から忽ちにして空一面に広がり」大雨が降ってきました。人々はずぶ濡れになりながらも、最後に、艮(東北)の角で力一杯のかぐら、、、をつとめたのです。ここは、第二食堂前の道路を北に行き、北大路に突き当たった所にある店の裏の方に当たります。

つとめを了ってから、一同が氏神の境内で休んで居ると、村人達も大そう喜び、かんろだいの場所でお礼さして貰いたい、と言って来た。そこで、かんろだいの所へ帰って来て、皆揃うてお礼の参拝をして居ると、丹波市分署から数名の巡査が駆けつけて来た。そして、何をして居るか。と言うから、村の頼みで雨乞致しました。と答えた。それなら村役人を呼んで来い。との事で、来るには来たが、巡査が、雨乞を頼んだか何うか。と尋問すると、その場の空気に怖れをなして、知りません、頼みません。 と、言い遁れた。そこで雨乞づとめに出た一同は、ズブ濡れのまま拘引された。ちょうど、三島の川筋は番破れとなり、川上の滝本村の方で水喧嘩が出来たので、二人の巡査はそちらへ駆けつけ、あとに残った一人の巡査に連れられて、一同腰縄付き、両端の二人は縄を結びつけ、余の者は帯に縄を通して、布留街道を西へ丹波市分署へと向った。

この時は雨乞づとめ、、、、、、をしたら、雨が降ったのです。雨が降ったという事実だけを取り上げて、おつとめ、、、、は御守護があらたかですと話されているが、雨乞づとめ、、、、、の理については、明治9年にすでに教えられています。(第三章参照)

明治10年のおふでさきで、、、、、は、「りゅうけつくれば、水がほしかろ」(注=おふでさき 十三 101)というお言葉があり、農作物を作るのに、どのように水を使わせて頂くかという、心構えをお教え下さっています。雨乞づとめ、、、、、とは、水不足を互いにたすけ合うことによって乗り越える心定めのおつとめ、、、、であったのです。

二代真柱が『続ひとことはなし その二』に、いろいろなおつとめ、、、、の言葉を紹介しています。それを見ると、拝み祈祷の文句を十一通り教えて下さったという感じですが、

「あしきをはらうて どうぞ雨をしっかりたのむ 天理王命 なむ天理王命 なむ天理王命」

では、おつとめ、、、、に歌が合いません。それでこの言葉では行なわれなかったのではないか、とも考えられます。 辻忠作が明治31年に書いた『ひながた』(注=『復元』 31号収載)には、

今より16年前に大旱ばつにして 当村方より雨乞を頼に来ましたので 旧7月11日の事 雨はあると仰せありて 翌12日午後よりみなつとめの人衆雨請に出かけました 其時男は黒き衣物に袴 女は黒き衣物着て 紋ハ教祖様御めしおろしの赤きをさしわたし三寸の大さにして 12枚に切た菊の紋(中にしんをおく)を付て かぐらは尾一筋あるが月様 尾三筋あるが日様 のおかぐらとして その他今のおめん十柱みなそろへ九つ鳴物入れて氏神の場所をはじめ それより南巽の方へまわりて三島領中の異の角で御勤め あしきはらい 雨たもれ一れつすますかんろふだいの手おどり 21ぺん致し......

とあります。ここでは雨乞づとめ、、、、、の言葉が違っています。この言葉だと大体手振りはそのままで言葉が合います。

辻忠作は「あしきはらい 雨たもれ一れつすます かんろだい」という言葉で雨乞づとめ、、、、、が行なわれたと伝えていますが、雨乞づとめ、、、、、がこの言葉で行なわれたということにも、一考の余地があります。雨乞づとめ、、、、、の時にも、「あしきはらい たすけせきこむ 一れつすましてかんろだい」と歌われていたのではないかという思いも捨て切れないのです。当時のおつとめ、、、、は、「ちよっとはなし」に続いて、「あしきはらい たすけたまえ 一れつすますかんろだい」を、21回繰り返してつとめられていたとも、辻忠作が伝えているからです。

「けっこう源さん」という映画が作られました。その中で、山城での雨乞いづとめ、、、、、が演じられていますが、その時に、山本利三郎が教祖のお言葉を取り次いで、

「人の田に水をやるという心で、おつとめをしなさい」

と人々を論していました。

我田引水というのは我身思案の最たる姿です。この川筋の水は我が村に権利がある、という主張が、ほかの村には水不足を起こします。また、各人が自分の田に水を引き、人の田にはやらないという心であれば、同じ水の量であっても、干害に倒れる田が出来てしまう。これが水不足の実情なのです。水不足の時こそ、人の田に水をやる心が必要なのです。

高井直吉は、昭和の時代になってからも、

「自分の費用使って、出張して一生懸命雨乞づとめをやって、雨降ったら人の田や、まあ、それがこのお道や、教祖の教えや」

と、何度も話されています。

日照りの時こそ、立毛りゅうけ作るために水は誰でも欲しいのだから、互いに補い合いたすけ合って、自分の努力で得た水を人の田にやるような心を持ったら、少ない水の量であっても乗り切っていけるのです。このことはみかぐらうた、、、、、、一下り目に、

三ニ さんざいこゝろをさだめ
四ッ よのなか

と端的にお教え下さるように、皆が豊かに暮らすには、この心構えが必要なのです。雨乞づとめ、、、、、の結果としては、雨が降った時もあり、降らなかった時もあったと伝えられていますが、雨を降らせることが雨乞づとめ、、、、、の目的ではなかったのです。

布留の石上神宮の雨乞は有名で、ここでは雨乞の祈祷が何度も行なわれていました。その他、ご利益があるとされる参り場所がこの近在に数多くあるので、信者達が「よろずたすけといいますが、こういうご守護はないのですか」と聞いたこともあったでしょう。

それに対して教祖は、あちこちの参り場所や神社仏閣で、ご利益があると言っているような気安めの効果は、このおつとめ、、、、でも得られるが、そんな祈祷に頼るのではなく、互いたすけ合いの心を定め、陽気づくめの世に立て替えるのがこのおつとめ、、、、 であるとして、いろ/\なおつとめ、、、、を作られたのではないかと思われます。

疑ってかかれば11通りものおつとめ、、、、が教えられたといいますが、一度もつとめられていないおつとめ、、、、も並んでいることからみて、天輪王明神や転輪王講社を運営し続けた人達が、教祖の教えと外れた、拝み祈祷のおつとめ、、、、の文句を考え出したという事も、ありえない事とは言えません。いろいろなおつとめ、、、、を伝えている資料そのものを、洗い直して見るという事も必要だと思われます。

『稿本教祖伝』では、雨乞づとめ、、、、、が行なわれた後、警察が全く罪のないところに罪をつけて人々を引っ張って行ったという表現が見えます。しかし、この時、おつとめ着、、、、、に付けていた紋は、直径3寸の大きな12弁の菊の紋なのだから、それだけで国の方針に逆らっており、政治犯に近い扱いを受けても仕方のないことです。天皇も人間であるということを、雨乞づとめ、、、、、などにかこつけて皆に示そうとした、として厳しく取締りを受けたものと思われます。

この雨乞づとめ、、、、、の時の罪状は、近村に降る雨まで三島村に降らせたということで水利妨害、また、街道傍でつとめ、、、をしたから道路妨害。何ともあきれるような理由ですが、言い掛かりはどうにでもつくということを示しています。

そうした時期に、教祖がご休息所にお移りになりました。 

陰暦10月26日、このお道が始まった縁日に、ご休息所が出来上がったのです。

元治元年につとめ場所が出来て、教祖、こかん、、、を中心にして寄り来る人々におつとめ、、、、を教え、道が説かれていました。

ところが慶応3年に、秀司によってつとめ場所に天輪王明神が祀られて以来、明治13年から転輪王講社になった時も、つとめ場所は応法の理が説かれる場所となっていました。それが、転輪王講社の壊滅、親戚連合の壊滅により、全てが取り払われました。さらに教祖がつとめ場所を離れ、木の香も新しいご休息所に移られたことで、お屋敷全体が応法の理でなく、教祖の教えが説かれる所になったのです。

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