魯迅の「野草」と横浜トリエンナーレのこと①/一日一微発見424
編集の仕事をしていると、何年に一回か自分でもびっくりするような偶然がある。フィクションでもこうはならない偶然だ。
昨年末に正月に読む本はないかと京都芸術大学の図書館内を散策していた。蔵書はさして多くないのだが、面白い本に出逢えるので愛用している。
一番奥にある国内外の美術館のカタログが雑然とならんだコーナーが宝庫なのだが、そこをあらかた見て、さて帰ろうかと思いふと振り返ると地味な本棚に気がついた。平凡社の東洋文庫である。平凡社は社のなり立ちからして「大東亜」の影があり、しかし、今となっては東洋の英知がつまった研究書がコンパクトな本になっていて、一番興味深いアーカイブかもしれない。
しかし美術大学の学生はそんな本には、無縁と見て、どの本を手にとってみても借りられた痕跡がほとんどなかった。その時に偶然目についたのが片山智行が評釈した『魯迅「野草」全釈』であった。全く理由はない。
僕は70年代の大学生の時に『ガロ』にコラム「目安箱」を連載していた評論家・上野昻志が書いた『魯迅』で彼のことを知った。それが縁の始まり。
そして80年代の頭に初めて海外に行ったのが上海と北京だった。ちょうど四人組が失脚したすぐあとで華国峯が党書記長をつとめていたころ。毛語録を古本屋で探しまくったがなくて、でもその時に手に入れた「革命」のスローガン入りの丼鉢は、今も大切に使っている。
上海もまだ、全く共産体制下で閉じていた。暗いオレンジ色の街灯の下で、昼夜三交代制で労働者が働いていたのが印象的だった。僕は日本から医学生として留学していた学生と知りあい、彼がどういうわけか、大型バイクをもっていたので、うしろの席にすわって上海見物をしてまわった。
上海は現在の超近代化された姿ではなく、歴史から置いてきぼりになった、強い郷愁にあふれていて、いっぺんで好きになった。ここに事務所を作って仕事をしたいなあ、なんて夢想させる街。
後にキューバに行った時にも同じ感じを味わった。
そしてそのあと北京に移動したのだが、僕はそこで病気になり、珍しく入院した。
旅の目的もなかったので病み上がりで行こうと思ったのが北京にある魯迅記念館だった。
それは70年代に『狂人日記』や『阿Q正伝』を読んでいたこともあるし、彼がいわゆる「過渡期」の思想の文学者であると思ったからだった。
そういえば、余談だが、神保町にある老舗居酒屋・兵六にはたまにいくが、その初代店主は、戦前、上海に留学していて魯迅と交流があり、店に行くといつも酒を飲みながら、魯迅の写真と対面していた。魯迅は僕にとっては、市井の等身大の人なのだ。
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