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日本の美術をアップデートする⑦「民芸」はもう終わっているのか?/一日一微発見386

性懲りもなく「民芸」の展覧会を見に、大阪の中之島美術館へ行ってしまった。
「性懲りもなく」というのは、「民芸」というフィルターで選ばれた職人技の器や家具や籠などが好きだからだ。

そして、その「性懲りもなく」というのには、愛ゆえに、泥沼から逃げられない恋愛みたいに、地獄の炎が含まれている。
入ったとたん「お静かにご覧下さい」と書いた紙を持った監視員が、こちらを見る。
静かに楽しんでいるのに。
さて楽園か、地獄か。

僕は「コンテンポラリーアートの価値生成」について美大で教えているくせに、高額の作品を買わないし、買いたいと思っていない。しかし生活を楽しむ少しの「愛着」の深い作品に囲まれ、旅で買いあつめた器を使って日々暮らしている。

「民芸」テイストの器は数多い。ほとんどそうだと言ってもよい。那覇の民芸店で買った中ぐらいの皿はいくつもある。鳥取の窯元をまわって買った皿、松本や仙台の民芸骨董店で買ったもの。
みな、大切な僕にとり特別なモノたちだ。

しかし、それらはすべて美しくとも生活雑器であり、高くて5000円ほど。1万円するものはまず欲しくてもやめておく。
それはケチなのではなくて、人には「分才」というものがあると思っているからだ。
古いのかもしれない。

よくクリエイターが自分の好きな品や店の料理をあげる時に、びっくりする贅沢品をあげているのを見て、正直、分不相応、品がないなと思ってしまうのである。人としてかわいくないな、とも思う。「好き」は人が出るからこわい。

ハイブランドの服はディオールでもエルメスでもおどろくほどよくはできているが、それを古着やメルカリで上手にコーディネイトしている女性を見るとカッコイイなと思う。それと同じである。
センス、センシビリティの問題といってしまえばおしまいだが。

僕は柳宗悦は偉人だと思うが反面「罪つくり」なことをした人だと思っている。
日本の美意識を考えた時に、「あたりまえ」のものの価値をかえた人に2人いると思う。

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