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「おかえりモネ」の奇跡的なバランス感覚と、分断への祈り

朝ドラ「おかえりモネ」が各方面にすごく良かったよね、という話です。かなり長いので、見出しから読みたいところに飛んでもらっても構いません。

ただ、別ジャンルとはいえ「推し語り」には定評が出来つつあります。お時間ちょうだいできれば嬉しいです。

当然のようにネタバレ全開なのでご注意を。

イントロ・放送前後の印象

我が家では以前から朝ドラを観る習慣があったとはいえ、僕自身はそれほど熱を持っていませんでした。フルで観たの、父を中心に家族全体でヒットした「あまちゃん」くらいですね。ずんだ、ずんだ。

ただ今回、「舞台が宮城」「主人公は気象予報士」「主演が清原果耶さん」「主題歌がBUMP!!」という風に、好きな要素が並んでいて。
そして僕がこの4月に、長い独り暮らしから実家に戻ってきた……というタイミングもあって、両親と3人で最初から追うことになりました。

結果、すごく面白かったです。誇張なく、連続ドラマの人生ベスト入りクラス。半年間、新入社員をやりながら「今朝のモネどんなかな~」と楽しみにする日々でした(家を出るのが7時前なので、結果として夜ドラになる)

なぜそんなにハマったのか、というのがこの記事です。
大きく分けて、
・脚本のバランス感や真摯さが良かった
・言葉を大切にしつつ、ときに言葉に頼らず魅せる演出&演技が良かった
・BUMPの主題歌が合いすぎていた

あたりを書きたいのですが……1記事にすると多すぎる気配なので、今回はバランス感と真摯さ、あるいはドラマ全体のテーマの話をします。

震災後の日本に根付く「対比」と「分断」

本作、随所に対比が散りばめられた物語なんですよね。
・山(登米)と海(気仙沼)
・都市(東京・仙台)と田舎(登米・亀島)
・教える者と教わる者(これが随所で入れ替わっているのがいい)
・年長者と年少者
・経験頼りの現場プレイヤー/科学重視のアドバイザー
・出る者と去る者
・生者と死者
・愛する人の安否
・震災から受けたダメージの違い

これらの「対比」が、世界の多様さや心の広がりを描く……のと同時に。
どんなに近しい人の間でも、容易に越えられない「分断」を生んでいました。

その分断にどう向き合うかを、まさに「ヤジロベエのような」バランス感覚と共に丁寧に描いた上で、
それでも私たちは手をつなごう」と絆を確かめる話だったと感じます。

自由の尊重と、地方・共同体へのエンパワメント

モネを中心にすると、本作は「一度は故郷を出て新しい経験をしたい」「そうして得た力で、故郷の役に立ちたい」という話でした。
そして他のキャラクターを含め、「家業を継いで故郷で働く」「一度は飛び出したけど戻ってくる」「ずっと離れた場所で働く」……という、仕事にまつわるwhere/when/whatへの多様なスタンスが描かれる。

さたに、その仕事は何のためか、何を拠り所にするのかというwhyも描かれており。そのwhyを突き詰めると「誰かのため、とはどういうこと?」という問いになってくる。

モネは亀島→登米→東京→亀島・気仙沼……と移動が多いのですが。心境を整理すると、
・当初は自分の好きなこと(音楽)を追いかけたかった(中学生時代)
・震災を機に、「無力な自分のままここには居られない」と憂鬱に囚われた(高校生時代)
・登米で働くことで憂からは脱出し、故郷で得た感性(自然への愛着)を活かすものの、さらなる力(気象予報)への興味を抱いた(登米編)
・その力を得られる仕事につき、新天地で脚光を浴びた(東京編)
・故郷の危機に際して、「この力を故郷のために役立てたい」と願った(気仙沼編)
……というように。「誰かのため」という使命感を強めながら、そのたびに「ここを離れます」を決断してきた。

主人公がこうした選択をする意味。
まずは「道を選ぶ自由/道を選ばせてあげる責任」の尊重ですね。モネはずっと、「周囲に必要とされる中で」「そこを離れて踏み出す」サイクルを歩んできた、つまり周囲はそれを(素直でないときもあれど最終的には)受け容れてきた。永浦家、森林組合、Jテレ気象班……そのいずれにおいても留まる理由は十分に描かれてきた、そのうえで離れる選択が描かれた。
紛れもなく自由の尊重ですし、リベラル的・フェミニズム的ともいえる。

しかし。個人の自由を強く打ち出す、という話でもなかった。特に終盤。
モネは誰かに言われた訳でもなく、ときに疎まれるにも関わらず、「ここで役に立ちたい」を頑なに貫きます。
その過程で、ひたすら故郷のために頑張ってきた人々(特に未知&亮)にスポットが当てられる。最終週、特に強調して描かれたのは亮(=故郷の伝統を継いだ男)の晴れ姿でした。「俺の船」とか、まさに海辺の漢の象徴。

ここを踏まえると。このドラマが一番描きたかったのは、(出て行く人以上に)地方で頑張り続ける、誰かが必要とする仕事を継ぐ人へのエンパワメントだったのではと感じます。
もっと踏み込むと、東北を舞台にしながら主人公が「あそこを離れて正解だった」と答えたとしたら、(現実の自由としては大事だけど)「NHKがやるドラマとして……どう?」みたいな話にもなりかねない。
しかしモネが強さを故郷に還元するためには、一度は出て行く必要があったし、東京での活躍(あるいは修行)は欠かせなかった。

個人主義に極振りした方が、視聴者ウケは良かったかもしれない。けど最終的には「共同体のため・誰かのため」に着地する話にしたの、僕はすごく好きでしたし、勇気づけられる人は多かったと思います。
(という話をすると、最近よく聞く「共同体主義」にもつながりそうなんですが、あれは政治的立場の話らしいので割愛)

とはいえ。故郷を出て行ったままの……「ずっと地元にいなくていい」「東京でやりたい仕事できて、楽しい!」を強調していた明日美のことも、かなりポジティブに描いていると思います。幼馴染みグループの輪に入れば仲良いですし。あくまで力点がモネに寄っていただけで、個人主義全開みたいな人も肯定しているのでは。

蛇足ですが、僕も「戻ってきた」パターンなんですよね。大学で地元を離れてから、地元で就職した……まあ、継ぐ家業もなかったですし、仕事も地場産業とかではないのですが。それで大学が宮城だったので、モネちゃんとは逆パターンというか入れ違いだな~みたいな親近感もありました。

都会/地方の軸でいうと。ネット空間だとやっぱり都会の声が大きくなりがち……というより、都会のインテリ系の発信者(そしてそのフォロワー)の意見が強調されがちなんですよね。先の衆院選を巡る考察でも指摘されていた側面です。僕も地方民ですけど、そういう人たちからの影響を受けまくっている身ですし(こういうレビュー文を書いているのはラジオ「アフター6ジャンクション」宇多丸さんの影響)

家でネットに触れる時間が多くなった時分だからこそ、「地方の、現場の声が届いているか?」と問うような描き方は響きました。

「誰かのため」への問い

whereだけじゃなくwhyだ、という話はさっきもしたのですが。
「誰かの役に立つ、とはどういうこと?」という問いも繰り返されてきましたよね。特に菅波はその役割で印象的でした。

人から感謝される仕事ほど、多くの人生を背負うことになる。現に菅波や朝岡は、救えなかった人生や生活のことをモネに伝えてきました。命や生活を背負う重さを提示しつつ、「それでも進む」と決めたモネを支えてきた。

同時に。「誰かのため」と「自分のため」は表裏一体なのでは……という話も繰り返されてきました。
第12週「あなたのおかげで」はまさにその話でしたよね。気象予報士として台風情報を提供し、地元から感謝されるモネ。モネの動機に「結局、自分のためでは?」と返す莉子、「完全に自分のためだけど」「それで誰かが元気になれば幸せ」と答える鮫島選手。
「誰かのため」を主人公が目指すドラマでこそ、それを肯定しつつも「自分のためだって立派だよ」を併記するようなバランスでした。

さらに。「人のために伝えているのに」受け容れてもらえない痛みを、モネは何度も味わっていきます。気仙沼での孤軍奮闘はまさにその連続、地元漁師に聞いてもらうのは大変だし、亮には「綺麗言」と言い捨てられる始末。
東京編までは「誰かのため」という決意を育むパート、気仙沼編はその決意を試すパート、とも言えそうです。

しかし試されながらも、地道に信頼を勝ち取っていったのがモネです。悩んだ、ときには弱音を吐いた、しかし投げ出すことも当たり散らすこともなく、丁寧に丁寧に人と向き合っていった。
その、「まずは受け止める」「そこから歩み寄っていく」姿勢こそがモネの強さだったと思います。同時に、「分からず屋を懲らしめてやった、スカッと!」みたいな話にしなかったのも良かった。

そして。気象予報士としてでなく個人として、「誰かのために自分を曲げられるのか」という決断を迫られたことも。

「ヒロイン」の在り方と、三角関係の未来

「誰かのため」を目指しつつ、一方では世話になった人との離別を選ぶ……というモネの旅路。その「選択」による痛みが特に鮮明だったのが、モネ・未知・亮の三角関係だったと思います。

第15週「百音と未知」、第16週「若き者たち」で描かれたモネと亮の確執、大好きなんですよね。
辛さはそれぞれにあるとはいえ、亀島の幼馴染みメンバーの中でぶっちぎりに重い運命を背負わされたのが亮だと思ってます。母は亡くなり、父は荒れ、好きとはいえ過酷な仕事に立ち向かっている。

彼がどうして、他の誰かではなくモネにこだわったのか、それは明示はされていません(いないはず、見返せば読み解けそうですが)
恋仲という意味なら、明日美は何度も告白してますし、未知だって慕ってますし……とはいえ、「自分に甘えてこない女性」こそ頼りだ、みたいな気もするんですよね。モネの、近すぎず遠からず落ち着いた距離感がいい、というのも分かる。

ともあれ。
モネにとって亮は大切な人で、彼のために「出来ることは何でも」したいのも確か。
しかし、彼女自身の意思を曲げてまで「望まない関係」になることはキッパリと断った。何でも言い合えたはずの二人が、直接的な表現を避けて「一線」を探り合うしんどさ……そしてモネからの「それで救われる?」というトドメ。

これ、モネのモノローグがないので掴みきれないんですけど、「私が恋人としてケアした所で、亮の問題の根本は解決しない」「友達として、地元の仲間として支える以外ない」みたいに思ってるはずなんですよね。
けど亮は「モネがいてくれさえすればいい」と本気で思ってるし、僕も亮の願望すごく分かるんですよ。高3のとき、自尊心がボロボロになった頃に彼女氏(当時)と付き合いはじめて救われた……みたいな体感があるので。進学後にあっさり別れましたけど、今でもなんだかんだで友達です。

それはともかく。ここでモネが……というか、
癒やし系でお姉さんっぽい女子が
過酷な運命を背負った幼馴染みの男子に
「私に恋で縋られても断るしかない」

を突きつけた、という構図が。物凄く強かった。

人が……特に女子が、ちゃんと「大事な人との関係性は自分で決めたい」「大切に想うことと、言いなりになることは違う」を貫いた。

さ・ら・に、
(一度は振られた)亮と、板挟みで苦しんだ未知の救いをラストで持ってきた……相思相愛による再生も肯定し、亮に誇りと友情を取り戻させた。拒んできた、置いてきた自覚のあるモネの葛藤すら、菅波が包んでみせた。
終盤での及川家+未知への寄り添い方が凄く良かったんですよね……ここで亮へのフォローに失敗すると、「地元で肉体労働に励む幼馴染みではなく、都会のエリートを選んだのか」みたいな突っ込みも出てきかねない。その意味で、菅波VS亮の「王子様レース」にならないよう計算もされていたと思います……視聴者の間ではレース化していたかもしれませんが(僕はりょーモネ寄り、母は菅モネ絶対主義でした)

ともあれ。こうしたモネの姿勢から「誰かために何かを置いていくこと」は肯定しつつも、「自分を犠牲にすること、信念を曲げること」は否定する。そんなバランスを描いていたのではないでしょうか。

……というのが、主に若者サイドの話で。

大人の矜持は「渡す」こと

NHKドラマ・ガイドにて、チーフ演出・一木正恵さんのコメントが載っていたのですが、これがドラマの魅力を端的に表わした名文で。

その中で、若者と対比しつつ「たとえ無様でも、大人の矜持も、見ていただきたいです」というフレーズがありました。
そして週タイトルにも、「若き者たち」「大人たちの決着」といった、大人/若手の対比が描かれていた。

モネがステージを動くたびに、師匠のような存在から財産を受け継ぎつつ、それらを携えて離れていく……という構図がありました。
送り出す責任は大人にある、という話はさっきもしたのですが。

それだけでなく、大人たちが「未来のために、こだわりに背を向ける」シーンも印象的だったな……と思うのです。
その筆頭が及川親子。

亡き美波を巡る変化、大きく2回ありました。
まず1回目、第8週「それでも海は」。
父・新次は亮に説得されながらも、「それでも俺は立ち直らねえよ」と叫び、美波への未練を引きずっていく道を選びました。
一方の亮は、幼馴染みとの会話で「過去に縛られてたまるか」「俺たちが前を向くしかない」と宣言。
過去に囚われた大人も、それを振り切って前に進む若手も、どちらも「それでいい」と肯定してみせた……と、当時は思っていました。実際、感動的なシーンだったのは確か。

けど、「お互いそれでいい」では済まなかった
前を向くはずだった亮自身が、ずっと重荷に苦しんでいました。島を出て行く友人たちを祝福したいのも嘘ではないにせよ、「俺以外の全員に、お前に何が分かると思ってきた」と壁を作ってきた。愛する人の喪失から立ち直れない新次の姿から、人を愛すること自体を忌避するようになった。
アンサーは第23週「大人たちの決着」にまでもつれ込みました。
ついに新次は、美波の死を認めることになりました。内心ではどうあれ、死亡届という公的な手続きに踏み切った。それを契機に、亮と未知の関係は進展し、亮は漁師としてもステップアップした。

ここを踏まえると。「若手が前に進むために、大人が折れるべき所がある」という提示になっているように思います。「それぞれのこだわりを守っていい」とは、どうも受け取りにくい。

そして「大人が折れる」シーンは他にもありました。
例えば登米編、それも第1週の段階で、サヤカがヒバを大事に守ってきたことと、それを伐る決断が描かれます。「古い樹がいつまでも居座っていたら、山は若返らない」という言葉と共に。
そして伐採は、モネの登米からの旅立ちと合わせて描かれていました。自然の摂理に即した選択だったとはいえ、「老人がこだわっていては未来につながらない」という心境はあったはずです。

さらに「若手」はモネ世代に限りません。
永浦家の最年長、龍己。心身の老いや環境の厳しさから、彼は牡蠣の仕事を終わらせようと考えていました。亜哉子やみーちゃんの希望(民宿再開・大学進学)を叶えるためにも、家業を断つことが重要と考えている。
しかし、漁師を選ばなかったはずの耕治が、「永浦水産は消えちゃいけない」「親父が退くなら俺にくれ」と言い出す展開に(第22週以降)。

龍己は元から、誰かが家業を継ぐ必要はないと思っていたようです。一方で、「やるなら覚悟も努力も必要だ」「選んだならやり抜け、中途半端はダメ」という感覚も強かった。危険も伴う仕事である以上、それも自然でしょう。

しかし最終的には、耕治の提案を呑みました。自分の経験を耕治に教えながら、いずれは耕治らしい手法にアレンジされることを受け容れていく(恐らく、モネの知見を活かすだけでなく、外部からも作業者を呼んでチーム体制を作るのでは)
この流れ、龍己が譲ったのと同時に、龍己が続けてきたことへの敬意も描かれているんですよね。その上で、続くためには変わらなければいけないと示している。新陳代謝の必要性。

そして最終週では、先に旅に出られたモネが、ずっと地元を守ってきたみーちゃんを送り出しました。例えば亮を巡る葛藤なら、モネが妹でも成り立ったかもしれない。けど最後に「姉から妹へ」を描いたことに、この年齢差である必要を感じました。

守り、育て、そして「譲る」ところまで含めて、「渡す」ことが大人の矜持だと謳うドラマだった、そう感じます。

科学と経験、理論と現場……自然へのスタンスの差

モネたちは気象予報士として、科学的な視点で自然に向き合います。その点は、医師である菅波や研究者でもある未知も同様。彼らは科学的・客観的、そして若手という傾向がありました。

一方、彼らがそうした知見を共有し、ときに対立したのは、経験者であり現場の人でした。自らの経験や勘を基に、主観的な判断をくだす人たち。登米の林業従事者、気仙沼の漁師たち、東京の鮫島さん……職人気質ともいえますね。そして、年齢は上である傾向があったと思います。

ややこじつけが強いようにも感じますし、僕自身がモネ寄り(20代・理系出身)だからそう感じるのかもしれませんが、

科学主義な若手の理論アドバイザー
VS
経験主義なベテランの現場プレイヤー

という構図は多かったと思います。勿論、科学ベースとはいえ主観や経験の影響は大きいですし、経験や勘にも科学的根拠がある……というのは確かですが、やはりアプローチは違う。
そしてこうした対立、世界の色んな現場で起きているでしょう。

モネが科学サイド(と便宜的に呼びます)にいる以上、そちらが正しいようにも思えますが。それを通すのが適切とも限らない……というバランスになっていたと感じます。

最も端的だったのが、ウェザーエキスパーツと鮫島選手のエピソード(第12~13週)
感覚頼りのレースに限界を感じていた鮫島は、気象や医学の専門家に監修を依頼、有効なアップデートが進みつつありました。しかし、タイムがどうにも伸び悩む。そこでモネは、鮫島の「風を切る感覚」を活かす作戦を提案。「感覚でダメだから頼ってるんだ」と鮫島から反発を受けつつも、その発想で成功を掴みました。
科学サイドと経験サイドのどちらかではなく、融合を目指した構図です。

あるいは、第4週「みーちゃんとカキ」より。
カキの原盤を海に入れるタイミングを巡って、未知と龍己の判断は対立します。龍己が未知に判断を託し、未知は龍己の選択を採用。
しかし次の段階、原盤の引き上げタイミングでも二人の判断は対立。天候を警戒して引き上げを早めるべきだと主張する龍己に対し、未知はリターンを優先し反対。今度は未知が意見を通した結果、天候が急変し、無理なフォローを強いられた龍己は負傷することに。

これは科学VS経験というより、若き研究者VSベテラン現場作業者……という構図でしたが。現場の判断を過小評価するのはマズイ、という解釈ができると思います。
また第6週の登米では。気象予報士(志望者)の観点から熱心に助言したモネに対し、地元の林業職人は「この山なら俺たちが一番詳しい」と苦言を呈しました(その後で「資格」の話につながったのも良い)。

一方で、モネたち気象予報士の提案が(当初の現場の判断以上に)役だったケースも多かったです。特に東京編は、警戒を呼びかけて正解だった……と感じさせるシーンが目立ちました。
同時に、ローカルな発信をヒントに予報につなげたこともあった……台風対応における番場川のシーン、古い言い伝えとネットでの共有という、新旧それぞれのアプローチが協奏しているのも良かったですよね(第23週・伝えたい守りたい)

そもそも、モネが語っていたように、天気は「自分で見て、感じるもの」です。モネが気象に興味を持ったのも、幼いころから宮城の自然に親しみ、ときに苦しめられてきたからでした。人を動かすためには、やはり主観的経験が大きい。

こうした多面性を体験してきたからこそ。モネが自分の道として定めていく、地域密着型の気象予報=現場に合わせた科学のローカライズの重要性がしっかりと感じられたと思いますし、実際に気仙沼で役立っている様子も描かれた。
最終週で菅波が語っていたように、色んなプロの良い所をつなげていこう……というメッセージは明確でした。
押しつけるでもなく、押し通すのでもなく、辛抱強く良い形を探っていく。

気象予報士の仕事論・シリアスとタレントのハイブリッド

当然、気象予報士の働き方も描かれました。
生活や安全を預かるプロとして、不確かさを伴う予報をどう伝えるか……という描き方も引き込まれましたが。

それ以上にキャスターとしての在り方、つまりは
・科学のプロとして情報を伝えるシリアスな側面
・メディアを通して視聴者に語りかけるタレント的側面

という両面をどう描くか……という構成が良かったんですよね。

気象予報士は本来、科学のプロです。しかしテレビ番組でのキャスター担当となると、やはりタレント的なロールを演じることも増えます。本来はタレント的なスキルは求められていないので、不自然ともいえる要素です(まあ政治家も似たようなもんだし、営業・接客系の仕事にも通じるかもしれないですが)
Jテレ気象班の気象キャスターはそれぞれ人気が出ていて、正直「普通、地味なメンツもいるしない……?(失礼)」と思っていたのですが。

本来そういう人材じゃないのにタレント的になる……という構造に、面白いアンサーを出していたのが今作。

身も蓋もない話をすれば、視聴率とか番組ブランドの都合だとは思うんですよ。見た目や雰囲気が好みのキャスターだった視聴者は嬉しい、というのは本音として間違いなくある。清原果耶と西島秀俊が担当だったら他局涙目ですよ。

実際、数字の話も出ていましたが。それ以上に力点が置かれていたのは、「伝える技術」と「信頼されるパーソナリティ」です。

まずスタジオでの予報は、確実性の低い情報は出せないらしいんですよね。しかも、全国に向けて優先度の高い情報を絞らないといけないし、口調にもシリアスさが求められる。客観性重視ですね。
しかし中継は、キャスターの主観的な感覚を伝えるためにあります。視聴者にキャスターの感覚を分かってもらうために、親しみやすい口調を選ぶことも認められています。豆知識や注意喚起など、科学コミュニケーターのような役割もできます。

見る限り、Jテレでは先輩がスタジオを、後輩が中継を担当するのが慣例になっているようですが。どちらにも重要な役割があることは、劇中で十分に示されてきたと思います……だから莉子がモネの仕事を揶揄するのは筋違いかと(第17週の莉子さんには憤慨していました、そのぶんも翌週での成長が眩しかった)

さて。そうした中継キャスターの特性を存分に活かすため、モネが考案したのが「コサメちゃん&カサイルカくん」システムです。

「安西社長……商品化がしたいです……」という効果もあったかもしれませんが、そこではなく。
まずはマスコットを登場させることで注意が引けますし、小芝居を絡めQ&A形式にすることでプレゼンの幅が広がる。恐らく、子供の興味もより引けることでしょう。

そして。気象予報に限らずあらゆるジャンルでの宿命ですが、専門家→一般人のプレゼンにおける有効性の順位は
何を言われているか<どう伝えられているか<誰が言っているか

だと思っています。逆に言うと、正しい情報であっても「よく知らない・とっつきにくい人」から発信は受け取りにくい。キャスター個人ではなく、コーナー全体での親しみやすさが重要になってきます。

……という要素が端的に示されたのが、第18週「伝えたい守りたい」での台風対応。
キャスター陣の真摯な発信に加え、長いキャスター業で顔の広い朝岡はネット配信にも乗り出します。さらにモネは、番場川の異常を現地の老婦人(五十嵐さん)から受け取りました。
五十嵐さんがJテレを選んだのも「馴染んでいたから」だと思いますし、相手がモネと知って「あなたに言えて良かった」と安心していました。

つまり、タレント的要素も含めて、人気と共に培ってきた信頼感が、有事におけるシリアス面のコミュニケーションにも役立った、と言えます。

他にも。気仙沼でのラジオ発信にて、モネは「ずっと天気と仕事の話をされても困る」と突っ込まれていました。真剣さと親しみやすさは相反するのではなく、うまく協奏させていくものだ……というメッセージは感じられたと思います。
(ただ、過剰にタレント性を求めるのには慎重になった方がいいと思います……その点、前半の莉子はどこに向かいたいのか疑問でしたが)

ついでに。ウェザーエキスパーツで特に好きなのは、利益が出るか分からないチャレンジに人材とコストを割ける所です。研究への投資……!

震災による分断と「痛み」の位置づけ

そして。「被災地」の内部での、近しい人の間でこそ、震災により深い分断が起きていた……というのが、最終的な焦点でした。

「あまちゃん」では作品後半に震災が起きていましたが、今回は被災後から話がスタートしています。モネの心に影を落としていることは序盤から示されていましたが、基本的に「震災を経て、元気に働いている住民たち」というトーンが貫かれていました。コメディ調のシーンも多かったです。

僕も宮城にいたとき……2016年くらいかな。教育支援ボランティアで、被災地域の中学校に行ったことがありまして。びっくりするくらい生徒さんたちが元気だったのを覚えてます、かつての僕よりハイテンションだった。

ぱっと見る限り、街も人も元気なんですよ。外から想像するほど、陰鬱なムードを分かりやすく引きずっている人は少ない。今作でも、暗さが目立つのは前半の新次くらいでした。
しかし。心の深い所では、癒えない傷も許せない記憶も残っている。そしてそれは、近しい人とも分かち合えない、近しいからこそ分かち合えない。

たまたま故郷を離れていただけで、モネは「何もできなかった、みんなと世界を共有できなくなってしまった」と自分を呪い。
たまたま家の近くにいただけで、未知は「おばあちゃんを置き去りに逃げた」と、自らに償いを背負わせてしまう。

同じ場所で苦難を経験したようで、残った影響は全く別で、だからこそ当事者の間で分断が起きてしまう……ということを、丁寧に描いていました。災害を扱った作品の中でも出色の視点だと感じます。

街や産業は復興した、精神的にも再生したように見えた。
それでも心に残り続け、人を隔てていた傷を。受け容れ、分かち合い、許すこと。癒やしきれなくても、手をつなぎ一緒に歩いていくこと。

それが、「おかえりモネ」が辿り着いた答えだったと感じます。

また、被災経験は「強さ」となるのか……という観点にも触れられていました。
まず劇中、第17週「私たちに出来ること」にて。「傷ついた経験がある人は強いのでは」という莉子の発言は、菜津によって明確に咎められています。そして菜津の姿勢は恐らく制作者と一致しています、被害経験が部外者によりポジティブに解釈されることへの非難。何であれ、痛みは無い方がいいに決まってる。

一方で。
「起きてしまったことを、当事者がモチベーションとする」姿勢については、否定されていないと思います。モネの動機にも関わってきますし、三生が再び僧侶を志したときも震災に触れていました。災害ではないですが、朝岡がスポーツ気象を推進するのも自身の経験からです。
そして終盤。亮と未知の関係は、震災の傷を背負った同士の連帯や共感に支えられているようにも思えました。

恐らくですが、「外部から解釈をぶつけるのは誤りだが」「当事者が自分に結びつけるのは認めるほかない」というのが落とし所なのだと思います。あるいは、「進む力にすることで痛みが癒えるなら」という希望でもある。
同時に、動機にこだわる必要もないと描かれていました。自身の経験や体質から気象の仕事についている人が多いウェザーエキスパーツにも、莉子のように自分の理想だけで加わった人がいていい。けど、プロとしての責任は平等に背負う。

過去を切り離せはしない、どうしても未来につながってしまう人が居る中で、誠意ある提示でした。

コロナ禍への投影

震災による分断からの融和を、9年かけて描いた本作。
そのラストで描かれたのは(明言はされていませんが)コロナ禍によって隔てられていたモネと菅波の再会でした。

単に「会えない」だけではなく。日本全体の至る所で分断を引き起こしているのがコロナ禍です。
新しい生活様式により、ずっと守ってきた仕事を断念した人もいれば、新たなチャンスを見いだした人もいる。
学校行事が中止になった地域もあれば、注意しつつも実行できた地域もある。
同じ地域や職業であっても、自粛を続けた人もいれば、見切りをつけて遊びに繰り出した人もいる。

この2年、どうコロナと向き合ってきたか、向き合わされたか。その差は、コロナ禍が収束した後から、じわじわと人間関係に影を落とす……という懸念を、至る所で目にします。

コロナだけでなく。若者……というより、このnoteを読んでくださっている人は少なからず当てはまると思うのですが。SNSやネット発信の普及によって、個々人の感じている「世界」が大きく異なっている傾向も強まっているようです。少し前にカズオ・イシグロ氏が提唱した「縦の旅行」概念を思い出しもしました。


だからこそ、モネの「時間も距離も関係ない」という台詞が響きます。
深すぎる傷を経て絆を取り戻した亀島の人々の姿が希望になります。

ラストシーン、モネと菅波は手をつないで家へと歩き出しました。
恋人らしさを強調するなら抱擁のままでも、あるいはキスまで描いても盛り上がったでしょう(朝ドラでキスってOKなんだっけ)
そして「手をつなぐ」は、亀島の幼馴染みメンバーの仲直りでも描かれていました。

ここでの菅モネシーン、恋人の再会という「特別」なイベントではなく。
時間も距離も時代への向き合い方も異なった、普遍的な「人と人との間」を描いていたと感じます。

気仙沼編に入った頃から、僕は「終盤でコロナ禍やるんだろうな」と予想していました。実際、今でも観たいです。東京に行った未知はどんな学生生活を贈ったのか、観光が落ち込んだなか登米の森林組合はどんな手を打ったのか、外食による需要が下がれば気仙沼の漁業も打撃を食らうとか、鮫島選手とパラリンピックの波乱とか、医療最前線の菅波とモネの距離感とか。すごく気になるし、いいドラマになったはず。

尺の都合もあったでしょう。
けど、現在進行形で続くコロナ禍に対し、「こうして乗り越えた」は安易に描けない……という側面は確かにあります。
そして、コロナを描こうとすると東京に力点が置かれちゃうんですよね。登米や東京に舞台を移しつつ、最後にフォーカスするのは亀島(=かつての被災地)でなければいけない……という決断はあったと思います。亀島で始まった人生が、亀島に戻ってくるまでの話、という構図を貫いた。

それはそれとして続編は観たいぞ!!!


今回はここまでです、1.2万文字、お疲れ様でした……
「なないろ」が合いすぎてた話もまたしようと思います。よければご覧ください、ありがとうございました!


追伸:「MIU404」観てた人はこっちも読んでみてください!



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