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働く意味-『悩む力』(姜尚中 カンサンジュン)

こんにちは。

昨日、久しぶりに『悩む力』(姜尚中 カンサンジュン)を読み返しました。

本屋さんでカンさんの新刊を見かけて、
懐かしくなったので。

10年以上前(2008年)に出版されたものですが、
当時カンさんの指摘していた日本社会の状況は
今も続いていると感じます。

むしろもっと、のっぴきらないところまで進んでいるのではないでしょうか。

本のなかでもっとも印象的だったのは、
第6章-何のために「働く」かです。

カンさんはお金、他者から(へ)の承認をキーワードに
「働く」ことの根本的な意味について
自身の考えを展開されています。

【note 内容】

1:「働く」ことは生きること

2:私が仕事を辞めた理由

3:相互承認の前の自己承認

1:「働く」ことは生きること

私たちが生きていくためには、
子どもや一部の資産家を除いて
お金を稼がなければいけません。

そのためには「働く」ことが必要です。

専業主婦(主夫)であっても、
働く夫(妻)を支えることで
間接的にお金を得ていると言えます。

では、もし生活するだけの十分なお金があったら
人は「働く」ことを止めるのでしょうか?

カンさんはこの疑問に答えるために、
「アテンション(ねぎらいのまなざしを受けること)」
という言葉を使っています。

以下は、カンさんの考えを私なりにまとめたものです。

■個人主義が進んだ現代では、
宗教が以前ほど力を持たなくなり
生きる意味を個人で探さなければいけなくなった。

個人主義は自由であるが、孤独でもある。

■人と人とが断絶された現在のような状況で
生きていくためには、
人同士の相互承認が必要不可欠である。

相互承認のなかでしか、自我は存在できない。

■「アテンション」とは、
家族以外の社会的な他者から
仕事を通して自分を承認されることであり、
同じように自分も仕事を通して他者を承認すること。

■この相互承認こそが、現代の私たちにとっては
必要不可欠な「働く」意味になっている

(やりがいや夢の実現は、その次の段階)。

■だから、お金があったとしても
社会的な人間であるために、
私たちは「働く」ことを止めないだろう。

2:私が仕事を辞めた理由

仕事を通しての相互承認が「働く」意味である。

これについて、私には思い当たる節があります。

私が1年半ほど前に勤めていた会社を辞めたときのことです。

辞めた理由は複数ありますが、
そのなかに言葉にできない
モヤモヤした理由がひとつありました。

それが今になってふっ、
と分かった気がしたのです。

それは「私は替えが利く存在である」という、
やり切れない、さみしく、
脱力感の漂う気持ちでした。

売上が低迷していた会社で、
どれだけ頑張っても成果が出ない、
成果が出ないから認められない。

与えられた以上の仕事をしているのに
それが当然になっていて、
限界を超えてしまった。

私の場合は不眠症というかたちで、
先に身体が悲鳴をあげました。

3:相互承認の前の自己承認

自分で言うのもなんですが、
私はすごくまじめです 笑

追及したらいけない、
知らない・気づかないふりをしていれば過ごせてしまう問題を、
真正面から考えて悩むタイプの人間です。

昔は、そんな自分があまり好きではありませんでした。

でも、
今は「まじめすぎるのも一つの個性」
と開き直ったので、
自分を前よりも好きになりました。

その開き直る段階で必要だったのが、自己承認でした。

私が考える自己承認とは、
「自分の長所も短所も認めて、
どちらも良いよねと自分を励ます」

という意味です。

これは最初、なかなか難しいので、
何度も繰り返し練習することが必要でした。

(心の中で、「自分ってすごい!」とほめるとか。どんな小さなことでも良いので)

「働く」ことが社会のなかで、
人間として生きることだとすれば、
他者からの「アテンション」を待つだけではなく、
まずは自分がしたことを自分で認め、
ねぎらうことが必要だと思います。

そうすることで
他者がしてくれたことに対し
自分から「アテンション」をすることができ、
結果的に他者からの「アテンション」も得られるのではないでしょうか。


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