自分の身体とわたし
現在21歳。若者の身体は無茶しても何とかなっちゃったりするって聞いたことがある。
でも私の身体は気にしなくても何とかなるタイプではなく、よく対話して向き合ってあげないといけない身体のようだ。こんな感じの身体になったのは高校生の時。
「普通」に生きていくには少し不便な私の身体との付き合いを話したい。
そしてもしも今同じような状況で苦しんでいる人がいたらあなただけじゃないよっていうことと、私の経験や考えが何か少しでも役に立つといいなと思う。
【注意】この記事にはパニック障害について触れる場面があります。4、6、7章で特に症状についても触れています。苦手な方は閲覧をご遠慮ください。
また、ほとんど自分の体調不良についての内容なのでそういったものを読むと不安になってしまう、苦しくなってしまうという方も閲覧注意です。
1.元々の私の身体
幼い頃からよく発熱する子どもだった。ぼんやりではあるけど母と一緒によく病院に行った記憶がある。
小学生の時も定期的に発熱して学校を休んでいた。人よりそこまで身体が強くないことは自覚しつつも特に大きな支障は出なかった。
中学生になると身体が成長したからか、発熱することはかなり減った。学校に行きながら吹奏楽部に所属し、練習は大変だったけど3年間やり遂げられた。高校も無事合格。
いたって普通の中学生だったと思う。
2.高校1、2年生、扁桃炎との戦い
高校生になり、慣れない環境ながらも楽しんで学校に行けていた。中学校に引き続きまた吹奏楽部に所属し、大好きな楽器を吹くのが好きだった。友達にも恵まれて普通に高校生活を送っていた。
しかし、ある日を境に私は毎月高熱を出すようになった。正直に言ってしまうといつからこうなったのか覚えていない。気づいたらそうなっていた。
高校生の時に気づいたのだが、私は扁桃腺炎持ちだった。幼い頃から出ていた熱の時も、喉ではなく扁桃腺が痛かった。
恐らく扁桃炎が慢性化してしまったのだ。
熱が出る前日必ず予兆がある。うまく言えないのだが、嫌な感じがするのだ。そうなってしまうといくらその日早く寝たり、身体を温めたりして予防に取り組んでも無駄だ。絶対に翌日高熱が出る。
必ず38~39℃まで熱が上がり、それが2日続く。3日目になると37℃台まで下がり収まっていく。
4日目から登校できるかと言われると私はできなかった。私の高校は自宅から電車で約20分、駅から徒歩20分の所にあり、治りたてではその道のりを行くのが厳しかった。また、自転車は電車通学の人は使うことが禁止されていて、バスもあったが朝は激混みだったためあまり利用したくなかった。
そして5日目になってやっと万全の状態で登校できる。その間部活は休みっぱなしだし、授業にも出れていないので遅れていく。
今思うとめちゃくちゃ休んでるな…と感じるけど当時はそれが精一杯だった。だって、抗えない。どうにもできない。
所属していた吹奏楽部は活動が盛んで俗に言うガチの部活だった。平日も休みの日も練習は当たり前、演奏会などのイベントにも積極的に参加していた。
大変だったけど楽しく何より楽器を吹くことが好きだった。でも、身体にはかなりの負担になっていたようだった。
演奏会があって丸一日学校外で活動した時は特に反動で発熱しやすかった。
また、普通の練習の時も身体がどうしてもしんどくて早退することもあった。
皆は当然のように練習できているのに私はできない。やりたいのに、身体が追いつかない、言うことを聞いてくれない。周りにも休むことで迷惑をかけている。辛い、苦しい。どうして私だけできないんだろう。それでも好きだったからやめなかった。
高校2年生の時のコンクール。私の部活はオーディションでコンクールメンバーを決める形式で、もちろん参加した。
結果としては落選。落選したこと自体は仕方がないのだが、落選理由がしんどかった。
理由は「部活に安定して来れないから」。
合格した子は私と演奏のレベルは大きな差は無いと思っていたが、顧問の先生からは有り難いことに私の方が上手いと評価されていたようだった。でもコンクールは長期戦だ。それに本番当日に発熱したら結果に関わる可能性もある。当然の結果だった。
分かっている。自分が1番分かっていた。でも家に帰ってからめちゃくちゃ泣いた。こんな身体じゃなければ私はコンクールに出られていたのか。悔しいし情けないし辛いしぐちゃぐちゃだった。
でも実際には補助メンバーに回ったことで後輩と交流ができ、また苦手だった前に立って仕切る、といったこともやらせてもらえたのでとても良い経験になった。
しかし、そこで現実を見た私は本当は3年間やり切りたかったけど限界を感じ、2年生の最後の方で部活をやめた。
顧問の先生や同期は休みがちだった私のことを分かっていたから、変に引き止めたりはしなかった。むしろそれは有り難かったし、休みがちだったのにここまで活動させてくれたことに感謝したい。やめれば扁桃腺炎も落ち着くだろうと思って、寂しかったけど後悔はなかった。
3.高校3年生、手術する。
高校3年生になり、大学受験の年になった。しかし私はそれどころではなかった。
部活をやめれば収まると思っていた扁桃腺炎が全く収まらなかったからだ。
部活をやめたことで何を楽しみに学校に来ればいいのか分からなくなった。でも熱は毎月出る。空っぽだった。
そしてある日また発熱したので病院に行ったとき、診察してもらった先生から扁桃腺の摘出手術を勧められた。
全身麻酔の手術で約1、2週間の入院だったと思う。私は中学3年生の時全身麻酔の手術を経験していたのだが、かなり辛かったのであまり気が進まなかった。
でも生活していく上で支障が出ているのは事実。親と相談し、手術することになった。
入院、手術をしたのは8月で受験生の夏は重要なことがわかっていたので不安だった。でももっと身体が楽になるかもしれないと考えると頑張ろうと思った。
結果として手術は無事成功。顔が腫れて痛くてご飯が全然食べれないときもあったが、大きな問題もなく予定通り退院できた。担当の看護師の方たちも皆優しく親切で、良い病院に巡り会えたことに感謝したい。
手術して以降は全く熱が出なくなった。やっと、毎月の高熱から解放されたのだった。
手術費用を出してくれて、さらにお見舞いにも毎日来てくれていた家族には感謝してもしきれない。絶対親孝行する。
4.高校3年生、パニック障害になる。
扁桃腺炎から解放され、やっと受験勉強に取り組めると思った矢先新たな試練が待ち受けていた。
きっかけは本当に些細なこと。塾の先生と体調面で受験勉強の相談をしていたときだった。
先生が「学校に行くと腹痛がして授業に出れなくなってしまった子がいた」と話した。本当はその後それでも大学は合格したから大丈夫と言っていてそこの方が大事な部分なのだが、私は前半の方が記憶に残ってしまった。
その後、学校で授業を受けているとなぜかとても緊張して吐き気を催すようになった。教室にいられなくなって、保健室に行かせてもらうことが増えた。
保健室で休憩して、授業が終わった頃に戻るということを繰り返すようになった。
次第に電車に乗っていても同じ症状が出るようになった。だんだん電車に乗れなくなった。
たまに母が学校まで車で送ってくれるときもあったけど、そもそも教室にいられないのでちゃんと授業には出れなかった。
そして、学校に気付いたら行けなくなっていた。
大事な受験の時期。そもそも授業に出ないと単位が足りなくなってしまう。教室に入りづらくなる。クラスメイトはどう思っているんだろう。でももう教室にいるのは難しい。どうしよう。どうしよう。どうして。家にいる時は大丈夫なのに。
どうにもできなくてただひたすらに苦しかった。夜になると勝手に涙が出てきた。眠れなくなった。
学校に行かなすぎるので学年主任から母親と呼び出されたこともあった。サボっていると思われていたようで、ああこの人は一応学校の生徒である私を理解してくれないんだなあと悲しくなった。
もう卒業は無理かもしれないと感じ、通信制高校を調べていたときもあった。でも友達と別れるのは勝手に寂しく感じて踏み切れなくて、そんな自分にも呆れたし嫌だった。
人生のどん底と言っても過言ではなかった。
5.優しい人たち
人生のどん底にいた私だったが、高校には優しい人たちがたくさんいた。
まず、担任の先生だ。2、3年ともに同じ方が担任だったので私の事情をよく理解してくださっていた。
無理に学校に来させようとせず、学校に来れたときはさり気なく気にかけてくれた。
私の見えないところでたくさん働きかけてくれていたと思う。
私が無事高校を卒業できたのは確実に担任の先生のおかげだ。
次に、クラスメイトだ。正直に言うと学校に全然行けていなかったので3年生のときのクラスメイトとは深く付き合えなかった。
でも、私が学校に来れたときいつも普段通りに接してくれた。なぜ学校に来ないのかと誰も聞いてこなかった。
授業で休んでいたときに習った公式や文法を私がわからないときには付箋にささっと書いてそっと机の上に貼ってくれた。
そして学校に来ていない私のことを他クラスの人に全く話していなかったようだった。
噂は広まっているだろうとある程度の覚悟はしていたのだが、隣のクラスの仲の良い友達に学校に来れていなかったことを話したとき、知らなかったと言われてとても驚いた記憶がある。
思い返せすと扁桃腺炎で休みがちだった時も、テスト期間中でしかも休日なのに、勉強を学校で教えてくれた子がいた。
あんまり話したことがないのに、ラインで休んだ次の日の学校の予定を教えてくれた子がいた。
たくさんの優しい人たちに支えられていた。そして皆嫌な顔せず助けてくれた。私は多分この高校に来れていなかったら卒業できていないと思う。
また、塾の先生にもとてもお世話になった。私は中学生の時から通っていた塾に高校生になってからも行っていた。
最初は集団で授業を受けていたけど無理になってしまった私を見て、オンライン予備校を受けることを勧めてくれた。(そういうシステムも行っていた塾だった)
無理せず自分のペースでやることを教えてくれた。そっと見守っててくれたと思う。勉強面で学校の授業に出れていなくても、大学受験レベルに持っていけたのは塾の先生方のおかげだ。
最後に家族。学校に行けなくても何も言わなかった。どうにか高校を卒業できないか一緒に考えてくれて、勉強面もたくさんサポートをしてくれた。学年主任に呼び出されたときも一緒に行ってくれた母が謝るのではなく、私の身体の状況を説明しその上でサボっているという考えは違うとはっきりと話してくれた。私は何も言えなかったから、すごく助かったし嬉しかった。
さっきも言ったけど、絶対に恩返しする。
当時の日記を読み返すとかなりギリギリでよく大学受験を諦めなかったなというレベルだった。(大学生になりたいという執念があったからなんとかなったのかもしれないが…)
それでもなんとか乗り越えられたのは確実にこの人たちのおかげだ。本当に私は運が良いし恵まれた。感謝してもしきれない。私を助けてくれて、救ってくれて本当にありがとうございました。
6.大学受験本番、そして卒業
そんなこんなで色々不安定な中、受験がやってきた。
まず、電車に乗って会場まで行くのがかなりきつかった。電車にはなんとか乗れても、移動時間で勉強する余裕がない。受験会場に行くまでで精一杯だった。
会場についていざ試験となっても、緊張状態の中部屋から出られない、試験監督から常に見られているという状態がかなり辛く集中はできていなかったと思う。
何回か限界で途中でトイレに行かせてもらったこともあった。個室に入り1人になることで落ち着かせて、仕切り直してから戻りなんとか終わらせていた。
そんな状態だったので志望していた大学はすべて不合格。泣くというよりも大学に行けないかもしれないという事実にとても焦った。
そして受験料や交通費を出してくれている親に申し訳なくて仕方がなかった。
志望していた大学に全て落ちたので進路指導の先生に相談に行った。
その時勧められた大学が今私が通っている所である。
オープンキャンパスは1回も行ったことがなく、場所もあやふやだったけど、学科の勉強内容はなんとなく興味を持ったので受けることにした。
会場に行くと私の受けた学科は受験者数がとても少なかったので、圧迫感がなく安心して受験できた。(前年度倍率がとても高かったためその反動で私が受けた年は少なかったのだと思われる)また、科目数も少なかったため早く終わったことも私にとってとても有り難かった。
結果は合格。進路が無事に決まったことと大学受験を終えられた安堵で泣いた。
扁桃腺炎じゃなければ、パニック障害がなければ、もっと思うように勉強できたかもしれない。でもその時点での私はそれが精一杯だった。もしも、なんて考えてたところで変わらない。
そして高校も卒業することができた。卒業式当日は友達とたくさん写真を撮って、一緒にご飯を食べて家に帰った。高校での出来事は絶対に忘れないだろうなと帰りながら思った。
色んな人に助けられて、幸運に恵まれて、私は高校生活を無事終えられたのだった。
7.高校生の時にやっていたこと
パニック障害が来ると1番きつかったのが吐き気だった。調べてみるとミントが良いと出てきたので、常にミントの香りのスプレーを持ち歩いていた。
受験の時期は風邪予防のためにマスクをつけていたので定期的に吹きかけるようにしていた。
(私は専門の医療機関などに行っておらず、完全に自己流です。)
8.大学に入ってから変わったこと
大学生になってからは常にあったプレッシャーやストレスから解放されたからか、四六時中辛いということはなくなった。
パニック障害の症状も高校3年生のときに比べるとかなり落ち着いた。
しかし大学に通うなら電車には乗らないといけないし、教室にもいないといけない。そこでどうすれば症状がでないのか、症状が出てしまった時はどう対処するかの2点を考えることにした。
私の場合は
・ミントの香りがする物を常に持ち歩く
・深呼吸をする
・こうなってしまったらどうしよう…と考えずにできるだけ別のことを意識する
といったことを行うと症状が出にくいことが分かった。
症状が出てしまった場合は
・躊躇なくその場から出る
・頑張らない
が良いと分かった。
症状が出てしまうともうしょうがない。だって無理だもの。自分の身体第一!!と逆に開き直るようになった。
例えば授業中で外に出る時になにか聞かれたら、トイレに行くか、保健室に行きますと伝えていた。大体は保健室に行って休ませてもらって、落ち着いたら戻っていた。そして、その後は落ち込まないように意識していた。難しいけど。
電車内だったら速攻次の駅で降りていた。倒れるよりマシ!
でも抜けてしまったり休んでしまったときの授業は友達に聞いたりメモを見せてもらったりしてフォローするようにしていた。放置しても自分が困るだけだしそこで抜ける、休むって決めたのは自分だから。
高校生の時はいっぱいいっぱいで無理だったけど、落ち着いてからは客観的に見れるようになった気がする。
そして「この身体とどう付き合っていくか」は今後もずっと課題だと思う。
先程述べた方法も大学生だったからできたことであり、社会人になってからどうするかはまた考え直す必要がある。
また、私は医療機関に行っていない。専門の方に話すことで何か良い改善方法があるかもしれないので今後検討していきたい。
9.できるようになったこと
私の大学生活で1番大きな出来事は「大学2年生の時に語学留学したこと」だ。
イギリス・ロンドンに3週間ホームステイをしながら語学学校に通うというプログラムだった。
ずっと海外に行くことが夢だった私は自分で参加費用と滞在費を貯めて参加した。
パニック障害のこともあったし、2月に行ったので体調面も心配だったが、なんとかなった。
そして何よりも大きな自信になった。こんな私でもできる!って気づけた。
もしもやりたいことがあるけど躊躇っている人がいたら、挑戦してみてほしい。
状況は人それぞれで私が偉そうなことは言えないし、結果的にうまくいかないかもしれない。でもそれに向けて自分が行動したこと、経験したことは絶対に無駄にならないと思う。
あんなに体調がボロボロだった私ができたから、きっと大丈夫。
10.最後に
「普通」から外れて、苦しんで、あの頃には二度と戻りたくないけどそこじゃないと見えない景色や感情もたくさん味わった。この経験は絶対に無駄じゃない。私を強くしてくれた。
そしてこんな身体だったからこそ、人が苦しんでるときに寄り添ってあげたいと思うようになった。そして高校生の時に出会った優しい人たちのように、相手の状況を完全に理解できなくても気持ちを想像し考えて、そっと手を差し伸べられるような人になりたい。
もしも同じ状況で苦しんでいる人がいたら、あなただけじゃないよ!って言いたい。
しんどいよね、苦しいよね。
私はあなたじゃないからどうしても薄っぺらい言葉になってしまうけどどうか自分のことを責めないであげてほしい。
人と比べなくていい、自分のペースでできることから少しずつやっていって、何か少しでも行動できたら自分を褒めてあげてほしい。
とは言っても人と比べないって難しくてやっぱ無意識に比べちゃうことは今も正直ある!!けど!自分の中で少しでも成長とか進歩できたらはなまるだと思う!
今は大学4年生になって、また進路を考える時期だ。やっぱり「普通」とは違うから今後の人生が不安。就活しながら私は朝時間通りに電車に乗って会社に行って〜ってスタイルについていけるのか、ちゃんと働いていけるだろうかってよく考えてる。
それでも多分またなんとかしていくんだと思うし、実際ここまでなんとかなってるからきっと大丈夫だって信じてる。
この身体と付き合っていくために自分なりに最適な方法を探していきたい。
そして最後にここまで私を繋いできてくれた自分に感謝したい。あそこで踏ん張ってくれてありがとう。あなたがなんとか生きてくれたから今の私がいる。これからも死ぬまでたすきつなげるからよろしくね!!一緒に生きてくんだからね!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?