【小説】雨の日、白の行進。#月刊撚り糸
雨の日の昼食は決まってストックのカップうどんで済ますわたしを、御堂さんは外へ連れ出した。
五月雨が降りしきる通り沿いに人はおらず、自動車が水溜まりを跳ねながらわたしたちを追い抜いていく。通り過ぎた四階建てのマンションの窓にはほとんど明かりが灯っていて、こんな低気圧の昼下がりに彼はなにをしようというのだろうと思いながらも尋ねることはできなかった。
濡れそぼった景色はどれほど遠くを見渡したところで淀んでいる。スニーカーにくっついた落ち葉を払いたくて空を蹴ると、そのせいで靴紐が緩んで濡れた地面に垂れ下がった。
頭も少し痛くて、昨日の夜更しのせいで身体もダルくて、決して上向きではなかった気持ちが落下していく。それでも御堂さんがずんずん歩くから、仕方なくとぼとぼついていく。
わたしの家の近くにはいくつか小さな公園があった。そのひとつひとつに「梅の花公園」とか「どんぐり児童公園」とかありきたりな植物の名前が付いていて、御堂さんはその中から「ハナミズキ公園」を選んで入っていった。
そこは大した遊具がない代わりに鬱蒼とした雑木林が聳え立ち、アスファルトは明度を一段下げた。それでも彼の足取りは軽やかで、少し濡れた左肩など気にも留めていない様子だった。
「ねぇ、どこまで行くんですか」
「ん、ちょっとそこまで」
そう言って御堂さんは黒々しい木々の間を抜け、芝生が敷かれた広場に立った。公園の中央らしいそこは目の前に小さな池があり、静かに鳥が歌っている。風が吹くと葉の擦れる音が騒がしく耳を絡め取り、それがとても心地よかった。
「こんなところがあるなんて知らなかった、」
「だろ、外からは見えないんだ」
御堂さんはちょっと得意げに笑うと、唐突に空を見上げてぱったりと傘を閉じた。「濡れますよ」と言いながら手を広げると、湿った空気が肌の温度を下げるだけだった。
雨は、とっくにやんでいた。
それから彼はわたしの足元にかがみ込み、緩んでいた靴紐を丁寧に結び直した。左右が対象になった美しい蝶々結びは歩くたびにスニーカーの上で踊る。
鬱々とした曇天はまだ頑固に空を覆っていて、誰かがやってくる気配もない。しかし緑に囲まれた舞台はふたりのために誂えられたみたいで、濡れた景色が匂い立つようにキラキラ輝く。
わたしはまんまと罠にハマったみたいだなと思いながらも、今だけは指輪を外してくれる彼の気遣いが嬉しかった。
***
玄関の鍵を閉めるなり頭ごと抱き込まれ、容赦なく口付けられる。顎まで下ろしたマスクの不織布がくすぐったかったけど、ほんの一言を差し挟む隙間もない。しかし何度も何度も繰り返すそれは再会を喜ぶと言うよりも、スーパーの駐車場で大人しく待てができた犬を褒めるような、そんなやり方だった。
わたしは玄関に降りるために履いたサンダルをバタバタと脱ぎ捨て、御堂さんを奥の部屋へ通した。彼も薄っぺらなレザーのバッグと濡れたコートを廊下に捨て、わたしの首筋に指を這わせながらベッドへなだれ込む。
そのまま躊躇いもなく脱がされた衣服が力なく床に横たわるのを見ていると、御堂さんはつ、とわたしの太もも二度撫でた。
「女の子の身体って案外痣とか傷が多いよね。皮膚が薄いっていうかさ、特にみつきは多い気がする」
「嫌い?」
「いや、女って感じでそそる」
そう笑ってわたしの肌に歯を突き立てた彼の背に、薄く開いた扉からリビングの明かりが追いかけてくる。かすかに破裂するような音もして、すぐにお湯を沸かしていたケトルだと気づいた。
今夜は雨が降っているから温かいものが良いだろうと思って沸かしていたけど、そんな必要もないほど御堂さんの手は熱く湿っている。肩口をくすぐる短髪だけが湿気を含んで冷たく、このご時世だというのに外からやってきた彼が手洗いすらしていないことは指摘できなかった。
男の人によっては終わったあと急に態度を変えることがあるらしいけど、御堂さんは必ずコップ一杯の水を汲んできて、それが飲み終わるまでベッドで話をした。大抵はとりとめのないことを並べるから、わたしはそれを深読みしないよう慎重に両手で受け取る。
しかし今日の御堂さんはいつもどおり何でもないことを喋るみたいにしながら、真っ白なシーツとベッドの間に爆弾を投げ込んだ。
「来月末からって、そんな急に」
「いんや、三ヶ月前から決まってたんだよ」
これだからサラリーマンはつらいよなーと愚痴りながら波々とついだコップの水を半分ほど飲み干した。みつきもいる? と差し出され、咄嗟に首を振ってしまったあとに喉がカラカラだったことに気がついた。
「嫁さんも娘も『1年で帰ってくるんだったら行かない』って平気な顔で言うんだぜ。これで晴れて福岡の単身暮らしが決まったよ」
自虐的に言ってから「でも福岡はメシがうまいって言うしな」とわずかに嬉しそうにした。
御堂さんは他人がいようがいまいが自分のペースを保てる人だ、会社の都合でどこへ飛ばされたところできっとうまくやるんだろうと容易に想像がついた。この部屋だってわたしの好みで選んだものに囲まれているはずなのに、不思議とすべて彼の好きにされているような気がする。
なのに、突然いなくなるという。
キッチンへ水を取りに行くときに御堂さんがつけたルームランプは鈍くオレンジ色に灯り、かえって暗さばかり強調している。わたしは普段こんなものに照らされて眠っているのかと思うとふつふつと孤独が湧いてくる。冷えた素足を泳ぐようにバタつかせると、大きな足にあたった。
「ん、どした」
彼が振り向くとコップの水が揺れ、内側についていた小さな気泡が次々に水面へと打ち上げられる。わたしは禁止されたわけでもないのに発言を許可された気持ちになって、できるだけ甘えた声ですがるように「わたしのことは?」と尋ねた。
「バレてないよ。『夜分遅くにすみません』でメッセージがはじまってると無条件で仕事のことだと思うみたいでさ、我ながら名案だよね」
悪びれる様子もないその唇は、奥さんと娘さんを「冷たい」と言っていたのと同じものだとは思えなかったし、ましてや先程まで情熱らしく肌を啄んでいたものとも違っていた。
だけどわたしから見たら矛盾する事柄も、御堂さんの中ではなんら問題なく共存している。そして気が向けば時々会うだけの女の質問の意味も、彼は取り違えたまま別の話をはじめるのだ。
***
御堂さんが帰ったあと、浴槽に湯を溜めた。バスルームの内倒し窓から覗くと雨はいつの間にかやんでいて、ぽつぽつと心細そうに星が出ていた。
傘を差さなくていいなら、と思ってお風呂が沸くまでの間に近くのコンビニへ牛乳を買いに行く。腹が減ったと言って彼が飲み干していった牛乳は、わたしが起き抜けに飲むために用意しているものだった。
家から一番近くの店まで、できるだけ街灯の多い道を選ぶ。最短ルートに比べると少し遠回りになったけど「女の子なんだから」と言った御堂さんの言葉に素直に従っていた。
誰ともすれ違うことなくコンビニに着くと、駐輪場の端っこに毛むくじゃらが座っていた。それは犬に慣れていないわたしが無遠慮に撫でるのには少し大きすぎて、しかし腰を落とさずに目線を合わせるのには少し小さすぎたから、何もできずに横目で見ていた。
だが彼がずいぶん行儀よく伏せをしているせいか、わたしと入れ違いで店を出てきた女性から「いい子ね」と笑いかけられていた。牛乳をポリ袋に入れてもらって店を出た頃、もう犬はいなかった。
都会の街中でもないくせにこのあたりの空はいつも淀んでいた。もしかすると日本で最も雨が多い場所なんじゃないかと思って調べたが、そんなことは決してなかった。
なんだかんだ言っても、御堂さんはわたしを捨てたりしないと思っていた。わざわざ断ち切るほど興味がないことの裏返しでも、つなぎとめてくれさえすればよかった。
でも、わたしは彼の犬ですらなかった。ただ通りすがりに「かわいいね」と撫でられただけにすぎなかった。だってわたしたちのセックスは『夜分遅くにすみません』からはじまるのだから。そんなのって良い笑い草だ、そう思ったら手の中からポリ袋が滑り落ち、凹んだところから白い液体がとくとくと音を立ててこぼれていく。お腹の底がくつくつと熱くなった。
びちゃびちゃになった牛乳パックを拾い上げ、白い斑点をつけながら家まで歩いた。帰るとちょうどお風呂が沸いたところで、わたしは牛乳を含んで臭くなった靴を洗濯機に突っ込んで湯に浸かる。
なぜか頭の中でカントリーロードの歌がめぐり、口ずさむ。明日はいつもの僕さ、帰りたい、帰れない、さよなら。
「女の子は傷つきやすいって知ってるくせに、」
言えばよかった、と思うことの大抵はひとりになった頃ようやく追いついてくる。
優しいことも、冷たいことも、楽しいことも、彼の中ではすべてが均一に注がれている。それが本来人間らしいことなのだろうけど、わたしはそれを信じたくなかった。
優しいだけなら辛くたって平気だったし、冷たいだけなら離れられたし、楽しいだけなら友だちになれた。そのどれもないなら、諦められた。
浴槽から上がって、鏡越しに自分の身体を見た。彼の言った通りいくつか覚えのない傷があって、その全部が御堂さんのつけた傷だったらよかったけど、おそらくは机の角にぶつけたり、ものを強く押し付けたときについたものだろうと思ったら泣けもしなかった。
わたしの身の振り方を、御堂さんは決めてくれなかった。だから、自分で決めなくちゃいけない。
下着もつけずにリビングへ出て、戸棚から救急箱を取り出す。薄く埃を被ったケースから適当な軟膏を選んで裏面を見ると、効能の部分に「内出血」とあって、わたしはくしゃみが出るまでそれを繰り返し読んでいた。