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そして透明は鼓動をはじめる。 #月刊撚り糸


 それなりに格好の付きそうな言い訳を並べたところで、反則的に漏れた本心を上回りはしない。

 瞬間的に弾き出された答えがすべてであり、あとに何を塗り重ねても必要以上に湿り気を帯びるばかりで、根腐れさえ起こしそうな気配に思わず溜息を吐いていた。

 二階へ続く階段の中腹で足を踏み外したとき、咄嗟に「辞めよう」と決めた。それは脈絡もなく、だが妙にくっきりと私の中に居座り、見ないふりもできそうになかったから病院の帰り道に簡素な便箋と封筒を買った。
 何度か書き損じてもいいように、二セット。

 翌月、利き足に軽い捻挫を携えたまま退職の挨拶をすると、二、三人の同僚に引き止められた。私が辞めれば受け持ちの仕事は誰かしらに分配されるし、現時点ですでに慢性的な人手不足だった。
 罪悪感も自責の念もあったが、それでも春の終わりには三年務めた会社を去った。

 問われれば答えはいくつでも用意できた。
 評価を盾にサービス残業を強いられることや、得意先へ配る販促物の費用が天引きされていたこと。今どき嘘みたいな、しかし給与明細に記載されたあざ笑うような数字のこと。同僚と訪れた安い居酒屋で「あのクソ会社、絶対労基に訴えてやる」とくだを巻いたことが何度もあった。

 しかしどれひとつとして、あの強烈な気持ちとイコールで結ばれることはなかった。

 急激な芽生えだった。
 真っ更な論証問題にたった一言だけ書くみたいに、それは産まれてきたのだから仕方がなかった。余計な言葉は並べるほどに陳腐さを増していくし、同情を向けられるのは気持ちが良いものでもないと知った。

 二ヶ月ほど経った頃、私は東京から故郷の小さな町へ帰った。



 見慣れない横文字に目が止まる。
 それは浅瀬を泳ぐ熱帯魚のように鮮やかだったが、同時に触れることを躊躇うような未知でもあった。ひらひらと軽やかそうなのに、口に出してみればどう発音して良いのかわからず、首を傾げたところに正解が降ってきた。

「それ、間壁さんのことよ」

 後ろを通りかかった同僚が開いていた名簿を覗き込む。これでしょ、と指差されたのは今まさに声にし損ねたカタカナだった。

「本名はそっちなんだけど、みんな元の名前で呼んでるの」
「あぁ、なるほど。ご結婚されたんですね」

 そう言うと、同僚は首を振り、覗き込んだ顔をさらに近づけてきた。

「逆よ、逆。離婚したの。間壁は元奥さんの苗字」

 潜められた声に、今度は「なるほど」と言えなかった。

 産まれ故郷の町で見つけた新しい職場は、地名を冠した小さな運送会社だった。人手不足による事務職の募集らしかったが、土地柄なのか大抵は定時で帰れるし、殺伐とするほどの仕事量もない。代わりに給料も安かったが、実家から通えば貯金もできるくらいの額があった。

 間壁さんといえば、入社して間もない私にとってそれほど印象深い人ではない。そもそも内勤者とトラックドライバーとでは仕事の抑揚が違い、あえて腰を据えて話すような機会もまだなかった。

 頭の中に描いた彼は、出来の悪い塗り絵のように拙い。ろくに色が乗っていない上、肝心の輪郭も迷い線が荒く目立っていた。
 唯一特徴らしいところを挙げるなら、見上げるように高いトラックの運転席で煙草を吹かす横顔や、フォークリフトを操作するときの険しい目つき。
 仕事場での彼は決してとっつきやすい人ではなかった。

 その彼が、という気持ちが大きかった。顔や身体つきだって日本人らしさの範疇で、猫背気味にカーブを描いた背中は錆びた田舎の景色に溶け込んでいる。
 名前がその国の顔を作るわけでもないとわかってはいたが、鍛えた金属のような佇まいに、カタカナ表記の苗字だけが酷く浮いて見えた。

「意外よねえ」
「あ、えぇ、そうですね」

 こっくりと頷くと、同僚の指がすっと紙の表面を撫でた。

「普段は硬派な感じなのに、案外女の人の尻に敷かれるタイプなのかしら」
「え?」
「だから苗字の話よ。いくら日本の姓じゃないとはいえ、婿入りなんて、ね」

 言い終えると同時に背後の気配は離れ、床を踏む硬質な音ともに消えた。残された私は指の下の文字をもう一度発音しようと試みたが、やはりうまくはいかなかった。

 そうだった、ここはこういう場所だった。足元に迫る濁った水で自分の居る場所を認識するみたいに、故郷へ帰るということがどういうことなのかを、私はようやく理解しつつあった。

 くるくると風見鶏が踊っているような町でもあり、カラコロと閑古鳥が鳴いているような街でもあった。時間は花びらが零れるように過ぎ、山のような落ち葉が折り重なったまま朽ちていく。

 人が歩くところには必ずレールが敷かれている。それも使い古され、擦り切れて赤黒く光るレールが。この町に限らず、未だにそう信じている人は多いのだろう。

 そういう意味では間壁さんだけでなく、私だってきっと良い放談の種だ。東京でそれなりの大学を出て就職したはずの娘が、持つものも持たずに田舎へ戻ってきたなど、いくらだって想像の膨らみようがある。

 それでもさほど居心地が悪くないのは、単純に歳のせいだった。どこへ行っても若者の少ないこの土地では「話が合わない」というポーズが不躾な視線や質問の盾になる。
 そのせいで軽んじられようが、今はどうでもよかった。ただ静かに淡々と、過ぎていく時間を歩く感覚が心地よかった。



 どこにでも咲いている花に名前が付いただけ。たったそれだけなのに、知ってからというもの白く細長い花弁が風に揺れるのを一層良く見かけるようになった。

 アベリアは東京で務めていた会社の雑居ビルの屋上に植わっていて、隣でダルそうに電子タバコを咥えた先輩が気まぐれにその名前を教えてくれた。社会人になって唯一できた気安い相手だったが、私が辞めるより二年も前にいなくなり、それ以来連絡を取っていない。


 間壁さんのことも以前よりはいくらか詳しくなった。出来損ないだった塗り絵に明確な線が走り、淡いながらも全体に薄っすらと色が入って人間らしくなっていた。

 まず、彼は思っていたほど無愛想な人ではなかった。
 言葉数は少ないが話し方が丁寧で、何かを説明するときには新入りの私にもわかるように言葉を選んでくれる。仕事のミスやトラブルには厳しいが、不機嫌さを引きずらない。煙草を美味しそうに吸うが、甘いものも同じくらい美味しそうに食べる。作業着に油染みや汚れが目立つが、靴だけはいつも綺麗にしている。
 一度意識に昇れば存外些細なことまで見えるものだった。

 だが載せられる色はそれが全てで、それ以上は濃くも薄くもならず、気がついた事柄を話題に親しくなるようなこともなかった。
 間壁さんの寡黙さ以上にそもそも顔を合わせる時間が少なかったし、何よりきっかけもなく一回りは歳の違う男性に気安くなれるほど、私は陽気な人間ではなかった。


 「真野ちゃん」

 暗がりから名前を呼ばれ、すぐに言葉が出てこなかった。間壁さんの方も、定時をとうに過ぎたはずの私が事務所の裏口に現れたことに驚いたのか、すぐに二の句を継がなかった。
 代わりに彼の足にまとわりついた一匹の猫が「にゃあ」と行儀よく鳴き、黙りこくった夜にささやかな明かりを灯した。

「珍しいね、忘れ物?」
「あ、はい。ちょっとお財布を」
「この辺、夜は暗いから気をつけなね」
「ありがとうございます。で、えっと、間壁さん、その子、」
「うん、猫だね」
「さすがに見ればわかりますよ」

 だよね、とつぶやいた困り顔が面白くて思わず笑ってしまった。

 これはあれだ、今年から幼稚園に通っている甥っ子が両親から怒られると察したときの、あの顔に似ている。

 尻尾をくにゃりと揺らす子猫の頭を撫でながら、一ヶ月くらい前からかな、と間壁さんは言った。

「持ってた煮干しやったらすっかり懐いちゃって。住み着いたらどうしようかと思ったんだけど、案外賢いやつでさ、俺がひとりのときに限って遊びに来るんだよ」

 いつもよりほんの少し早口で説明しながら、間壁さんは持っていた猫用のおやつの袋の口を丁寧に折りたたんだ。確かによく懐いているようで、間壁さんの靴にぴったりと身を寄せて離れず、よく磨かれた革には白い毛が張り付いていた。

 もしかして、このために彼はいつも靴を綺麗にしていたんだろうか。

「私も好きです、猫」

 そう言うと彼はほっと息をつき、わずかに色づいた笑みで子猫の顎を撫でた。


「間壁さんの名前って、どこの国の名前なんですか」

 事務所へ戻りながら聞くと、間壁さんはまた困った顔で首を傾げた。
 付けっぱなしになっていたテレビから平坦なニュースキャスターの声が流れてきて、隣県の山の火山活動が活発化しているとしきりに繰り返す。

「たぶん、ピンとこないと思うよ」
「そんなに珍しいところなんですか」
「うん、自分でも時々忘れるくらい」

 そう言って笑いながら間壁さんは続ける。

「母親は日本人だし親父も日系だから、昔からよく驚かれる。この顔で、あの名前だからね」

 そう話す彼の声は柔らかく、しかしどこか他人事のような空気を含んでいた。ただ事実だけを話しているという口調が遠くもなく近くもなく、これ以上ない距離感で線引きされているように思えた。

「だから“間壁さん”にしたんですか」
「うーん、どうだろうなぁ。単純にあれこれ言われなくなるならいいなと思ってたのもあるけど、」

 小さく唸ってから、彼はすんなりと言った。

「普通になってみたかったのかもしれない」

 子猫のおやつをロッカーの上の棚に仕舞い、間壁さんは雑然と散らばったパイプ椅子のひとつに腰掛ける。つられて私も別の椅子に座ると、背後の窓を夜風が弱々しく叩いた。

「誰にだって自分とは違うものに憧れる時期があるでしょ。もし金持ちだったらとか、スポーツ選手だったらとか。それと同じで、自分が想像していたものが一体どんなふうなのか知りたかったんだ。思ってもみないところで他人の口から自分の名前が出てきたりしないような、失敗したり間違ったときに辻褄が合ったって顔をされないような、そういうのってどんな感じだろうって。なんて、相手にとっちゃいい迷惑だろうけどな」

 間壁さんは喋りながら胸ポケットに手をかけ、あまりに自然な動作ですぐに下ろした。吸ってもいいですよ、と言うタイミングを見つけられないまま、私は擦ったような傷の目立つ床を見つめていた。

 人は生まれ落ちた瞬間から、すでに同じではいられない。他人とは違うものを持たされて急速に流れ始める時間を止めることもできず、必死で両手を伸ばしてもがき続ける。どす黒い波間に溺れそうになりながら、あるかもわからない光を「確かに見た」と言い聞かせながらもがき続けている。
 たとえ光る桟橋の端を掴んだって、私達を他愛もない波がさらっていく。

 そうして流れ着いた先で咲けと言うのなら、まったくもって神様は悪趣味だ。

「もう、平気なんですか」
「ん、なにが?」
「えっと、その、」

 言葉にするのを躊躇ったのは、それがどう言っても彼を貶めるものになりそうだったからだった。

 ごく最近まで関わり合いのなかった他人が彼のアイデンティティについて口にするなど、ましてやその心の内側を知ろうとするなど。彼の傷を心配する権利がないとわかってもいるし、土足で立ち入るような真似をしたいわけでもなかった。

 しかしあまりに間近に感じた気配に、私の唇は酷く曖昧に言い淀んだ。

 ふ、と溜めた息を吐く音が聞こえた。空気の塊が鞠のように床を弾んで転がり、私のそばへ落ちる。付けっぱなしだったテレビはニュース番組が終わり、人気のバラエティに変わっていた。

「はじめて真野ちゃんが歳相応に見えた」
「なんですか、それ」
「ほら、普段は周りの年齢層に合わせて落ち着いた感じに振る舞ってるでしょ。だからそんな顔、見たことなかったから」
「私、どんな顔してました?」
「近所の幼稚園児が家から三十秒のところで迷子になってるみたいな顔」

 近くに座ってたら殴ってました、と言うと間壁さんはおかしそうに肩を震わせた。

 これから夜間の配達に出るという間壁さんについて事務所をあとにすると、頭上に瞬く星がくっきりと夜を縁取って空にはめ込まれていた。まだ真夜中でもないのにこの町は暗く、そして美しかった。

「間壁さんって夜勤多いですよね」
「他のやつは家族がいる人も多いし。まぁ、俺は特になんもないから」

 間壁さんの言葉はまた、どこか他人事のように平坦な調子で闇に溶け込んでいく。夜が似合う、というのは果たして褒め言葉になるのだろうか。

 この人は、優しい人だ。通り過ぎてきた急流を懐かしく思うような眼差しが、一回りという年齢以上に感じられる余白が、間壁という人を取り囲んで離さない。 

 それだけに、胸が騒いだ。
 駐車場までの道は言われた通り街灯が少なく、時々ぬかるみに足を取られながら歩く。

 縫い糸の始末のようにそれは巧妙に、素知らぬ顔をして隠されていた。しかし隠すということは"ある"ことの証明だ。はぐらかすのは、そこに痛みがあるからだ。
 彼の傷はまだ、痛むのだろうか。

 田舎道はすらすらと月へ向かって進み、自然と家路を急がせる。バッグから車のキーを取り出したところで、咆哮のようなトラックのエンジン音が聞こえた。



 ディスプレイに名前の表示されないのっぺりとした電話番号に、私たちは困惑していた。

「誰か、行ける人いる?」

 同僚の問いかけに反応する人はいない。膜を張った静けさが昼下がりの陽光と不釣り合いに私たちを包み、何もかも有耶無耶にしようとしていた。

 ニュースでもバラエティ番組でも、どのチャンネルをつけても、それは常に流れていた。近県の火山が水蒸気爆発を起こしてからというもの、緊急速報の赤い帯に巻かれた画面は肩身狭そうに控えめな顔をしていた。

 さほど大きな被害は出ていないらしかったが、想像もつかないくらい大きなものの尾を見てしまったような、そんな雰囲気がそこはかとなく漂っていた。

 その矢先に入った電話は、どうということもない配達の依頼だった。月に何度かはあることで、無理な条件でなければ引き受けるのが大抵だが、メモを取る同僚の手が行き先を書き留めるところで止まった。

「断ってもいいんじゃない」

 ひとりの言葉に、誰も積極的な肯定をすることはなかった。
 しかし同時に否定の言葉もなく、自然とそれが総意になっていくことを、きっと多くの人が望んでいたのだと思う。

 隣人からかけられる迷惑を厭わないのが人の情なら、他人からもたらされる惨禍を拒むのは人の性だ。得意先でもなく、以前から予定されていた仕事でもない。ましてや行き先が行き先だ。いくら危険区域でないとはいえ、急流を横切って対岸へ渡りたい者などいないし、それを咎められる者もまたいない。

 沈黙にみんなの足並みが揃いかけた時、その人はこともなげに言った。

「あぁ、俺、行きますよ」

 低い声はよく手入れをされた刀身のようなのに、語尾にかけて失速しない丁寧さが間壁さんだった。
 他のドライバーが口々に心配したが、彼が「ここ、知り合いがいるんで」と笑うと寒々しい空気は徐々に溶けていった。

 彼が机の間を横切った時、ほんの少し甘い煙草の煙が香る。

 私はまだひとり、困惑の中から抜け出すことができなかった。



 食器棚でもいい。本棚でもいい。薄型の液晶テレビでもいいのだけど、なにか大きなものが倒れかかってくる時、咄嗟に考えるのは「支えなくては」ということだ。
 内側から湧き上がる地鳴りと揺れの予感にシンクに重ねた皿を押さえた経験が私にもある。

 だが、倒れかかってくるのが古い石垣や大木ならどうだろう。とても支えきれるはずもないから、出しかけた両手を引っ込めて素早く身を交わす。当然そうすると思っていた。
 それは無知などではなく、幸いにもいざという瞬間に立ち会わなかっただけであり、支えられるはずのないものを「支えなくては」と考えてしまう愚かさが人にはあるとまだ知らないだけ。


 テレビを消すと静けさが痛くて、ろくに見てもいない深夜番組の音量をあげる。若いアイドルの女の子が手を叩いて笑っている姿が映ると、ほんの少しだけ落ち着かなかった気持ちが紛れた。

 間壁さんが戻ってきたのは、午前二時を過ぎた頃だった。

「真野ちゃん、どうしたの」

 普段は眠たげな目が縦に開かれ、間壁さんは忍び込む北風を遮るようにして扉を閉めた。

「もしかして、待っててくれたの?」
「違います。待ってません、断じて、待ってないです」

 そう言ってはみるものの、ぽかんとした顔がいたたまれなかった。下瞼に張り付いたまどろみを擦っても、自分ですら飲み込めないような言い訳しか出てこなくて、つい少し前まで持て余していたはずの時間が恨めしかった。

「待ってないけど、お腹が空いたので間壁さんが冷蔵庫で冷やしてたプリン、食べました」

 間壁さんの上着を脱ぐ手が止まった。ぶつかった視線に耐えられそうにないのに、つけたままのテレビの音がどこか遠くて役に立たなかった。

 実のところ、どうしてこんなことをしているのか自分でもよくわからなかった。とても難解なことを考えていたような気がするのに、振り返ってみれば酷く簡単なことのようで、うまく言葉にはならなかった。

 ただ間壁さんという人を見ていると、彼はきっと押し潰されるとわかっていても支える側の人だろうと思った。「俺は特になんもないから」と平然と言ってのけたことが、何度も頭の中を巡って離れないのだった。

「いいよ、買ったことも忘れてたし」

 間壁さんは上着をハンガーに掛け、応接用のソファに浅く腰掛けた。
 寒そうに赤らんだ顔は緩み、呆気にとられたような沈黙の糸は知らぬ間に千切れていた。かすかにほころんだ唇だけが薄っすらと白く掠れている。

「あとおやつも。子猫が来たので勝手にあげちゃいました」
「はは、食べ物くれる人がわかるなんて、あいつも現金なやつだな」
「怒らないんですか」
「どうして。怒らないよ」

 怒るわけないよ、と繰り返した声はとても優しかった。その優しさの分だけ、私の中の何かが激しく動いた気がした。

 はじめに思い出したのは子猫のことだった。そんな馬鹿なことを、と思うのに、間壁さんがいなくなったらあの子に誰がおやつをやるんだ、とも思う。

 こんなことを考えるのはあの夜のせいだ。絶対に、彼のまとう夜のせいだ。

「私は、怒ってます」
「え?」

 また、その顔。間壁さんの表情の幼さに喉の奥がぐるりと籠もる。しかしそれでも声は力任せにぎこちなく歩みを止めない。

「知り合いがいるって、あれ、本当ですか」

 間壁さんの目がはっきりと私を見た。目を逸らさないように気をつけながら唇を引き結ぶと、間壁さんは困ったように少し笑った。

「急な飛び込みの依頼なんて、懇意でもないうちみたいな小さい会社には普通来ないから。よっぽど困ってるんだろうと思って。俺、そんなにわかりやすかった?」

「そういうわけじゃないですけど、」

 あの時、本当は誰もがわかっていた。受話器越しに漏れる掠れた声を、泣きそうに震える手を、みんなわかっていた。わかっていたけど応えようはとはしなかった。
 それは誰に咎められることでもない。

 だから間壁さんの笑顔に安堵した。問題が解決したわけでもないのに、与えられる言葉を水のように飲み干した。
 みんな安心して気づかずにいられたのだ。

 わかりやすくなんてない。
 あの瞬間、凍りつきそうな部屋を満たしたものは確かに温かく、間壁さんはあの場所で誰よりも巧妙に大人だった。

 ただ私だけがあの平らかな言葉の連なりを、隠すのは“ある”ことの証明であることを、誰にも知られないままでいたかもしれない湿った痛みの在り処を。
 ただ私があなたを、見ていただけ。

 ふっと両手の力が抜けた。空回っていたものが自然とほぐれていくように、緊張がずるりと落ちて灰になった。
 間壁さんに向かって「はい、わかりやすかったです」と口角をあげると、照れたように眉根を寄せるのがおかしかった。

 急激な芽生えだった。
 答えははじめから用意されていたようにも思えるが、この瞬間が訪れるまではあまりの透明さで息を潜めていた。それが今では呼吸に合わせてゆっくりと上下し、鼓動すら感じられる。

 夜が明度を下げていくのと裏腹に、部屋の温度はひたりと上がる。テレビから流行りの音楽が聞こえてきて、二人の間をいたずらに埋めていく。

「聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「なんて呼ばれたら嬉しいですか」
「そんなことはじめて聞かれたなぁ」
「誤魔化さないでください」
「誤魔化してないよ」
「本当の名前で呼ばれるのは、嫌ですか」

 間壁さんの視線が宙に浮く。
 何かを考えるように低く唸った声は万年筆で引いた線のように柔らかく、そして唐突に途切れた。

 間壁さんの目尻が笑って、

「どうだろうね」

 と、はぐらかした。隠していることを隠そうともしないその仕草で。

 「飯でも食いに行こう」と言う間壁さんと連れ立って外へ出ると、寝静まった町の景色に雪を撒いたような光が乗っていた。遠くの空が白み始めている。風は吹くのをやめ、ぬくもりが差し込もうとしていた。

 私達は近くのファミレスの明かりを目指して歩く。冷たい指先に心臓の音が鳴る。白い息を吐くたび、それはゆっくりと呼吸する。




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七屋 糸
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