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短編小説_秋に馳せる。#月刊撚り糸


 その寿司屋の制服はうさぎの目のような色をしていた。

 女の子の胸元には「研修中」の札があり、眉の薄い顔立ちからまだ高校生くらいだろうか。アルバイト、というよりは職場体験に近い。
 うさぎの色が一層濃くなる。

 レジ前で新米店員とその男を見つけたとき、俺の口からは反射的に「あ」と漏れた。それは「あ、やっちまった」の「あ」であって、「あ、大丈夫かな」の「あ」ではなかった。

 だが気が立った男にそんなことは関係ない。怯える少女に向かっていた顔がぐりんと曲がり、男の口から「あ」と漏れた。それは「あ、お騒がせしちゃって」の「あ」でも、「あ、お会計待ってます?」の「あ」でもなかった。

 容赦ない一発が頬に飛ぶ。寿司屋の床は案外固かった。見上げたやつの身長は180センチオーバー。男だって怖い。

 頭に走った衝撃で視界がチラチラと点滅する。寿司屋のレジ横って必ずガチャガチャが置いてあるの、なんでなんだろう。うさぎのような目をした女の子が他の店員を呼びに走る。

 目も覚めきらないうちに、また理不尽が振りかざされる。今度は鼻か、腹か、また頬か。視線は感じるものの救いの手は差し伸べられない。
 まるでまな板の上の鯉だ。せいぜい痛くしないでくれ、とじっと身を固くした。


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 ベランダで煙草を吸っていたら気がついた。昨日はなかったものが煌々と真夜中に佇んでいる。

 自販機だ。つめた~いとあったか~いが半分ずつ詰め込まれた自動販売機が向かいのアパートの玄関口に設置されていた。

 はじめのうちは便利に使っていた。
 通う大学も最寄駅も歩いてちょうど30分の木造2階建てアパートはコンビニも遠く、愛車の黄色いベスパが死んだときは途方に暮れていた。手軽に飲み物が手に入るだけでもありがたい。

 だが便利さを隣人にするということは、決して良いことばかりではなかった。

 たとえば、あるおやじは決まって木曜日の深夜に大量のドクターペッパーの空き缶を捨てにやってくる。区指定のゴミ袋をサンタのように肩に担ぎ、昭和の結婚式みたいな甲高い音を鳴らしながら。カコン、カコン、と長ければ15分くらいは捨て続ける。いつも明らかに似合っていない派手なジャージを着ていた。

 いい加減にしろよ、クソ。これじゃあ気軽に煙草も吸えないじゃないか。カーテンの隙間を覗きながら思う。
 思うだけ。


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 はじめて彼女を見たのは、その年最後の台風が去ったあとのことだった。

 ベランダで煙草を吸っていると、目の前を気の早い毛糸のマフラーが横切った。黄色と黒のストライプで、鬼太郎のちゃんちゃんこのような模様のマフラー。自然と目がさらわれる。

 マフラーはあたりをきょろきょろしながら歩いている。仕草が幼い。だが顔はとびきりの美人。散歩中のブルドックも彼女のことを凝視していた。

 女の子が自販機に駆け寄る。喉が渇いていたのだろうかと思ったが、一向に金を入れる様子がない。
 ただ自販機のラインナップをひとつひとつ指差していく。一番上の右端からはじまり、つづら折りに段々と降りていく様子は恋のおまじないか死の呪いみたいだ。

 高く澄んだ空にトンボが走る。台風一過の割りに気温は上がらず、着々と季節は冬へ向かっていた。金木犀が香る。反射的にセンチメンタル。

 女の子の指は一番下の段にたどり着いていた。繰り返し確認するような緩慢な動きであったか~いの上を滑る。
 すると向かいのマンションの中庭を飛び回っていた一匹のアキアカネが、おもむろにその指に止まった。すげぇ。
 しかし女の子は構わず指差しを続ける。

 ブラックコーヒー、ブラックコーヒー、コーヒー(微糖)、カフェオレ、カフェオレ、ココア、午後の紅茶。

 人差し指が止まる。それ以上は左にも下にもいけない。
 これで彼女の恋は叶うのだろうか、それとも死人でも出るか。
 妄想にふけっていた俺の口から反射的に「あ」と漏れた。それは「あ、やっちまった」の「あ」ではなく、

「あ、あの、大丈夫ですか」

 トンボがひゅるりと飛び立ち、女の子が振り向く。やはり美人。
 だがアイドル並みに大きな目には瞬くような涙が。

「あの」

「はい」

「あの、コーンポタージュ、見かけませんでしたか」


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 彼女は”シュウ”と名乗った。
 シュウは子供のように不貞腐れた顔で、雪が溶けるから桜が咲くんじゃないよ、と口を尖らせた。

「逆なの。桜が咲くから雪が溶ける。春が来るな~って空気を察して冬が自分から去っていくんだよ。

 だから私も同じ。冬が来るな~って空気を察して引っ込まなくちゃいけないんだけど、冬のはじまりは他の季節よりもずぅっと見つけるのが難しいんだ。

 このままじゃ神様に怒られちゃう」

「気温が何度以下になったら、とかじゃ駄目なの?」

「そんなの当てにならないよ。もっとはっきり”冬”ってわかるものじゃなきゃ」

「それでコーンポタージュ」

「うん、だからコーンポタージュ」

 変な女。
 変な女だが、圧倒的に顔が可愛い。うっかり「俺も探すよ」と言ってしまった。


 それからたびたび彼女と出くわすようになった。

 日中に自動販売機を見て回り、夜の間は金木犀の花を咲かせるのが仕事だとシュウは話した。いいご身分だな、と笑うと彼女は満面の笑みで頷く。
 シュウはあまり物を知らなかった。

 その日もベランダで煙草をふかしていると、どこからともなくシュウがやってきた。いつものように挨拶もなく「コーンポタージュあった?」聞くかと思いきや、俺の顔を見た途端に口がへの字に曲がる。

「神様に怒られちゃったの?」

 思わず煙を肺に入れずに吐き出した。 

 空には暗い雲が張り付き、まるめて絞れば土砂降りになりそうな天気だった。予報では夜から雨が降るらしい。

 人間の考える神様と、シュウの言う神様ではきっと姿も形も違う。

 今日は朝から就活の最終面接があった。書類審査の時点でほとんどの企業を落ちている身としては、すでに半分受かったような気持ちでいた。

 新入社員面で面接室に入る。ずらりと並ぶ企業戦士たち。みな足を組んだり腕を組んだりしている。自陣にはボロいパイプ椅子がひとつきり。
 舌がうまく回らない。

 答えづらい質問にまごついていると、中央のハゲオヤジがため息をついた。この世のものとは思えない深さの、湿ったため息。
 神様が地球を洗い流す前、きっとこんな顔をするのかもしれない。

 やけ食いしようと立ち寄った寿司屋で不運に出くわし、身体もボロボロにされて帰ってきたところだった。途中で買った湿布を頬に貼るとツンと目が湿気る。

 ふいに、シュウの白い手がベランダを超えて伸びてきた。

 頬をつたって金木犀が香る。花を咲かせる仕事ってどんなことするの、と聞いたらシュウは少し恥ずかしそうにナイショ、と教えてくれなかった。

 触れた指先が凍りそうに冷たい。
 口に含みたいな、と思って、慌てて一歩後ずさった。 

「違うよ。転んだだけ」

「それならよかった」

「神様に怒られるとどうなるの?」

「いらないって言われちゃう」

「いらないって言われたら、どうなるの?」

「わかんない。次の”シュウ”が生まれるのかも」

 彼女の声は乾いていた。
 カサカサと音を立てる落ち葉のように、風に吹かれれば飛びそうだった。

 沈黙の最中に雨が降り出す。シュウは丸腰なのに慌てもせず、着の身着のまま濡れていく。
 俺は煙草の火を消して彼女を部屋に引き入れた。


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 朝、コンタクトを入れているとシュウは必ず「泣いてるの?」と聞いてきた。

 鏡で見ると頬には二筋の線ができている。保存液が垂れた跡だろうが、説明しても彼女はしばらくまとわりついて顔を見ようとしてくる。
 それだけで朝は幸福の色をした。

 外へ出る用事がある日は服に迷う。夜は厚手のコートがないと厳しい季節になっていた。ベランダの手摺に止まるトンボの列ももう見かけない。

 支度が終わるとシュウと一緒に家を出る。彼女は戸締まりという概念をよくわかっていなかったので作った合鍵は予備にし、部屋の締めずにおくことにする。
 はじめて盗まれるもののない身分に感謝した。


 最終面接を受けた会社から合否がメールで届いていた。最寄駅から歩いて帰るところだった。

 中身を開く。内定通知。
 こんなもん誰が決めたんだ、あのハゲオヤジじゃないことだけは確かだ。なめやがって。クソ、ちょっとだけ嬉しいのやめろ。

 帰り道の途中で寿司を買った。スーパーの安いやつだが、シュウが好きなたまごが入っている。あとは豆腐とわかめで味噌汁くらい作ろう。

 袋を片手に歩く。本当はスキップしたかったが向かいのマンションに人がいた。横付の車からせっせとものを運び出す様子から、おそらく自販機の業者かなにかだろうか。

 はっとして、遠目に自販機を凝視する。
 中身がむき出しになってラインナップがよく見えない。身震いする。近づいていくとキャップを被ったお兄さんが「あ、もう終わりますんで」と言って扉を締めた。

 それはあったか~いの一番左下にあった。
 パッケージの黄色が死んだ愛車に似ていた。


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「どうせなら夏か冬がよかったなぁ」

 シュウがポテチを頬張りながら言った。口の端に青のりがついている。

「なんで?」

「だって盛り上がるじゃん、台風とか大雪とか。わたしもそういう派手なやつがいい」

 むす、とするが食べる手は止めない。ポテチを両手に持ってパクつく姿は確かに平和そのもので、これから厳しい冬が来ることなど忘れてしまいそうだった。

「なぁ、もし冬が来たら、シュウはどこへ行くんだ?」

「どこへも行かないよ。ただ引っ込むだけ。また神様に呼ばれるまでじーっとしてる」

 俺にとって当たり前のことをシュウが理解できないように、シュウの言うことが俺には少し難しい。”いる”と”いない”の間に、彼らしか知らない特別な空間があるのを想像する。
 どちらにせよ、凡人には手の届かない場所だ。

「明後日は雨降りだよ」

 彼女の天気予報は存外正確で、部屋はひっそりと冷えている。

 エアコンの設定温度を一度上げた。”シュウ”の癖に寒いのが苦手だとか、手足の爪を切るのが下手だとか。
 そういうことはいくらでも知っているのに。

 食べる?と差し出されたポテチを指ごと口に含む。触れた薄い皮膚は氷でも詰まったように冷たい。
 舌先で爪のまわりをなぞるとシュウがくすぐったそうに笑った。


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 シュウがいなくなると、あれだけ甘く香っていた金木犀の花を見かけなくなった。彼女の指に止まったアキアカネも姿を消し、景色はまどろむように眠ったまま。

 煙を吸い込むと肺の奥がかすかに喘いだ。咳払いをひとつして、真夜中の街を吹き消すように吐き出す。
 向かいのマンションの自販機だけがやはり煌々と明るい。

 物思いに耽っていると、目の前を気の早いサンタクロースが横切った。区指定のゴミ袋を肩に担ぎ、派手な赤い生地に金色のラインが入ったジャージ。木曜日のおやじだ。

 ベランダに佇んだまま、俺ははじめて汚らしいおやじの事情を考えた。考えたが、さっぱりわからなかった。正直目がイッてしまっていて怖いし、もうこれ以上痛いのは嫌だった。

 薄暗い部屋に引っ込もうとして、はた、と気づく。
 見覚えのあるハゲ頭と深い深いため息。あいつ、あのときのハゲオヤジだ。俺の口からは反射的に「あ」と漏れる。
 ドクターペッパーの空き缶を片手に影がのっそりと振り向いた。


 「残りカスだよ」とおやじは言った。

「全部出ていった息子が置いていったものなんだ。親の希望通りいい大学に入って、いい会社に就職して、楽させてあげるよって言う自慢の息子だったんだ。

 それが急に置き手紙ひとつでいなくなって、はじめてあの子の部屋に入って驚いた。こいつがね、部屋いっぱいに積み上げてあったんだ。ドクターペッパーは僕がこの世で一番嫌いな飲み物で、こんなもの飲むやつの気がしれないって言うと息子も笑ってくれていたのに。

 この趣味の悪いジャージもそうだ。男なら黒とか紺とか、そういう地味な色を選ぶべきだって言ったのにあいつ、こんなものを隠れて持ってたんだ」

 おやじが言葉を切る。吐き出したため息がぽつぽつと夜空を飾っていた。俺は黙って煙草の煙をくゆらせる。

「水たまりに土を盛ってやるようなものだけど、この歳になるとね、やらないよりはマシだって思うんだ」

 袋いっぱいの空き缶を捨て終わるとおやじは闇に消えた。最後に「君ね、もう少し自己分析を深めるといいよ」と嫌味な声で囁いて。

 大きなお世話だ、クソ。今更何ができるっていうんだ。欠片だって残っていないのに。
 カスだ。俺は残りカスだ。

 煙草の火を消して一度部屋に引っ込み、コートを着込んで外へ飛び出す。狭い駐輪場には死んだままのベスパがことんと座っていた。俺の愛車なんだと話すと、シュウは「乗ってみたい!」とはしゃいでいた。

 せめてシュウをこいつに乗せてやりたかった。こいつが動けば、もっとたくさんのものを見れたかもしれない。もしくは冬の届かないところまで、ふたりで逃げられたかもしれない。考えたって仕方のないことだ。こいつは原付きバイクだし、シュウはもういないし。

 寒さに震えながら愛車の横にしゃがみ込む。インジェクターが壊れたか、部品の腐食か。見てもわからない。明日修理屋に持っていかなければ。

 黄色いカラーリングは深夜の街頭にも映えた。シュウのマフラーもそうだった。電気を消した部屋はカーテンの隙間が一番明るい。次が照らし出されたマフラーの鮮やかな毛糸の色、そしてシュウのおぼつかない瞳の奥。

 秋はいつも穏やかで、降る雨も優しい。お陰で俺はこの季節の間中ずっと彼女のことを考えていられた。それは限りなく幸福に近かった。

 それはそうとしても、もしも神様を名乗るやつに出くわしたら一発くらいは殴らせてほしい。暗闇に腕を振りかざす。

 指先は凍るように熱かった。




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七屋 糸
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