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今年の冬は彼女のために #月刊撚り糸
国道沿いから一本外れたトウカエデの並木道は暖かなまどろみに包まれていた。若葉の木漏れ日が作るまだら模様のアスファルトの踏み心地は柔らかく、5センチヒールの足取りは軽い。半歩前を歩く彼のスニーカーはまだ新品同様に真新しく、春らしい清潔感にあふれていた。
短く明瞭に告げられた「付き合ってほしい」の一言に「はい」と返事をすると、彼はほっとしたようにしばらく沈黙した。私もそれに合わせて唇を引き結び、人通りの少ない道を連れ立って歩く。風にざわめく木々の音をBGMにして、ふたりの関係がひとつ進んだのを確認しているみたいだった。
そのあとはバイトがあるという彼と別れ、大学近くに借りているワンルームに帰った。電気をつけなくても窓から差し込む陽光で部屋は明るく、そのまま背の低い丸テーブルの前に座ってカバンから手帳を取り出す。
ページをめくると見開きになった五月は半分ほど埋まっていて、今日の日付には”14:00~"と丁寧な字で書き込んであった。彼と待ち合わせをした時間だ。その数字と記号の羅列をそっとなぞると、わずかなへこみが指に引っかかって心地いい。
私は手帳の背表紙に引っ掛けた三色ボールペンを取り出し、赤色を選んで日付の部分をくるりと丸く囲んだ。整然と並ぶシンプルな文字列の中で、その丸だけがしっとりと私の秘密を守っていた。
***
「え、また?」
無神経な言葉だったかもしれないと思ったが、ゆいかは気にする様子もなくほうっとため息を吐いて続ける。
「そうなの。ゆいか、また彼氏に振られちゃったの」
ゆいかはくるくるに巻いたミルクティー色の髪をいじりながら言った。痛んだ毛先が気になるのか何度も撫でるように滑らせているが、そのせいでかえって枝毛が目立っている。
振られちゃった、という割にゆいかはさほど落ち込んだ様子もなく、ただ子供のように首を傾げている。メルマガみたいに定期的に流れてくるおしゃべりを聞いていた側からすれば、彼氏たちがゆいかのわがままぶりに愛想を尽かしたのは明らかだった。
しかしそれを伝えたところで改善されるとも思えず、「またすぐに良い人が見つかるよ」と形だけの慰めの言葉をかける。するとゆいかは重ね付けしすぎたまつげを瞬かせて「そうだよね」と笑い、大学に入って6人目の彼氏を過去に放った。
お昼時は学生で賑わうカフェも、午後五時過ぎの半端な時間になれば空席が目立つ。一人客の多い店内で端のテーブル席を陣取り、私とゆいかは同じアイスティーの入ったグラスを囲んでいた。
北欧風のヴィンテージ家具や雑貨で揃えられた店の中は、冷房の有無関係なく暑い盛りの外よりもずっと涼しく感じられた。お手洗いから奥の厨房まで黄味がかった白色で統一され、甘やかな焼き菓子の匂いで満ちている。そんなところでくだらない恋バナなんて、と思いながらシナモンの効いた紅茶を一口すすった。
「みやこちゃんは? もう堀越と長いよね」
「ぼちぼちかな。もうすぐ2年半くらいだよ」
「いいなぁ、ちゃんとうまくいってて。羨ましい」
「そんなことないよ」
曖昧に笑みを返すとゆいかはもう一度いいなぁ、と繰り返して頬づえをついた。交際三ヶ月以内に破局してきたゆいかとその彼氏たちに比べれば長続きしてはいるが、彼女らの付き合いと並べられるのはどこか釈然としなかった。
自分の足元にあるものくらいちゃんと見たらいいのに。すべてはいつも足元にあって、それをきちんと見定めて、避けて、静々と歩く。そうすればちゃんと生きられるんだから。それこそ私からすればゆいかの恋愛は目隠しをして外を出歩くようなものだった。
カラン、と錆びた音がして光が横切った。誰かが店に入ってきたのか淡い西陽がテーブルの上を走り、奥の厨房に届いて静かに閉じた。
つられて目で追っていると中でタブリエ姿の女性が重そうな鉄のフライパンを振っていた。薄いケチャップ色のナポリタンが一瞬間宙に浮き、戻っては小気味のよい焼けた音を立てる。それをなにともなしに眺めていると、不意に女性の目が私を見た気がしてさっと逸らす。
「前から気になってたんだけど、知ってる人?」
私の視線に気が付いたのか、ゆいかは少し声をひそめて尋ねてきた。
「うん、まぁ、ちょっとね」
「もしかしてお姉さんとか?」
彼女の少し荒れた唇の動きに目を丸くしてしまう。質問の答えに窮して紅茶を一口含むが、らんらんとした瞳に押されてぎこちなくうなずいた。
「やっぱりそうだと思ってたんだよねぇ、横顔とか似てるし。あと背筋がぴって伸びてるところも」
そう言ってまじまじと見つめるゆいかの下瞼にはマスカラが一欠け落ちていた。横顔が似てるはともかく、背筋が似てるって。そう思ったが言われてみれば確かにそうなのかもしれない、だって私はあの人の背中を見て育ったのだから。
天才の消費期限はどのくらいなのだろう。大器晩成型と呼ばれる人がいるなら、幼少期に天才を使い果たす人だっているのかもしれない。
地元の小学生にあがったとき、先生たちはみんな私のことを知っていた。無神経な人からは「あおいちゃんの妹ちゃん」と呼ばれていたことすらある。そのくらい8つ年の離れた姉・及川あおいは有名な存在だった。
勉強も運動も人一倍でき、習っていたピアノのコンクールでは優秀賞を飾る。作文を書けば大きなコンクールに呼ばれ、市や県から表彰されていた。もはや嫉妬の対象にすらならないような子供。
そんな神童とも呼ぶべき生徒の妹が入ってくるとなれば話題の種にならないはずがなかったし、実際私もそれなりにちゃんとやってきた。
しかし順風満帆に思われた及川あおいの人生の幕は大学3年生の冬で閉じている。通っていた東京の一流大学を人知れず辞めて行方をくらましたのだ。それ以来一切の連絡が取れなくなり、ネオンの輝く夜の街に消えていったとか、金銭問題で海外へ飛んだとか根も葉もないうわさだけが残された。
その背中を思い出すたびに背筋は針のように伸びる。髪も服も表情も常に頭の中の鏡を見て整え、人に会えばにっこりと微笑む。私は何も間違えないように。
あの人が私に気付いているかどうかはわからない。ホールに出てくるのは大抵別の店員で、彼女はいつも厨房の奥でオーブンの具合を見たりフライパンを振っている。それが仕事上のことなのか、彼女の意思によるものなのか、考えたところで私から声をかけるつもりはなかった。
カフェを出てゆいかと別れ、並木道を歩きながらスマホをチェックする。何件か入っていたメッセージの見出し表示はすべて『堀越隼人』の名前だった。
胃の下あたりにぐっと力が込もる。息を吐いてからアプリを開き、メッセージに目を通すと『大事な話がある』『みやこなら察しが付いてたと思うけど、』と連なる言葉に、持っているスマホが妙に冷たく感じられる。
左手の親指で画面を一番下まで飛ばした。『お前といると息が詰まる』。
喉の奥が重く痛んだ。柔らかく噛んだつもりだった下唇からも血の味がして、スマホを一度鞄にしまった。
ワンルームの部屋に帰ると時刻はすでに午後六時半をまわり、遠くの空に滲んだ赤が尽きるところだった。照明のリモコンで30%分だけ室内を明るくし、背の低い丸テーブルの前に座り込む。冷たい合皮の鞄から手帳を取り出し開くと、今日の日付を黒いペンで丸く囲んだ。また喉の奥が猛毒に焼けたみたいに痛む。『お前といると息が詰まる』。
一度は閉まった三色ボールペンの黒をもう一度くり出し、丸い囲みをかき消すようにぐちゃぐちゃに塗りつぶした。何度も何度も塗りつぶした。整然と並ぶ文字列の間に混ざり込んだ異物がそのギザギザの目で私を見ている。それが無性に許せなくなってまた塗りつぶす。『お前といると息が詰まる』『わかれてほしい』『別に好きな人ができた』。
なによ、それ。
はっとした。吸って、吐いて、ゆっくり呼吸を整え、目を閉じる。頭の中の鏡に向き合い、自分を丁寧に整える。髪も服も表情も、全部。それを遠くから誰かが見ていた。私がにっこり微笑もうとしたら、その人は消しゴムでこすったみたいに消えていった。
***
「ねぇ、デキ婚ってどういうこと」
テーブル越しに詰め寄るゆいかの涙袋にはやはりマスカラが一欠ついていて、その話で誤魔化そうかとも思ったけど普段口にしない言葉は喉をつっかえて出てこなかった。代わりに少し笑ってみるけど、それ以上は何をしてもみっともない気がしてできなかった。
一日に一度ずつ気温が下がっていくみたいに急速に季節が過ぎていく。カフェの店内に差し込む光は淡さを増して、もう肌を暖めてくれることはなくなっていた。あったはずのぬくもりが失われていくのに順応しながら冬がくるのを待っている。
まさかゆいかの耳にまで届くとは思わなかった。大学なんて広いようで狭いものだな。思考はのんきなようでも心臓は不規則に脈打ち、無意識のうちに呼吸まで浅くなっていた。
「どうしてゆいかに言ってくれなかったの。妊娠なんて、大事なこと」
彼女の長い爪が華奢なティーカップにごつ、とあたる。その拍子に中身が跳ねたけどゆいかは気にする風もなく、本人の知らないうちにできたふたつの染みが彼女の着るブラウスの白さを強調している。
どうしてこんな子に何人も彼氏ができるんだろう。服も髪も仕草も全部やりすぎなくせに、どこかいつも詰めが甘い。飲みの席で彼女の話が出ると「あの子、ちょっと痛いよね」と苦笑する人もいた。
端的に言えばゆいかは大きな勘違いをしている。確かに堀越とその彼女の事情が一部で噂されていることは私も知っていた。そのせいで本人と両親・学校関係者で話し合いが持たれたことも、そしていわゆるデキ婚として収まったことも。でも本当に知っているだけ、というよりも人づてに聞いただけだ。
駆け足に過ぎていったはずの季節がこんなところで戻ってくるとは思わなかった。もはやどこから間違えたのかもわからなくて曖昧に頬を引きつらせると、冷めていく紅茶に自分の顔が写って反射的に「ちゃんとしなきゃ」と思う。
「別れたの。結構前に。夏くらいかな」
針の穴に糸を通すように慎重に。笑顔も忘れていない。声も掠れていない。大丈夫。
いつもは話したがりのゆいかがじっと黙っているのを目の前に丁寧に言い訳を並べていく。「冷めてたから」「隼人には感謝してる」「私は大丈夫だから」。重く張り付いた喉を自分の唾液で潤しながら言う。「いいの。もう好きじゃないから」。
ほころんで毛羽立った部分を内側に埋め、ひと針ずつ丁寧に閉じていく。取り繕うのは昔から得意だった。姉と違って天才じゃない私は努力と立ち回りでここまで完璧を貫いてきた。みっともないところなんて見せられない、親にも友達にも、恋人にも。私はいつだってちゃんとしていた。ちゃんとしていたのに、あの人はどうして離れていったんだっけ。
固く黙っていたゆいかの唇がわななき、グロスの禿げた部分がほんのり赤く滲んでいた。強く噛み締めていたのかもしれない。ゴテゴテに作り込んだ彼女の顔に、上唇を縫い付けたような表情はおかしいほど不似合いだった。
「みやこちゃん、どうして嘘つくの」
きつかった西陽が影になり、それなりに賑わっているはずの店内はやけに静かだ。もうじき冬がくる。姉がいなくなった冬が、私にも襲いかかろうとしていた。
「本当だよ。もうとっくに終わってたから」
「嘘。だってまだ好きなんでしょ」
「好きじゃないよ」
「みやこちゃん、さっきから変だもん。ねぇ、どうして、」
「だから、好きじゃないって言ってるでしょ!」
目の前のテーブルを叩いた音と、端に置いてあったグラスが落ちる音が時間差で響き渡る。店内中の視線が集まってくる気配で自分の異常さに気がついた。
幸いグラスは重い音を立てて水を吐き出しただけだったが、厨房から「お客様、お怪我はありませんか」と布巾を持った店員さんが駆け寄ってきて拭いてくれる。血の気が引いたみたいに足の指先が冷たいのは水がかかったせいだけじゃない。無理矢理に笑顔を作って「大丈夫です」と返事をする前に気がついた。黒いタブリエエプロンに重そうな鉄のフライパンを振っている、あの人だった。
「あ、お姉さん、」
「やめて!」
今度は自分が叫び声を上げたことにも、荷物も持たずに逃げ出したこともわかっていた。全部わかっていて、やってしまった。
肌を刺す痛い視線に窒息しそうで、友達と、姉に似た見知らぬひとを残して逃げ出した。カフェの扉につけられたドアベルが乱暴に鳴る音が遠ざかる。違った、勘違いだった、別人だった、なんてみっともない。
寒くはなかった、首より上から沸騰したような熱が次々に降りてきて恥ずかしさとともに体中を駆け巡る。足はもつれ合っていつの間にか止まっていた。
夕暮れをすぎた薄暗い道に、風に煽られたトウカエデの大きな葉が落ちてくる。もうじき冬がくる。冬が襲ってくる前に、大切なものはとっくに失っていたけど。
「みやこちゃん、」
振り向くとふたり分の荷物を抱えたゆいかがいた。息を切らしたその顔にはさっきまで目尻に貼り付いていたつけまつげが落ちている。
「どうしてゆいかなの」
「、みやこちゃん?」
「私はちゃんとしてたのに」
唇から勝手に言葉がこぼれて落ちてくる。自分でも止めるすべがなく、代わりに強く身体を抱いた。
「なにがいけなかったの、どうして離れていくの」「私はなんにも悪くないのに」「あんなに泣いたのにまだ涙が出てくるの」「まだこんなに悲しいのに、話せるわけないじゃない」「息が詰まるって何よ、窒息したのは私の方よ、バカヤロウ」「お願いだから戻ってきてよ」「なんで、どうしてなの」「もっとちゃんとするから、ねぇ、」
流れていく声を耳で拾いながら、なぜか実家の姉の部屋のことを思い出していた。
彼女の部屋は天才らしく整然としていると思いきや、机の上には可愛らしい木の置物が飾ってあったり、料理とお菓子の本が棚を占領していたりした。よく晴れた冬の日には木目調のベッドに温かなひだまりができ、両親の目を盗んで作ったクッキーを愛おしそうに眺める彼女を何度か目にしたことがある。その柔らかさでくるんだような気配はあのカフェに少し似ていた。
反対に堀越の部屋は男性のひとり暮らしというのが嘘みたいにいつも綺麗だった。白と黒でまとめられた家具・家電類に、毛足の短いすっきりとしたカーペット。丁寧にベッドメイクされたシーツから漂う甘い匂いは、私がすきなムスクの香りだった。
いなくなったふたりがこれからどんな人生を歩むだろうと考える。きちんとした順番も、説明を、全部ビリビリに破ったやり方で手に入れたものにどれだけ価値があるのか、と。私のほうがずっとちゃんとしている、私のほうが幸せなはず。
そう思うのに、ほころびがどうしても繕えない。にっこり微笑んだつもりの顔が一層滑稽で、頭の中の鏡が音を立ててひび割れた。頬やおでこに無数の亀裂が走る。何等分にもなった自分の顔の隙間に何かが映り込んでいた。はっとして顔を上げると、バッグもコートもぼとぼとと落としたゆいかの下がった眉が見えた。
「気づけなくって、ごめんね」
走ってきたせいか、ゆいかの真っ直ぐに揃えた前髪がぱっくり割れて青白い地肌が透けている。彼女はもう一度「ごめんね、」と繰り返し、厚底靴を控えめに鳴らして私の背中にそっと手を当てた。
気づけなくってごめんね、なんて、私が一番欲しかった言葉を、どうしてゆいかがくれるの。
熱で火照っていたはずの頬が冷たくて、亀裂が走ったみたいに一筋濡れていた。人差し指と中指で触れると爪を伝って雫が染み降りてくる。北風が通り過ぎると氷を当てたみたいに指先が冷えて、冬がきたのだとわかった。なのに背骨に沿ってぎこちなく滑る手だけが心許なくて温かい。
素直になることは、とんでもなくみっともないことに思えた。
はじめは人に呆れられたくないとか、馬鹿にされるのが嫌とか、そういう理由だった気がするけど、その気持ちはしだいに変質して「みっともないから」になっていた。誰かに向けた好きも嫌いも尊敬も軽蔑も、表に出すのは全部みっともない。ましてやそれで家を飛び出して夢を叶えようだなんて、誰かの人生を背負おうなんて、私には考えられない。歩き方も表情も身なりも、学歴も恋愛も将来のことも全部、私は自分でコントロールする。そうやって安全なところから人を見下ろしていた。
でも、
「でも、違ったんだね。私がひとりでちゃんとしてる間に、ふたりはどろどろになって幸せを見つけたんだね」
憧れで大好きだった姉は出て行ったし、はじめて愛した男は別の女を選んだ。私は悪くないと思うばかりで、ふたりにとって一番の幸福が何かなんて考えたこともなかった。ここではない別の遠いどこかを見ているとわかって、それでも知らないふりをした。自分がちゃんとしていれば誰も離れていかないと妄執するばかりに。私は、わたしのことしか見ていなかった。
涙でぐずついた目元をこするとマスカラの繊維やアイシャドウのラメが手の甲に散った。すでに日が落ち始めているとは言え人通りの多い大学近くだ、顔見知りとすれ違うこともあるだろう。しかし路上で突っ立ったままの私たちをじろじろと不躾に見てくる人はいない。その生ぬるい気遣いに見た目なんてどうでも良くなって、更にぐちゃぐちゃと擦り回した。なぜか気持ちが落ち着いてくる。
ゆいかは相変わらず私の背中を撫でていて、時折彼女の欠けたネイルがざっくりとしたケーブル編みのセーターに引っかかる。いい加減直したらいいのに、と言う前にゆいかが顔をのぞかせた。
「みやこちゃん。人の心は秋の空なんだよ」
「なにそれ、なんでちょっと惜しいのよ」
「ゆいかなんていつも訳も分からず振られるよ」
「それはわがまま言いすぎるからでしょ」
そっか、とつぶやいて納得顔の彼女の表情の幼さがまた心許なくて、温かくて、ほっとする。
まだ朱色を消しきらない空に砂粒みたいな星が出る。風があるせいなのかゆらゆら瞬き、輝きの強さが定まらない。夜になればまたぐっと冷えてくるんだろう。今年の冬は何年かに一度の寒さらしいから。
ゆいかから受け取ったコートに袖を通しながら、トウカエデの並木道を連れ立って歩く。「みやこちゃん、パンダみたい」と彼女が言うから、私はゆいかのダッフルコートのファーをぐちゃぐちゃにかき回した。
***
スマホを見るとゆいかからのメッセージがあった。冒頭の『ごめーん』を見てすぐに遅刻だとわかる。しょうがないなぁと思ってわざとらしくため息をつき、待ち合わせ場所のカフェの前で『いいよ、早くね』とだけ返事をして電源を落とした。
冬真っ盛りの昼下がりは言うまでもなく冷えたが、日差しのあるところにいればやり過ごせないこともない。特に今日はしばらく吹き荒れていた北風もやみ、あちこちに穏やかな空気が流れていた。
あれから何かが変わったかと言われれば、特別挙げられることもなかった。当然のように姉とは連絡が取れないままだし、元カレは彼女と入籍したと聞いたくらいで、変わらず授業に出席してバイトに入る日々。時々予定が合えばゆいかとお茶をするが、大抵はゆいかの恋バナに話半分で耳を傾けている。
決して何も思うところがないわけではない。だけど、
連れだって帰った次の日に店に謝りに行ったと話すと、ゆいかは「やっぱりみやこちゃんはみやこちゃんだねぇ」と口をぽっかり開けた。落としたグラスも割れていなかったようだし、代わりにお会計を済ませてくれていたゆいかには後日返金したし、結果として大層なことにはならなかった。
しかし少なからず迷惑をかけたことには変わりないからと頭を下げると、あのタブリエの人は後ろで束ねた髪を揺らして「また来てくださいね」と笑っていた。
後悔はいくらでもある。鏡で自分のことばかり見ていないで、どろどろになって気持ちを伝えればよかった。本当のことを言えばよかった。たとえ結果がどうであれ、そうすることでしか進めないこともあるから。そうすることでしか理解できないこともあるから。
だけど今はこうして前を向いている。いつも通りの生活を送って、お店に謝りに行って、待ち合わせには時間ぴったりに到着する。ちゃんとできることが自分の性格なのだと知って悲しいような、嬉しいような、複雑な気持ちが木枯らしみたいにあちこちへ吹き抜けるから、自分に対しても「しょうがないなぁ」とため息をついて小さく伸びをした。
待ち合わせ場所に遅れて到着したゆいかには、相変わらず恋バナが尽きない。生返事をしていると「そういうみやこちゃんは?」と話を振られる。
「私は自分と相手をしっかり見極めてから付き合うの」
「相変わらずちゃんとしてるねぇ」
「まあね」
わずかに口の端を上げると「なにそれー」とゆいかは可笑しそうに頬杖をついた。丸い頬骨に寄った肌が温かそうに上気している。彼女も、相変わらずだった。
不意にスマホが震える。LINEではなくメールだった。「男の子?」とにやつくゆいかをよそに確認すると、そこには『及川あおい』と表示されていた。
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