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欠ける、満ちる、食べる。



中国や台湾では、どこも欠けていない満月を「円満・完璧」の象徴ととらえている。中秋節の満月の日に、家族が日本の正月のように集まり、食事をしながら満月に見立てた丸い月餅というお菓子や、文旦という果物を食べる習慣がある。
引用:https://www.gldaily.com/inbound/inbound2611/


***


理由なき否定ほど、腹の立つものはない。

結婚前に勤めていた職場の上司は「なんか違うんだよね~」が口癖だった。

タバコ休憩が趣味の二回り以上年の離れた上司は、わたしが頼まれていた入力や企画書を出すたびにその言葉を口にした。代替案を出すでもなく押し付けられるだけの台詞に口角は上がっても目は笑わないから、足早にその場を去るのが当時の正解だった。

しかし生涯を共にすると決めたパートナーとの間ではそうもいかない。


「なんか、違うんだよね」


夫が小首を傾げて何かを考えこんでいるかと思えば、漏れてきたのは憎きあの言葉。反射的に履いていたスリッパで頭を引っぱたいてやろうかと思ったが、寸でのところで踏みとどまる。


「うーんと、何が違うの?」

「何かと言われると難しいんだけど、なんかが違う気がして」


なんだろう?と頭をひねる夫はそれ以上何も言わず、ただ「なんか」が違っているらしい湯呑の中を掬っては口に運んだ。

いつもなら「口の端についてるよ」なんて新婚らしいやり取りもするのだけど、わけもわからず否定されたあとではそんな気にもならない。わたしは自分で作った茶碗蒸しにスプーンを突き立て、綺麗に弧を描く黄色をわしわしと崩した。

今日こそは自信作だったのに。お義母さんからもらったレシピだったのに。

嫁にとって料理上手の義理の母を持つことほど恐ろしいことはない。何を作ったって勝てるはずのない母親の味が他人の舌にとっても完璧だなんて、もはや取り付く島もないだろう。

だが幸いなことに我が家の嫁姑問題は浮上することなく、関係は良好。お義母さんは「美味しいですね」と褒めたメニューのレシピをいつも嬉しそうに教えてくれる。


「ごちそうさま。美味しかった」


夫はにっこりとわたしに微笑みかけた。この笑顔だけなら「お粗末さまでした」と微笑み返せるのだけど、自信作が見事に撃沈したあとではそんな気力も湧かず、小さくこくりと頷くだけだった。

付き合う前から、夫はとても優しい人だった。どこにでもいそうな素朴な顔立ちだが、誰にでも平等で、いつもにこにこ笑顔を絶やさない。たとえばこの人が女でわたしが男だったとしても、また結婚したいと思うような柔らかな雰囲気のすてきな人。

それは結婚してからも相変わらずで、ご飯だっていつも美味しそうに食べてくれるから発展途上の料理の腕もついつい奮ってしまう。

それがどうしたことか。最近夫の好物である茶碗蒸しを食卓に出すたびにあの「なんか違う」攻撃を受けているのだ。まさに青天の霹靂、初の夫婦の危機。

わたしはネットで本格茶碗蒸しのレシピを検索しては作り、また検索しては作りの試行錯誤を繰り返したが一向に満足げな顔を見られる兆しはなかった。

そうしてついに辿り着いた「おふくろの味」。きっと大好物は長年お義母さんの味で慣れているから、わたしが作ると違和感を禁じえないのだろう。そう思って鼻息荒く教わってきたわけだが、結果は見ての通りの惨敗だった。

もはや万策尽き、打つ手がない。

ついに禁じ手に縋ってしまうのか―――――そう思いながら、夫のために作ってきた丸い月たちを思い浮かべていた。


***


夕飯の支度を終えた頃、夫が帰ってきた。


「今日は茶碗蒸しだ!」


子供みたいに喜ぶ彼に、わたしは何も言わずに微笑んだ。

今日こそはいける。

滑らかに蒸し上がった湯呑の表面を見て、そう確信する。どうせ食べるときには崩してしまうくせに、なぜ綺麗にできると嬉しいのだろうと考えて、不味いと言われたわけでもないのに躍起になっている自分にブーメランが飛んでくる。

美味しく食べてもらいたいものほど欠けていてはダメだと思うのが、人間というものらしい。

いそいそと部屋着に着替えてきた彼と向かい合って手を合わせると、頭の中で試合の始まりを告げるゴングが鳴り響いた。

嬉しそうに湯呑みの蓋をとり、スプーンで掬って一口。わたしはなんにも気にしていないふりで味噌汁をすするが、内心は夫の「美味しい!」の反応が見たくって仕方がない。滑らかで優しい口当たり、薄味ながら風味豊かな出汁と合わせたふんわり卵。

絶対にいける、今日こそは、


「やっぱりなんか、違うんだよなぁ」

「そんなはずない!」


いつも通りに小首を傾げている夫につい声が大きくなった。彼が驚いて目を丸くしているが、それどころではない。


「違うはずない! だってその茶碗蒸しはお義母さんが作ってくれたんだから!」


持っていたスプーンが金切り声を上げて落ちる。一緒に住み始めてすぐの頃にお揃いで買ったニコちゃんマークのスプーンが悲しい目をして笑っていた。

そうなのだ。たった今夫が首を傾げたそれは、彼が長年親しんできた味そのもののはずなのだ。わたしが作った付け焼き刃のレシピとは違う、正真正銘の本物。これが違うって言うならいったい正解なんてものがどこにあるのか。

大きな声を出してしまったことを小さな声で謝りながら打ちひしがれる。これでわたしたち夫婦も終わりか、脳内で短い結婚生活が走馬灯のようによぎる。


「なんだ、だから君の味じゃないと思ったのか」


うなだれるわたしをよそに夫はポンっと手を打つ。そして納得顔で「うん、確かに母さんの味だ」と美味そうに口に運んでいる。


「わたしの味?」

「ほら、付き合い始めたころにさ、作ってくれたじゃん。あれ美味かったなぁ」


走馬灯をひとつずつ巻き戻し、付き合って三ヶ月くらいの頃のデートまで遡る。

はじめてわたしが独り暮らしをする家に彼を招いた日、好物だと言っていた茶碗蒸しを出した。実家暮らしが長くて料理なんかろくにできなかったくせに背伸びをして振舞ったそれは、お世辞にも上手とは言えなかった。

綺麗に蒸せてなくて表面はぼこぼこだし、彩りに添えるはずだった三つ葉を忘れ、味付けだってなぜか塩辛かったけれど、彼は笑顔で完食してくれた。わたしは夫のその顔を見て、もっと料理が上手になりたいと思ったのだ。

そんな後悔だらけの茶碗蒸しが、美味しかった、なんて。


「昔の方がよかった?」

「そんなことないよ。僕の奥さんはどんどん料理上手になるなぁって思ってるよ。でもあれは、思い出の味だから」


夫はにっこりと微笑む。わたしは何も言えないまま口いっぱいに黄色い欠片を頬張ると、柔らかい舌触りがほどけていく。美味しい月は食べるごとに欠けていくけれど、一口ごとに彼とわたしの心を丸くほどいてくれていた。昔も、今も。

もほもほと言葉を濁らせて言った。


「明日も作るね。……今度は、わたしの味で」

「うん、楽しみにしてる」


優しい眼差しの向こう側に見えた丸い月を眺めながら、わたしはいつかのレシピを思い浮かべていた。




***



こちらの企画に参加させて頂きました!


お月見といえば思い出すのは、つい数年前にセブンイレブンのデザートコーナーにちょこんと座っていたお月見うさぎのこと。

真っ白なもち肌にまんまるお目々、小さな耳がついた可愛らしい佇まいの虜になったわたしは、お月見の夜には絶対にそのうさぎを食べると決めていました。

だけど考えることはみんな一緒。定時に仕事を終わらせてコンビニに寄ったけれど、一匹たりともわたしを待っていてはくれなかった。

しょんぽりしながら家に帰って、そのことを彼に話す。少しは気持ちが晴れるかなって思って。

そうしたら「探しに行こう」と彼が車のキーを取り、地元のコンビニを何軒もはしごした。それはもう片手じゃ数え切れないほどの数。

「最後にしよう」と決めた店舗でやっと見つけたお月見うさぎは、嬉しそうな目をしてわたしを見ていた。彼も嬉しそうな目をしてわたしを見ていた。

言わずもがな、わたしも嬉しい顔をしていた。

その日は曇りでまんまるい月を見ることは出来なかったけれど、綺麗なお月さまを思いながら食べたうさぎのことはいつまでも忘れない。

そんなことを思い出しながら書きました。

大きなイベントがなくっても、たくさんの人が集まれなくっても、月が見えなくっても。何かを思いながら準備して、食べて、語り合えたら、それはもうすでに最高ですね。



ありがとうございました*





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七屋 糸
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