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自分の創作に責任を持つと納得のラストが待っている

長い時間と労力をかけて作り上げた創作物には、やっぱり愛着がわきますよね。

特に主人公として一緒に物語を進めてきたキャラクターへの想いはひとしおだと思います。


今回の「創作に責任を持つ」とは、締め切りを守るとか、周りに迷惑をかけない…とか、そういう話ではありません。

自分が作り上げた物語の結末、引いてはキャラクターの人生に責任を持つ、ということについて私が考えさせられたことをお話しします。


先日、ずっと楽しみにしていた漫画『累』の最終巻を購入して読みました。(今度映画化もするらしいので、まだ未読の方にもおススメです。)

『累』はざっくり言うと、醜い容姿を持って生まれた少女・累が、特別な力を使って他人の美しい顔に成り代わり、女優として活躍する物語です。

とはいえ、他人の顔に成り代わるわけですからそれはもう色々あります。紆余曲折、波瀾万丈なんて言葉じゃ物足りないくらい壮絶。

女性にとって美しさは命とも言いますから、自ら進んで醜い顔と入れ替える人なんかそうそういません。

だから主人公の累は結構酷いこともするし、他人を傷つけながら自分の幸せを追求していくわけです。

そんな人の人生観や考え方も揺さぶるような素敵な漫画のわけですが、やっぱり長い間読んでいると段々と思い入れが強くなってきます。

他人を蹴落とし、傷つける主人公の累ですが、彼女も彼女なりに今まで醜い容姿のせいで散々貶められ嘲笑われてきました。

なので彼女の行為が世間一般からすると相当なことではありますが、できることなら幸せになってくれないか…と思ってしまうんですよね。

最高に幸せ!までいかなくとも、「なかなか良い人生じゃないか」と言えるくらいになったらなぁ、くらいには思ってしまいます。

(以下からネタバレになってしまうのでご注意ください)

しかしそんな淡い期待を、累のラストは見事に裏切ってくれました。結局累はもう女優を続けられなくなってしまうし、彼女と共に罪を重ねてきた演出家・羽生田にも辛い未来が待っていたのです。

そうして幕を閉じた物語ですが、ハッピーエンドではないものの、ずっと読んできた読者としては、なんというか「納得」。

すんなり幸せになるのには、累は罪を重ねすぎたし、それを清算せずに一人幸せになるのは違う。

そんな気がしたんです。

漫画はリアルとは違います。だから突飛な力が加わって突然幸福になることもあるだろうし、はたまた絶望のどん底に落ちることもあるでしょう。

ですが漫画だからこそ、整合性や伏線がしっかりしていると面白いし、何より納得感と満足感が半端ない。

漫画だから累はちゃんと罪の報いを受けるし、安っぽい奇跡なんかおこらない。

それってキャラクターに愛情がわけばわくほど難しいことだけれど、想像よりも大切なことでもあると思うんです。

現実の人生の責任を取るのは紛れも無い自分自身ですが、創作内のキャラを作ったのは作者。

だから作者はキャラクターの人生に責任を持たなければいけないのでは、と思います。

漫画が終わればキャラクターの人生は一度そこで終わりを告げる。いつかどこかで報いが…なんて想像するのは簡単だけど、作品の続きが書かれて見なければ分かりませんよね。

キャラクターの歩みを振り返り、葛藤し、最良のラストにするにはただハッピーエンドで、というのはちょっと違うのかもしれません。


もしも累のラストを(失礼ですが)私が選ぶとしたら、ハッピーエンドよりも絶対に苦い結末を選びます。

なぜならそれがキャラクターのためだと思うし、そうしなければ作品に納得ができない気がするから。

またキャラクターの人生に見合ったラストは、読者にも納得感を与えるのかもしれません。

ラストの好き嫌いによって一個人の作品への評価は変わってしまうものですが、個人的には納得できるかできないかはとっても大切。

どんな好きだった作品も、あからさまに御都合主義なハッピーエンドは冷めるし、ただのバッドエンドもちょっと色褪せる。

どんなラストが相応しいか? キャラクターの最後はどうなるべきか?

そういうところにこだわることで、作品の完成度も変わってくるのかなぁ、と思った今日この頃でした。




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七屋 糸
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