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何万通りかの”尊厳”

 何十年ぶりかの読書感想文。
 課題図書は「だから、もう眠らせてほしい」―安楽死と緩和ケアを巡る、私たちの物語(著:西 智弘)である。
 夏休み最終日に慌てて山積みの宿題を崩しにかかる小学生のようなおももちで、わたしは今やっとnoteのアカウントを取得したところだ。
 とびとびにnoteの連載を読んでいたこの作品、まとめて読みたい強い気持ちと、仄かに読むのがこわい気持ちが混在したまま手に取り、頁を繰った。
 横書きだったnoteの記事と、縦書きになった書籍とではすこし表情が違う。紙の本ならではの余白、手ざわり。大丈夫だ、ちゃんと読み進められる。

 まだ若いふたりの患者の、いのちの物語を追いながら、わたしはふたつの映画を思い出していた。
 ひとつは「泣くな赤鬼」(2019年公開)、もうひとつは「神様のカルテ」(2011年公開)。
 「泣くな赤鬼」で余命わずかと宣告を受けた若い男性は、最期は自宅で家族と恩師に見守られて過ごし、「神様のカルテ」の高齢女性は延命を望まず、主治医もその意思を尊重する。
 「だから、もう眠らせてほしい」のふたりは、「ふたり」と並列して語るのが難しい気がするほどタイプが違う。情報収集能力が高く、思索し自分の意志が明確なユカさん。ものごとを深く考えるというよりは、すこし先のことを思い描いているようなYくん。ユカさんは「神様のカルテ」の女性・安曇さんに、Yくんは「泣くな赤鬼」の男性・通称ゴルゴにすこし似ているかもと考えながら頁をめくり続けた。

 安楽死とはどういう選択なのか。
 ひとの尊厳とはなにか。
 自分がどう生きたいか、そしてどう死にたいか。

 正直なところ、半世紀あまりを生きていながら、きちんと考えたことはない気がする。ばくぜんと、過剰な延命治療はしてほしくないな、いくつも管につながれて会話もできずに逝くのはいやだなと思うことはあるが、それをきちんと意思表示しているかと言われればまったくNoである。

 家族の立場としてはどうか。
 義父と実父を送ったが、そういう選択をするシチュエーションには出会っていない。
 実父はあちこちに人工血管が入っている動脈硬化症で、寝ている間に心筋梗塞を起こして亡くなった。
 義父の場合は、神経が下から徐々に麻痺する病気で、最後は呼吸が止まり亡くなった。義母がずっと付きっ切りで自宅介護していたが、年々動かない部位が増えていくことで本人のストレスはかなりのものだったようだ。年の離れた愛妻(=義母)にきつく当たることもあったらしい。
 ともあれ、期せずして両父ともに自宅で就寝中に旅立ったため、尊厳も延命も考える余地を与えられなかった。もう、10年以上も前のことである。

 ふたたび本書に戻り、頁をめくる。
 周囲にすべてを委ねているように見えて、「未来を知ると強くなれるのか」と問いかけるYくんを想像すると、無意識に体がこわばる。
 ユカさんが入院前に家にある自分のものをすべて捨ててきた、夫には再婚し子どもも作ってほしいと語る、その文字だけを見るとクールな印象を受けるが、そこに込められた深すぎる想いに胸が痛む。

 ふたりは、命の終いかたを自分で選んでいる。それを支える家族、受け入れる医療機関があってこそかもしれない。
 いざ、家族の命の火が消えそうなとき、本人が望んでいない延命治療はしなくてよいとわたしは言えるだろうか。あのとき無理にでも治療をしていればもしかしたら、と悔いてしまわないだろうか。

 尊厳とはなにか。

 もしかしたらそれは、個人個人、基準が異なるものなのかもしれない。スタンダードな“尊厳“という概念があるとしても、詳細に紐解いていくと、何万通りもあるのかもしれない。本人の望む終い方ができるかどうかは、運しだいかもしれない。
 ならば、せめてわたしは、自分の希望を明確にしておこう。そして、いつか見送る側に立つことがあれば、家族が望むことをできるだけ受け入れよう。

 そんなことを考えた2020年の夏が、終わろうとしている。

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