16才とまの話11。精神神経科

  十七日目

 僕のいけないところは、「白か黒か」で生きていることらしい。確かにそうだ。「障害と向き合うか、死と向き合うか」しか選択肢がないように思い込んでいる。だけど、僕にそれを指摘する人は皆、僕の障害のような苦しみを味わったことのなさそうな人々なんだ。僕が障害とぶつかった時にどれだけ憂鬱になるか…それこそ死にたくなる程だよ。
 実は、変わりたいから死にたくなるんだ。変わる方法を探しあぐねたふりをして、最終的に、傷つくことなく変われる唯一の方法である死を選ぶ。僕はよく面長先生に「面倒だから死にたい」って言うんだけど、彼は「面倒」から「死にたい」への飛躍が大きすぎるって言うんだな。うーん、まあ、それは認める。

 よくお見舞いに来てくれる父方のお祖母さん、彼女はキリスト者なんだ。僕はなぜキリスト教では自殺が罪とされているのか、質問した。彼女はこう答えた。
 「それはね、命は神様が与えてくれたもので、粗末にしてはいけないからよ」
 僕は言った。
 「じゃあ、人は皆それぞれ何かしら使命があるということですか」
 彼女は頷いた。
 まあ、以上の事はあくまでキリスト教の観点からではあるが、僕は一つの事例を思い出した。
 毎日母方の祖父母に送る手紙のことだ。僕の葉書を心待ちにして、届くといたく喜んでくれるんだ。祖父なんかは、一日で一番楽しみにしているんだって。彼らにとって、僕という存在は必要不可欠であり、絶対的な価値を持っている。そうして僕の承認欲求や生きる意味は満たされる。以前お祖母さんが灯した火は、そういう他者へ働きかける行為に伴って広がってゆく。ある精神医学者は他者貢献が大切だと説いたが、つくづく同感するよ。

   十八日目
 
 明日で面長先生に会えるのは最後となる。先生は良い人だったよ。僕が勉学に励む意義を彼に見出すくらいね。僕はあの人のような知己を得たいと心の底から願っている。そのためにはまず自分の能力を向上させる必要がある。だから僕は人生に意味を失ったと感じて絶望する前に、面長先生の長面を頭に浮かべるようにしたいと思う。そうすれば、僕の未来の友のために全力で勉強に努められるだろう。
 入院しても変わらないと信じていたけど、意外にも得たものがあったのかもしれないな。入院生活に乾杯。

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