苺大福
16才とま 鬱病で入院したんだ。2020年3月
僥倖(ぎょうこう…思いがけない幸い。偶然に得る幸運。) 烈日が時折照りつける8月の午後。ジョン・クラウゼは遺品の詰まったボストンバッグを右手にぶらさげながら土手を歩いています。彼は兄妹からゆずってもらった大きな鞄を三つほど所有していましたが、その中から本日の門出にふさわしいものを選んできたつもりでした。それはオリーブ色に染められたなめし革のボストンバッグです。樽のタガのように、短冊状の革が二条巻きつけてあります。 彼は家を出たときから毛穴から汗がにじみ出るのをひしと自覚
「では、見学者は私にカードを渡してください」 立ち上がったのは五人の女子と三人の男子。そのうちに、里山清子と長谷川蒼がいる。 休み時間、みんな更衣室へ走る。教室には清子と蒼を含め数人の見学者。清子は自席で読書していた。後ろをプールバッグを持った女子が黄色い声を出しながら早足で通り過ぎてゆく。ふと、彼女の視界の端に白い手を見る。清子がぎょっとしたのをかろうじて抑えながら見上げると、蒼だった。 「きみも見学?」 「えっと…そうだけど」 「なに読んでんの?」 「嘘つき
もう夜11時を過ぎていた。ローリーとアシュリーは広い小屋にいた。広いが、狭かった。というのも、観葉植物で小屋のぐるりは埋め尽くされていたからだ。パキラやオドラ、ゴムノキは白や褐色の鉢にそれぞれ生え、不気味に立っていた。またあるものは蔦が床にまで伸びてだらしなく寝そべっていた。しかしその不気味さは心地の良いものだった。サーモンピンクの床はリノリウムで、天井のささやかなランプをそのつやつやした表面に映していた。天井にはランプの他に、小さな電球が星のように並べられ吊るされていた。
とある村のはしのほう、学校からも遠くてシラカバのおいしげる森に囲まれたところに、ふたりのなかよしな女の子がいました。ひとりはビアトリス、もうひとりはナタリーといいました。ビアトリスはいつもゆううつそうな顔をしていました。彼女が、ゆううつだと思うことをあげるとしたら、宇宙の果てまでそのことばがつみかさなっても足りないでしょう。たとえば、学校がうちから遠いとか、池の水がきたないとか、本がぶあつすぎるとか。はんたいに、ナタリーにはなにもかもがあかるく、すてきに見えました。さきほど
グラント先生 ある中学校に、グラントという先生がいました。グラント先生は1年C組の担任でした。1年生の先生をまとめる役も背負っていました。彼女はとてもきびしい先生でした。生徒が一分、いや一秒でも朝の会におくれたり、給食当番がちょっとおしゃべりしたり、音楽の授業で大きな声で歌わなかったりすると、全員の前でしかりつけました。しかられた生徒は、作文を書かされ、二度と「悪い」ことをしないように反省しなければならないのです。 しかし、C組にひとり、けっして作文を書こうとしない女の子
1 その日は、朝から今年五回目の雪が降っていた。 十八歳になったばかりのとまは、傘も差さずに視線を足元に落として家路を歩いていた。積もった雪を踏む足音が蕭々としてそこここに反響していた。 空を仰ぎ、吸い込まれそうな錯覚を起こすと、彼の足元はおぼつかなくった。道端にそれ、何かが足に引っかかった。とまは我に返ったが遅く、凍てつくほど冷たい雪につんのめって倒れた。小さく叫んだつもりだったが、声はあまりの冷たさに出てこなかった。
十九日目 面長先生とこないだ陶芸をやったが、ついに小皿が完成したんだ。僕のと、先生のが。もちろん帰ったら見せるよ。 面長先生に僕をただの患者のうちの一人として見てほしくなかったが、確かな僕の証拠を彼は自分の陶芸に反映するだろうな。僕は僕の苦悩を持つとまという存在。先生は透き通るように青い彼の陶器を目にするにつけ、患者の枠から外れた僕を想起するだろう。彼は陶芸の際白衣を脱いでいたことは以前言ったが、それも僕を一人の人間として思い出す助けになるだろうね。どうかあの皿が割れま
十七日目 僕のいけないところは、「白か黒か」で生きていることらしい。確かにそうだ。「障害と向き合うか、死と向き合うか」しか選択肢がないように思い込んでいる。だけど、僕にそれを指摘する人は皆、僕の障害のような苦しみを味わったことのなさそうな人々なんだ。僕が障害とぶつかった時にどれだけ憂鬱になるか…それこそ死にたくなる程だよ。 実は、変わりたいから死にたくなるんだ。変わる方法を探しあぐねたふりをして、最終的に、傷つくことなく変われる唯一の方法である死を選ぶ。僕はよく面長
十三日目 病院の中庭は、地と空を隔てる物もなく、鳩の住居である木々が生い茂る、唯一解放的な空間なんだ。 そこに、今日もお馴染みの顔があった。その禿げた外人のおじさんは、鳩の群がる車椅子の上で包帯の巻かれた右脚を伸ばして座っていたよ。僕がカフェの窓から彼の様子をちらと窺うと、目が合っちゃた。優しい目だった。次に見た時、彼はサンドイッチを貪り食ってた。その食べっぷりが、丸々とした体躯に実にあらわれていたね。 彼は日がな一日、ああしているつもりなんだろう。彼は詩人に違
十二日目 昨夜面長先生がやってきて、「ちょっとお話しませんか」と言った。いつもは風のようにやってきては颯爽と去っていく夜の回診なのにさ。今回はなんか変だ、と思った。 廊下のつきあたりの窓のそばにあるソファに、僕はどぎまぎしながら座った。正直、入院するという事実すら夢での出来事だと感じているもんだから、それ以上に驚くことはないだろうと思っていた。周りが暗かったのも助けて、さすがに動悸もしなかった。 先生は、僕と彼が違う方向に進んでいるということを心配しているみたいだっ
九日目 「生きている意味はある」 お祖母さんは帰り際、そう言いきった。確信に満ちた目つきで、子供の僕を優しく見下ろしながら。 僕は、まだお祖母さんの境地へ至らぬまま命を終わらせようとしていたことに、一種の戦慄を感じた。一日の疲れはそれを上回っていた。だけど、闇夜の町の家々のひとつに明かりの灯っているのを発見した時のように、荒涼とした胸の中に小さな火が居座っているのがわかったんだ。火はいつ胸いっぱいに広がるだろう。明日か、一年後か、十年後か……あるいは広がらぬままか。火が
七日目 とまはいつも遊んでばかりの、しょうもない奴だろ?今日もカラオケで喉を潰し、服になけなしの金を費やして。こんな疲れには満足できない。 今日みたいな夜は、苦い中学校での日々を追想してしまうな。僕は中学一年の事件の後から、好きな人ができると、「どうせこんな僕を受け入れてくれない」という確信から、その人を敢えて嫌うような癖がついてしまった。だけど、愛というのはとことん与える作業なんじゃないかって考えてるから、僕のその見返りを求める態度は愛とは言えない。とはいえ、やっぱし
六日目 今朝は、目が覚めてすぐに恒例の動悸が始まった。それに胸が激しく焼けるのを感じた。朝食はほんの少し、米一口だけ食べた。きみが想像するように、体重はかなり落ちたね。さっきはかった時点では、三十九・四キロ。お祖母さんなんて、僕を見て開口一番、「骸骨みたいよ、あなた」だからな。 頓服薬をもらって動悸がまだましになった頃、廊下のつきあたりの大きな窓がぼんやり白く濁っていたから、そばへ行って外を見てみた。十一階の高さからね。いつの日かきらめいて揺れていた不忍池も、今日は紺の
五日目 人生初めて、東京大学に足を踏み入れちゃった。壮大で小綺麗なとこだよ。小さな森の中にある三四郎池は「心」をかたどっているらしい。太った鯉がお互いぶつかり合いそうになりながらうようよ泳いで、クッキーのかけらを水に投げ入れると我勝ちに集まってきたの、なかなかの見ものだったなあ。僕、奴らのうろこを枝でつついてやった。丈夫な手ごたえを感じたよ。心の中をうごめく、かたいかたい鯉。もう少し奴らの声に耳を澄ましていたかったんだけど、そん時は時間を気にしていて余裕がなかった。それか
四日目 僕が精神病棟の十一階に上がろうとしたら、母子がエレベーターの前に立ってたんだ。子供はかなり幼いように見えたな。四、五歳じゃなかろうか。可愛らしくて、無邪気にはしゃいでる声に心をくすぐられたがね、僕の顔には気掛かりな微笑が浮かんだだけだった。というのも、子供の頭はかなり禿げて、細い毛がむなしく揺れていたからだ。その子に、笑うんじゃなく、悲しそうにしていてほしかったと思うのは僕だけかな。僕が悲観的なだけ?子供の隣でつつましやかに立っている母親は、どんな表情をしていたん
三日目 エントランスに入って左に中庭があんだけど、そのど真ん中にシマトネリコがそびえてるんだ。シマトネリコって、お見舞いに来てくれたお祖母さんが教えてくれた木の名前。その周りにテーブルやベンチがぽつぽつ並んで、僕はその一つに腰掛けてた。鳩が人間に慣れていて、かなり接近してきたんで、手をそっと差しだしてみると、くちばしでつつくように噛んで来た。その全く痛くないのなんのって。鳩って、哀れな存在だよ。子供一人ですらまともに攻撃できないのに、ほとんど人工化した人間の住処に生きなき