16才とまの話9。精神神経科
十二日目
昨夜面長先生がやってきて、「ちょっとお話しませんか」と言った。いつもは風のようにやってきては颯爽と去っていく夜の回診なのにさ。今回はなんか変だ、と思った。
廊下のつきあたりの窓のそばにあるソファに、僕はどぎまぎしながら座った。正直、入院するという事実すら夢での出来事だと感じているもんだから、それ以上に驚くことはないだろうと思っていた。周りが暗かったのも助けて、さすがに動悸もしなかった。
先生は、僕と彼が違う方向に進んでいるということを心配しているみたいだった。僕はなんとか誤魔化した。それから、事務的なやりとりが交わされ、僕はほとほとうんざりしかけていた。これまでは医師と患者の会話に過ぎなかった。だけど、少し間があって、彼は言った。
「とまさんのその苦しみが、報われる時が来ると良いね」それから、「君は持っているものがあるし、大丈夫だと思うよ」ってね。
僕は慎重に、根拠はあるのかどうか聞いたが、理詰めで言ってもねえ、と返され、確かにそうだと思って苦笑した。先生も自分で言ったことが照れ臭いのか、きまり悪そうに笑っていた。僕は面長先生が陶芸の時に白衣を脱いでいたのを思い出し、素直に喜んだ。
それから悩みをあれこれ話していたのだが、途中感情が高ぶって涙が出そうになった。だけどここで泣いたら、僕の葛藤はすべて涙と共に流れ落ち、無益なものになりそうだったから、拳を固く握ってこらえた。その後、本の話をして、面長先生がおすすめの本をメモ帳の紙切れに書いて、渡してくれた。
今朝机を見たら、先生の膝の上で書かれた稚拙な字が紙の上に並んでいた。昨夜の出来事は嘘じゃなかったんだって、あれを見て確認できたよ。‥‥‥あ、ちょっと待ってて。
ごめん。今、三十代くらいの女性の患者さんが例のソファの方へ歩いていったのが見えたんで、後を追って話しかけたんだ。二人でソファに座ってた。
彼女は人の良さそうな感じで話してて、かなり親しみやすかったね。父が昔、蕎麦屋を営んでいて彼女が手伝っていたこと、母はもう亡くなっていること、中学校で多くの生徒の前でバレーボールをやってみせようとしたら足が震えて恥をかいたこと…なんかを教えてくれた。
彼女は右の大きな窓の外を見て、こう言ってた。「私、ここから飛び降りられないかなって考えた事あんだよね」
僕は「わかります」を連呼して頷くばかりだ。だって本当にそれでしか気持ちをあらわせなかったんだから。
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