人生において「感情の癒し」の先まで取り組むかどうかは、人それぞれ。自分の納得いく生き方を目指して
こんにちは!お元気ですか?
先日、前々から気になっていた蕎麦打ちを、義父から教わってきましたよ。
気になったことはいつかいつかと後回しせずにチャンスがあれば、創って頼んで、やってみる。一昨年、祖母が亡くなった時に思いました。あの時教わっておけば・・・聞いておけば・・・は、やっぱりちょっと寂しいですからね。
30年近く蕎麦打ちをしている義父の手ほどきで、なんとか蕎麦らしい感じに仕上がって、両親と夫と満腹になるまでいただき、〆の蕎麦湯まで大いに楽しみました。美味しいったらない。今後の人生で、満足のいく蕎麦が打てるようになったら嬉しいなぁ。
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さてさて、ついつい前置きが長くなってしまいますが、今日は、癒しとその先について、気になっていたことを書いてみたいと思います。
前置きとして、今痛みを抱えている人、感情をまだ自分自身で冷静に受け止めるスキルや自信がない方は、今回は、ここで読むのをやめていただきたいと思います。
大きな「癒し」が必要な時期というのはあって、この話は、おそらくその時期に聞いても、ただ辛くなるだけの可能性を内包していると思うからです。自分と向き合う筋力が鍛えられていないと、ただしんどくなってしまうかもしれないので。
私の学びの一環としてここに記します。
というのも、過去の痛みを癒すことで現実が変わっていくことは、自分自身も体験していますが、その中でも、「癒せたなぁ」と思っても、その後、何度も似たような事態に遭遇することが多い部分がありまして、癒しだけだとカバーしきれないところがあるのだなぁとうっすら感じておりました。
癒しと聞くと色々思いつきますが、例えば幼い頃に昇華しきれなかった感情や体験を迎えに行くこと、身体にたまった感情をリリースすることなどなど、色々なものを試してみましたが、どうも癒せたような感覚があっても、現実がなかなか変わらない。(人との関係性で、何度も同じところでつまづいているような感じ)
それを見ていて気付いたことは、実は、自分自身の感情の癒しが深まっていても、基本の行動、癖が全く変わっていない場合。
癒したら、変わる。という部分も多いにありますが、人生のテーマにおいて、自分自身がやってきたことに向き合うフェーズとかパターンもあるのだなと最近感じています。
例えば、私の場合、必ずといっていいほど、支配欲や、コントロール、思い通りに場を制したい人に、振り回されやすい時期があったのです。
その頃の自分自身には、対等に人と付き合える心の土台が無かったので、ついつい関係性に上下を作ってしまう。気づかぬうちに、自分が下に入って、相手を上にしている。心地よくない謙遜や、たまに見える卑屈さ。衝突を避けるために自分の意見を伝えることを避けるために、関係性が発展していかない。などなど。挙げればキリがないほどに、行動の癖が盛りだくさん。
支配されたくない、コントロールされたくないと言いながら、自分で人の下に勝手に入ってしまう。
そんな自分の感情的なしこり、下に入らざるをえなかった幼い自分に何度も何度も寄り添いながらも、なかなか思うような関係性が築けない時期が続いていました。
そんな時、ある人に、自分の状況を心配されたことが契機となり、傍と気づいたのです。
私は、自分の弱さや謙遜を使って、状況をコントロールしたかったんだなと。
つまり、上からの支配やコントロールだったのではなく、私も下から状況を支配し、コントロールしようとしていたわけです。
それは、うまくいくわけもなく、対等な関係を築くことができるわけもありません。
他にも、言わないことで場をコントロールしようとしたことや、自分の苦手さや弱さを言外にアピールすることで相手に慮ってもらおう的な、狡い自分がたくさん出てきました。もう恥ずかしくて恥ずかしくて、ただ打ちのめされるばかり。
そういう癖が自分にはあったのだと、ちゃんとわかったタイミングでした。
思い通りにしたい。思うとおりに動いてほしい。
そこに、相手とのコミュニケーションは必要ないのですよね。こちらの一方的な想いだけで、何かを共に創り上げる意志はない。だからこそ、相手と関係を深め、共に創り上げるるための対話や、勇気、スキルを磨いてこなかった。
それが、その時のそのテーマにおける私の現在地。
つまり、自分を雁字搦めにしてきた感情が癒されたとしても、その感情を出発点として、築き上げられてきた自分の行動の癖や偏りは、また別に存在している。
ある意味習慣化された行動ともいえるから、無意識に発動していることも多い。
こういう状況では、こういう反応、行動が出やすい。
自分の中に長年あった痛みの多くは、人との関係性の中で築かれたものだからこそ、余計に。
人のせいにして、だから痛かったのだ。私は悪くなかった。そう気づくことで楽になる時もある。まずはそこが出発点になる事が多い。そしてじっくりゆっくり癒していく時期がとにもかくにも必要な時期がある。痛みが大きければ大きいほど。(というかここの基礎力が安定してこないと先に進めない。自分や自分の人生への信頼がなかったら、こんなこと気づいてもただ潰れてしまうだけだから)
癒すべきポイントを見つけ、癒し、寄り添いというスパンが終わり、それでも自分の人生の中で、そこで済ませられないことも出てくるのだと思うのだ。
『「癒し」のみで終わってOK!』というところと、『その先までやりますよ』という部分は、人によって生きるテーマが違うからこそ、異なる所なのだと思う。自分にとっては重要でも、人にとっては重要ではない。あの人はここまで、私はここまでと、学びの深さ、広さも全く違う。
自分がやらなければ、人が絶対にやってくれないところ。
それでも自分がこれに取り組みたいのは、「自分も人も世界も大切にしたい」という想いが強いからなのだ。
だから、癒しの先にいたそんな自分を知るというなかなかに強烈でしんどいテーマも進んでいける。
(今回の話で言うなら、勝手に人の下に入って、弱さや謙遜で人をコントロールしていた自分を真っすぐに受け止めることww)
だって、自分を傷つたと思っていた人と、違う方法で、同じことを他人にしてたなんて。かなり衝撃的過ぎます(笑)
受け入れがたい自分がいたことを真っすぐに受け止めるなんて、そうそうしたくない。ただ、自分がこの人生で気づくことがテーマなら、してきたこと、していることに気づくまで、同じような状況が顕れ続ける。
そして、やっていたことに気づいた後は、自分の意志にかかっている。そのままその行動を続けていきたいか?新たな選択として、次の新しい「習慣」や「行動」を構築していくか?
後者なら、新たな「行動」の選択肢を構築していくスパンに入る。
慣れていない行動を取るというのは本当に勇気が要るし、体力も使うから、そもそも元気じゃないと難しい。だから本当にゆっくりゆっくり積み重ねていく。失敗も日常茶飯事。
特に、私はこのテーマに関しては、まだまだ発展途上。
社会的な肩書や、師弟関係のような上下関係、親子関係、友達関係など、様々な関係性の中で、好き勝手傍若無人にふるまうのではなく、そのような関係性において、自分のことも、相手のことも平らかに観て尊重する。そして、必要に応じて、自分の意志を伝えたり、考えを伝えたり、行動に移してみたりすること。心地よい関係性になれたら嬉しいけれど、行動してみた結果、距離を置くこともある。それがその時のお互いにとっての善き選択と思えるならそれがベストだと思う。
このような日々の積み重ねをしてきて想うことは、相手を「1人の人」としてだいぶ見られるようになってきたということ。(今までの皆様、本当にごめんなさいねという感じですけど、過去のあれこれがあるからこその今なので、今ある関係性の中で精進あるのみという感じです)
例えば、私の場合、義理の両親に対して、「姑と舅」という役割を勝手に着せて、それぞれがどんな人なのかをちゃんと見てこなかったということに気づいたのですね。気づいて、その人をちゃんと見ると、たくさん見えてくることがあるのです。そうすると、気持ちよく自分と目の前の人の人生を編み込むヒントや可能性が見つかったりするのです。
大切な誰かを一人の人として、その人の人生として尊重しながら、自分も大切にする。ある時、あるポイントで、お互いの人生においてどんな柄を共に織りあげたいのか。その可能性は、本当は無限なのですよね。無限の中から、何を選ぶのか。
自分の思い込みや行動の癖がその幅を本当に狭めていることもある。たくさん失敗はしたけれど、これからもしていくだろうけれど、人生の最後に、この人生で納得のいく限り、自分と誰かの人生を大切にできたなと思えたらいいなとそんな風に思う。
この「大切」ももちろん、私にとっての「大切」なので、人にとっては「大切」にしているように見えないかもしれないことも念頭に置きながら。
それでも自分の納得のいくかたちで歩んでいきたいと思う今日この頃です。
今日も最後まで読んでくださってありがとう。
素敵な一日を🌈
明日美