見出し画像

人と生きている実感~大笑いと手を振るということ~

こんにちは!明日美です。

みなさん、冬の楽しみはありますか?

私は冬の楽しみの一つに、マンションの駐車場わきにいるコブシの木を見上げることがあります。
毎年、細かな毛に覆われたギュッとした蕾をつけ、冬を越す姿が美しい。この時期は、まだまだ蕾は固い。それがだんだんと春に近づき、膨らみ、3月には一斉にこぼれるように開花する。そして一斉に春の雨風に散っていく。
そんなコブシさんと、今年は「なかなか冷え込みが弱めの冬ですね」などと言いながら、交流している。昨年は、「まだ寒の戻りがありそうですよ。」とか話していた気がする。花が散った瞬間から、いつも次の春が始まっている。そんなことを教えてくれたコブシは、近所のおじいちゃんみたいな存在だ。

3月のコブシ


そして、冬の楽しみ2つ目は、スズメ。

私が住んでいるマンション5階の高さは電柱のてっぺんのと高さがほぼ同じなのである。家の窓の目の前にある電柱に巣作りしているスズメたちが、冬は、羽毛でまん丸となる。(今年は少し小さめのような気がする。暖冬だからか?)
まん丸とした雀がみんなでチュンチュンと集まっている。そんな彼らが、電線に身を寄せ合っている姿を見て、和みの時間を頂戴している。
「ふくら雀とはまさに」と毎年毎年懲りずに思う。(ふくら雀と言いたいだけ(笑))

前置きが長くなりましたが、今回は、先日、寝る前に歯磨きをしながら、ふと湧きあがった「人と生きていること」を実感した瞬間について書いておこうと思います。

その日、私は、お茶のお稽古に出かけまして、毎月一回集まるメンバーと楽しく、濃密な時間を過ごしました。

時に釜が鳴る音しか聴こえないほどに静けさに包まれたかと思えば、涙が出るほど笑ったり、真剣に想っていることを伝えあったり、その時間をこれでもかというほど味わい尽くして、帰路につきました。その頃にはお肌がツヤツヤなのは言うまでもない。

その日は特に「大笑い」の時間がたくさんあった。ユーモアを含んだ振る舞いと、掛け合いに、笑いが絶えなかった。

そんな日の夜の歯磨き。

「大笑いって一人じゃできないんだな」

1人で笑うこともあるんだけれど、大笑いって一人ではしたことがない。そんなことを思った。その時、扉を隔てたリビングの方から、お腹を抱えて涙を流して笑っているであろう夫の声と気配が伝わってきた。
芸人さんかどなたかわかりませんが、夫を笑わせてくれている人達がいるんだなと、その実体が急にはっきりと輪郭を持ったように感じた。

そういう時は、何かと繋がった歯磨きの瞬間に、他の記憶が鮮やかに引き寄せられていく。

昨年書いたこの旅。

実は翌日、翌々日と、広島に行って、いたく心動かされる出来事があった。この2日間、平和記念公園や、平和大橋、広島城、宮島。初めての広島につき、いわゆる「広島」という場所を巡らせてもらった。

夫と連れ立って電車とフェリーで行った宮島。人でごった返した厳島神社を観た後は、人気のない裏路地を二人静かに歩く。そこかしこに転がる鹿のフンをよけながら、古い石垣や水路に胸が高鳴る。

そして、人混みが苦手な我ら夫婦は、帰りのフェリーと電車を思うと気が重く、どうしようかねと木陰でしばしの休憩。その時、目に飛び込んできたのが、宮島から平和記念公園直通の高速船だった。

これだ・・・これしかない。自分たちの体力を考えると、背に腹は代えられないということで、出発まであと10分。急ぎチケットを買い、乗り込む。

美しい瀬戸内の海。人が少な目の船内に少し身体がホッとする。
太陽の光を無限に反射させる水面。光の向こうに映える瀬戸内の島々。高速船は時折、光の中を跳ねるように進んでいく。

そして、陸に佇む建物を押しのけるように広がる河口が見えて、高速船は、海から川へと道を変える。工場群、繋がれた釣り船。無機質な場所がしばらく続いたかと思うと、整備された河川敷が続く。
川のほとりのベンチで休む人たち、犬の散歩をしている人、楽器を練習する人たち。そこに住むたくさんの人たちの生活の営みが、川岸にあった。
ある時、河岸で釣りをしていた青年が手を振ってくれた。河口近くの川幅は広く、距離も離れていたので、細かな表情まではわからない。私も無意識に振り返す。気がつくと、同じ船内にいた人たちも手を振っていた。

街中が近くなると、川幅が狭まり、河岸との距離も近くなる。たくさんの若者たちが、陽の当たる河岸の堤防から足を投げ出すように腰かけ、思い思いの時間を過ごしていた。合唱部の高校生や、何やら本のようなものを開いている人たち、休憩している大きなリュックの旅行客。そんな人たちが、船に気づいて、たくさん手を振ってくれる。私も手を振り返す。
それが、高速船到着まで連なるように続いた。「手を振る」というその場限りの言葉なき交流。船が通り過ぎる瞬間だけの刹那。手を振る人たちは、みな一様に満面の笑顔だった。美しい光景だった。
私はすっかり感極まっていた。

それを思い出しながら、歯磨きをしている私の目もまたじんわりとしてくる。

その時、次の記憶がやってきた。

夫と行った初めての海外旅行。ウィーンから、プラハへと続く高速列車に乗っていた時のことだった。途中駅から出発するその時、車窓の外には、ホームに1人の女性が立っていた。歳のころは、60歳前後だろうか。
その人は右手を高く上げ、誰かに手を振っていた。その視線を送るその先に、誰がいたのかはわからない。けれど、一つだけわかることは、笑顔で見送りたいと思う相手がいたということ。

その時に、実家から独り暮らしの家に帰る娘を見送る、改札向こうから手を振る親の顔が浮かんだ。何度も、何度も見送ってもらっていたなと思った。

どんな国でも、大切な誰かを見送る。その時に、手を振るのである。

そして私の意識は歯磨きに戻ってくる。

ともすると、そんな何気ない日常の一コマ一コマが、誰かと生きている証だったことを、私はすぐに忘れてしまうのだ。すぐに忘れてしまう私だからこそ、たまにそれをしっかりと思い出して、身体に沁み込ませるようにと、親切な誰かが色々な体験と記憶を送り込んでくれているのかもしれない。そんなことを思った。

そんなふうに穏やかな想いに身を浸すと、憎しみも怒りも歓びと変わらない。相手がいたという時間の証。私が生きたという証なのだなと思った。

生きてきた全てが、ただただ星のように瞬く。

読んでくださってありがとう。
今日も素敵な一日を🌈

明日美

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?