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【研究中】デザインの意味不明用語集

2022/12/12 最終更新

この用語集ケーススタディは、平塚がデザインの領域に入っていって知らなかった用語か、通常とは異なる独自の意味で用いられていると思われる用語等についてきまぐれに解説……感想を述べていきます。用語の正確な意味内容を定義するのではなく、自らの実践を踏まえて用語理解の苦悩の痕跡を残します。言ってみれば、底なし沼の前に旅人の杖が落ちていて「ああ、誰か先にここに来て沼に落ちたんだなぁ、かわいそうに。私は避けていこう~」と思ってもらえるようなかんじのユーザーガイドダイイングメッセージを試みます。順次アップデートします。何でもは知らないよ、知ってることだけ。知れば知るほど知らないことが増えていく……(沼に沈む音

アブダクション abduction

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推論方法の3タイプ

超基本用語。特定の事象を最もうまく説明する仮説を選択する推論方法。つまり、デザインの世界の事象説明は、基本的にはすべて物理学的時間軸において先行する個別具体的な実践から遡及的に構成された仮説(→「仮説」の項を参照されたい。)である。はじめに具象があり次に抽象から説明する。最初に抽象があって次に具象にブレイクダウンするわけではない。法律家におけるような利益衡量結果についての後知恵の正当化論証のようなものである。用語として知っているかどうかはともかく、この思考をしていないとデザイナーではないとさえいえるとかいえないとか。演繹 deduction、帰納 induction と並ぶ第三の思考ないし推論方法。イラストレーターとは異なり、対象について抽象と具象を自在に行き来させられるのがデザイナーのマストの条件であるとされるとかされないとか。元ネタ論文は、Kees Dorst “The core of 'design thinking' and its application” (2011) であり、同論文では、ノーマル・アブダクションとデザイン・アブダクションとを区別している。

【稲葉】正直、意味わかんないんですよね。正しく理解して使ってる人いないと思いますよ。Twitter とかでも射程というか定義がばらばらだし。デザイナーって定義を勝手につくっちゃうじゃないですか。個人的には、堅苦しく言わずに、結果や行動に対して「なぜ?」、「どうやって?」とか考えていれば身に付くと思ってます。「アブダクション」というよくわからない言い方されたら自分もよくわからない。

イノベーション

それが何なのかわかったら苦労はしない。理論的には技術革新ではなくビジネスモデルの革新のことを指す……はずである。Joseph Alois Schumpeter は、当初、新結合 neue Kombination という用語を使っていた。

【稲葉】自分もずっとこの言葉の虜になっているんですが、「イノベーション」が何なのかよくわからない。デザイン界隈では「技術革新」の意味合いではあまり使われていない。沼にはまります。自分もイノベーションに関する研究を行っていましたが、正直よくわからないんですよね。「新結合」とか「スパイラルアップ」とか言われますが、とりあえずくっつけるんだろうな、と。シュンペーターの言ってる意味では絶対使われてない。ある意味で便利な言葉だと思っています。
【平塚】原典である『経済発展論』(独語2版、1926年)や『景気循環論』(英語版、1939年)にあたったわけではないので詳細はわからないのですが、シュンペーター自身も日本語における訳語のような技術革新の意味では用いていなかったようですね。

意味のイノベーション

Roberto Verganti によるアメリカで標準搭載されたデザイン思考(のうちの人間中心=ユーザー中心デザインの考え方)に対するカウンターの自己中心的な発想である。デザイン思考の「共感」段階の欠点を突く。「意味」とは何か、「イノベーション」とは何か、色々考えると難しい発想である。換言すれば、顧客にとっての体験価値のパラダイムシフトのことをいう。顧客の声を聴かなくてよいということではなく、自己の課題意識や視点を持ち込むべきであることを意味している。

意味のイノベーションは、従前の製品(物理的実体)に対して何も手を加えないわけではないことに注意が必要である。純粋に顧客にとっての意味内容だけが変わるという話ではなく、顧客にとっての意味内容が変わるように物理的実体のほうを変えていくデザインの話である。物質的操作を加えることにより結果的に意味のイノベーションが発生するのであり、物質的操作をせずに伝え方だけ変えるということではない。

経営分野における「ブルー・オーシャン戦略」とほぼ同じ事象を別の視点から述べている趣があるが、「意味のイノベーション」は技法論である。

違和感

デザイン領域において極めて重要な概念。カジュアルに「もやもや感」ともいう。統計をとったことはないが、おそらく最頻出ワードに近いくらいに出現頻度が極めて高い。既存のフレームから外れ、又はそれによって捉えきれない現実的事象の存在を感じていることを「違和感」と呼んでいるものと思われる。デザインという行為のとっかかりになることが多く、いかに違和感を特定して言語化し、又は視覚化して共有できるかが重要である。子供のほうがそのあたりは素直。理屈で安易に納得してはいけない。違和感を持つことは「原則として」肯定される。

【稲葉】自分は「気づき」という言い方をしています。それを感じられるかは属人的になります。自分はずっとユーザー調査をして「気づき」を捉えろと言われてきました。個人ごとで異なる視点からの違和感があると思っていて、それはブラックボックスです。他人の異なった観点同士がぶつかることによって何かしら生まれるのかもしれないですね。
【平塚】気づかない人ってどうすればいいですか?
【稲葉】デザインを辞めればいいんじゃないですかね(笑顔の断言)。スケッチの練習は観察の練習になるとは思いますが。何でもいいと受け容れていると気付かないかもしれないです。ただ、医者も弁護士も細かいことに気づくほうだと自分は思いますよ。

インサイト

個社によって用語法が異なるらしいという闇は置いておくとして、ふつうに日本語で「洞察」と言えばよいのではないかと思わないではない。ユーザーインタビューの結果から得られた知見のことであり、その後に How Might We という問題定義段階に接続することが予定されている。跡部景吾とは関係がない。インタビュー結果の中に自らの願望を投影してしまうというのが典型的な失敗である。〈意味するもの〉シニフィアン〈意味されるもの〉シニフィエとが異なるという点については十分に注意が必要であり、インサイトはあくまでも〈意味するもの〉に焦点をあてたものと思われる。決してユーザーの発言の意味内容を引き受けて解釈してはならない。

「インサイト」は、実のところインサイトそのものを指しているわけではなく、複数人のチームメンバーにおける分業体制を前提として、そこで共有するためのインサイトの記述のことを言っている。つまり、非常に紛らわしいが、ここで言っている「インサイト」の存在形態は、内心的な気づきではなくテキストにほかならない。また、その記述は、具体的なネクストアクションにつながる記述でなければならないという厳格な縛りがある。

アブダクションというデザインの基本的な考え方からすれば、インタビューの生データこそ重要であってインサイト記述だけ共有してもあまり意味がないような気がするほか、ネクストアクションにつながるかどうかは実装から離れたインタビュアーには判断がつかないのではないかといった基本的な疑問がないではない。おそらく趣旨としては、デザインとは無関係の効率的分業上の要請として(特に組織上位者のリソースの限定性を根本的な理由として)、チームメンバーが一見してわかるような記述であることが求められるということだろう。そういう意味では、ほとんどインタビュアーの最終的な実装に対する知見と人間に対する観察眼に依存した手法だといえる。とりあえず「インタビュー結果をまとめる」とは「インサイトの記述をチームメンバーに伝えられる状態に置くこと」を意味すると思っておいてもらっていい。

【稲葉】インサイトとは何だろう。わからない。マーケ業界がよく使う気がする。これがなんでインサイトなのか、わからないじゃないですか? アブダクションと違和感が得られれば洞察は得られるんじゃないですかね。それで深い気づきを得られると思うんです。アブダクションと違和感から何かしら抽出したものが洞察だと思います。UX 界隈ではラダーリング法、上位下位関係分析法、KJ 法など、情報整理の方法があります。ユーザー調査の結果について、ある視点からモデリングするんですよね。
【平塚】モデリングするとどうなるんですか?
【稲葉】本質的な要求にたどりつきます。気づきごとにまとめたり、違う視点からまとめたりして、もっと抽象化すると、構造やつながりが見えてくるようになります。

インタビュー結果

質問と回答の発話記録のこと。映像・音声データの書き起こしのことを意味する。多少語弊はあるかもしれないが、法曹界でいう裁判上の尋問調書のイメージに近い。あくまでも分析の前提となる証拠レベルの話であるため、価値判断を入れた記述に引き直してはならない。価値判断を入れた分析は別工程で行うため、情報収集工程で分析を入れてはならない。インタビュー調査は、(1) インタビュー実施計画書、(2) インタビュー結果、(3) 分析図の3つがセットであり、リサーチャーの納品物に相当する。

インタラクション・デザイン

略称:IxD。サービスデザインの原型として重要な領域。歴史的にはデジタルプロダクトが念頭に置かれていた。2010 年頃から UX 概念に吸収されていく。

ウェルビーイング wellbeing

世界保健機関 (WHO) が提唱する用語。世界保健機関憲章(1946年7月22日)において "Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity." として健康の定義として登場する。なぜかデザインの領域で頻繁に登場する概念である。

「幸福 happiness」と何が違うのだろうかと思うが、おそらくは個人の快楽の意ではなく、共同体としての共通善、個人としての善き生のことを意味するものと推測される。そうすると、功利主義というよりも共同体論に傾斜することになる。結果的に、全体主義やナショナリズムはもちろん、リバタリアニズムやリベラリズムとも相容れないということかもしれない。我が国の憲法においては「公共の福祉 public welfare」(憲法第12条、第13条、第22条、第29条)と呼ばれる概念があるが、ウェルビーイングの立場からは一元的外在制約説でも二元的内在外在制約説でも一元的内在制約説でもないことになる。

【稲葉】ウェルビーイングはウェルビーイングじゃないですか? 「幸福」と書くと意味が変わっちゃうんです。もっとライトな感じがするんですよね。日本語にするといっきに宗教チックになる気が。
【平塚】どういうときに使うんですか?
【稲葉】オシャレな組織や意識の高い組織、あとは余裕がある組織とかが使います。……余裕がないと考えられなくないですか? 取り組んでる企業はそれだけ体力があるんですね、きっと。お金を稼げるという意味でよいことではなさそうですね。そもそもデザイン用語じゃないですよ。欧州が言い出したのかなと。世界保健機構が言ってますね。自分はロバート・ケネディの「幸福は、GDP では測れない」という言葉が好きです。経済成長が限界に来ている今、みんな新たな満足度の尺度がほしいんじゃないですかね。

SDGs

持続可能な開発目標 Sustainable Development Goals のこと。外務省の説明によれば、「2001 年に策定されたミレニアム開発目標(MDGs)の後継として、2015 年 9 月の国連サミットで加盟国の全会一致で採択された「持続可能な開発のための 2030 アジェンダ」に記載された、2030 年までに持続可能でよりよい世界を目指す国際目標」である。17 のゴール・169 のターゲットから構成され、地球上の「誰一人取り残さない(leave no one behind)」ことを誓う。なお、国際連合広報センターの言うように法的拘束力はない。

エスノグラフィ ethnography

もともとは文化人類学で用いられる観察手法のこと。正規の文化人類学の手法と区別するため、「デザイン・エスノグラフィ」だとか「応用エスノグラフィ」だとか呼ばれることもある。用語自体は学内ではあまり登場しないが、デザインの領域では一般的に流通している用語である。IDEO としては当初は「文化人類学もどき」だったはずだが、その後、どんどん比重が増えていって学問的な成果を取り入れはじめたものと思われる。私情を挟むと、文化人類学的手法よりラカン派精神分析のほうが好み。

文化人類学者レヴィ=ストロースの名前はそれなりに登場する。言語学者フェルディナン・ド・ソシュールは、僅かな講義を通して、綴りや音韻の変化等を歴史的に辿る従来の言語学(通時的言語学)に対して、ある特定の一時点で輪切りにした共時的言語学という新たな視点を提供した。ソシュール自身は共時的言語学の拡張に対して謙抑的であったようだが、レヴィ=ストロースはこれを文化人類学の領域で大幅に拡張した。それによれば、未開地域でも文明人に劣らない知性や思考に従って社会が動いている、とされる。これが『野生の思考』である。後に「構造主義」と呼ばれる時代の到来であり(構造主義自体はデザインの領域では語られない!)、ここから観察結果に基づき射影幾何学的に文化構造を記述することがはじまった。たとえば、「グー・チョキ・パー」、「石・ハサミ・紙」、「蛙・蛇・蛞蝓」などと文化シニフィエ的に多様であっても三者間の構造シニフィアンの集合自体は変わらない、そしてこれは射影幾何学や群論、圏論などにより数学的に記述可能である、と考えられたのである。レヴィ=ストロースの場合は、外婚制/インセストタブーが主な研究対象であった。突き詰めると、こうした構造の中では近代的な主体は高度に抽象的な数学的ネットワークの結節点に解消されてしまうため、理論的には現象学系譜で主体概念を維持していたサルトルと対立することになった。その意味で、現象学を好むデザイン領域にとって、文化人類学的観察手法は参考にしてもその数学的記述は参考にしないという根本的に矛盾した姿勢をとることになる。現象学系譜の存在論へと転回することは、こうした矛盾を解消し、ソーカル的リスクが大きく、イデオロギー的にも相容れない数学的記述から逃れるという側面があるということになる。

エントロピー

熱力学の用語。エントロピーは増大する。デザインの余地のメタファ。

仮説

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科学とデザインの仮説の違い

自然科学的な文脈での理論から帰結される仮説とは少し異なり、デザインの世界では「経験則」や「原則」くらいの意味合いで用いられることが多い。サイエンスの世界では仮説は先例がないところでの実証の動機的位置づけであるが、デザインの世界では仮説は先人の実践の結果として得られた知見であり、物理学的時間における因果関係が逆転する(論理的時間における因果関係は逆転しない。)。これはおそらくアブダクションという思考様式(→「アブダクション」の項を参照されたい。)の違いが関係していると思われる。

デザインの世界における仮説は、定性的なものも多いためか、要素として比較的細かい傾向がある。こうした要素は必ずしも科学的な概念ではなく、提案者の実存ないし制作という行為に大きく依存しており、仮説内容の記載だけを見ても何を言ってるかわからないことが多い。そのため、提案者の実存を分析するか、又は提案者と同様に自分で制作してみることが必要である。

株主利益最大化の原則 the principle of shareholder wealth maximization (SWM)

取締役は営利目的の法人である株式会社のために忠実に善良な管理者の注意をもって職務を行う(会社法第355条、第330条、民法第644条)。株式会社の利益は剰余金配当請求権(会社法第105条第1項第1号)や残余財産分配請求権(同項第2号)等を介して株主に帰属するため、株式会社のためとは株主の利益をなるべく大きくすることを意味する(何が株主の利益になるのかは取締役の広い裁量に基づき、短期的利益や長期的利益、ブランドや信用・信頼・評価等々も考慮されうる。)。これを講学上は「株主利益最大化の原則」と呼び、例外を認めるにせよ、会社法学上は通説の地位を占める。組合と組合員の関係性の系譜を鑑みれば明らかであるが、会社法上は、株主こそ「社員」であり、従業員は社員ではなく特殊な債権者である。

株主利益最大化の原則は、76 年のノーベル経済学賞受賞者ミルトン・フリードマン(シカゴ学派)や新自由主義、自由市場経済と並ぶ「デザインの敵」と認識されている。冷戦後の現代における打倒すべき支配的言説とされているようである。経済関連領域では東証上場企業の平均 ROE 約 4% がアメリカと比較して低いことが問題視され、会社法学領域ではいかにして株主利益最大化原則を実現してガバナンスの歪みを是正するかが問題になっているが、デザイン領域はかつての 80 年代の思想哲学界と同様にその逆を行く傾向が現在でも強い。ものすごく強い。おそらく背景には、そもそも造形領域が伝統的に社会に対する批判的色彩を帯びていること、金銭的インセンティヴによって人々の健全な善き意図が歪められることへの警戒と嫌悪があることの2つがあるものと推測される。

共感 emphasize

デザインの価値の源泉。元ネタ論文は、たとえば、Mattelmäki, Tuuli, Kirsikka Vaajakallio, and Ilpo Koskinen. "What happened to empathic design?." Design issues 30.1 (2014): 67-77. であり、同論文ではイノベーションを喚起するものとして位置づけられている。

新しいサービスは顧客ニーズを満たす必要があり、そのため「顧客の声に耳を傾ける」などと言われたりもする。しかし、顧客には経験や説明能力などによる制約から新しいサービスの開発に寄与する情報を得られないことが多い。そこで、企業において、顧客ニーズの把握方法が問題となった。具体的には、日常生活の中で顧客が製品やサービスを利用する様子を観察する方法をとる。

したがって、ここでの「共感」とは、感情的共鳴や同情ではなく、相手に対する理解のことをいう。すなわち、精神構造や文化構造、行動様式や慣習に対する積極的な理解を意味する。行動の背景や文脈の理解と言い換えてもよいと思う。『ジョブ理論』でも同趣旨の話が書かれている。詳しくは「エスノグラフィ」の項を参照されたい。

共創 co-creation

しれっと使われる用語だが、いまだに何が狙いの概念かよくわからない。実は、デザイナーによって意味合いが異なっている。サービス提供事業者とユーザーとの間の共創関係だけとは限らない。サービス・ドミナント・ロジックにおける価値共創は、人と人との共創関係とは限らず、人と物との共創関係やエコシステムをも含むものである。「アクターネットワーク」と言ってしまえばいいのではないかという気もしないではない。

おそらくコミュニティにおいて共通善をつくることが目指されており、その過程で対話等を通じて価値を明らかにすることだろうと思われる。この点では卓越主義的共同体論の言い換えに過ぎないが、さらにそこから価値観の同質性を基礎に集団的創造性につなげることが狙いと思われないではない。

なお、一部のヨーロッパ諸国で通用しているような行政と民間の「共創」の関係は、社会民主主義やコーポラティズムを歴史的背景にしているため、民主主義や自由主義と一定の緊張関係にあることに留意されたい。この点については、ハイエクによる『隷属への道』を参照されたい。

研究

一口に研究と言っても様々あり、私の認識では、(a) サイエンスによる定量的・実証的な研究、(b) エスノグラフィ・解釈学的なケーススタディ研究、(c) デザイン的な作品研究の大きく3つが存在し、パラダイムレベルでの戦争が発生している。また、これらの領域が混在していることもあり、ナニガナンダカワカラナイヨ。

実践的な水準においては、第一次的には発表する学会の問題があり、第二次的には学際領域で先行研究をどこから引いてどうレビューするか、どのように研究方法を組み立てるか、という学問的には と て も 深刻な問題がある。参考文献の出典表記にも影響する。さしあたりの結論としては、指導担当教授のバックグラウンド、つまり所属研究室によって変わる傾向があるといえる。教授陣は、たとえば、工学、心理学、経営学、マーケティングといった分野の様式に依拠していることが多い。

同じ条件、同じ方法であれば、いつ誰がどこでやっても成立するものが科学であり、また、当事者であることのバイアスを避けるため、一般的に、研究は当事者性を極力排斥したものでなければならない。しかし、いわゆる存在論的転回やアクターネットワーク理論など、特にデザイン領域の昨今の情勢から、著者の当事者性を極端なまでに重視することが必要な場合があり、この場合は研究という概念が根幹から覆されることになる。一方で、従来の科学性を重視して当事者性を完全に捨象してしまうと、デザインの対象次第では最も重要な部分の記載が難しい場合も出てくる。こうしたことから、分野横断という点も相まって、バランスが壮絶に難しい。

言語化

デザインをクリアカットに言語化すると肯定的見解だけではなく否定的見解も発生する。これは、ほかの領域ではあまり見られない現象である。否定的な見解には、言語はデザインを従属させてしまう、言語はデザインの神秘性を汲み取れていない、言語化したからといってデザインできるようにはならない、言語はデザイン(視覚言語や造形言語と呼ばれるもの)よりも情報伝達効率が劣る、デザインは言語で表現できるものではない等々、様々ある。いやぁ、いろいろ言われたなぁ……

デザインを言語化する意義は、初学者に対する説明、組織の上位者に対する説明のほか、対外的な説明、訴訟の際の説明など様々ありうるが、言語化は、デザイン本体に意味があるというより、デザインを防衛するための意味があるものである。

なお、コピーライティング的な言語化については、これとは全然別の次元の問題である。

現象学

わりと頻出する用語。現象学は、自分自身が直接経験し、又は知覚した事象を前提に「事象そのものへ zu den Sachen selbst」、「失われた始原 arche への回帰」という志向性 Intentionalität を有する領域であり、どちらかといえば形而上学よりも科学に接近していこうとする気配がある。というのも、フッサールの根底的な問題意識は現実から離れて理念化していく数学的可能世界に対する懐疑にあるからだ。メタ言語や高次領域への懐疑と言い換えてもよいだろう。領域の性質からすれば、現実的体験を重視するという点で、もともとデザインとの相性はいい。フッサールの「事象」概念を「存在」概念に引き直したのがハイデガーである以上、「デザインの存在論転回」もこの系譜の上にあるとみるべきである。

こうした領域の性質からか、デザインの世界では「現象学」はとても人気であり、頻繁に持ち出される。とはいえ、「現象学」といっても、多くの場合には、デリダはもちろん、ハイデガー、サルトルまでは行かず、基本的にはフッサールの時代の現象学である。メルロ=ポンティやレヴィナスはそこまで出てこない。特に思想哲学に正面からコミットしているというわけではなさそうであり、デカルト、カント、ヘーゲル、マルクス、フーコーあたりの現象学外の大陸系の有力者の名前は今のところあんまり登場したことがないと思う。当然、現象学と相容れない分析哲学も出てきたことがない。美術史の影響力が大きいためか、思想史は美術史を軸に展開される。したがって、大陸系哲学と英米系哲学の各系譜に整理されておらず、その都度、美術史はその時代のそれっぽい都合のいい概念を借用して説明されてきたのではないかと思われる節がないではない(→「哲学」の項を参照されたい。)。

ゴーゴー

写真 通称「ゴーゴー」

「3М™ スプレーのり55」のこと。貼ってもはがせる。「55」という数字が何を意味するのかいまだに知らないし、ほかの人に聞いても「わからない」と回答される。「77」は貼ってもはがせない。なななんと。

行動経済学

2002 年にダニエル・カーネマンがノーベル経済学賞を受賞しているが、これに起因して本格的に確立された経済学の一領域。簡単にいえば、従来の経済学の人間モデルを捨てて、より生身の人間に近い新しい人間モデルを掲げる経済学領域である。つまり、完全な情報に基づき合理的に判断を行う原子論的個人の仮定ないし虚構 Reasonable Person Rule を乗り越えて、限定合理性等を用いた生身の人間に近いモデルを採用しようとする。人間が合理的に行動しないこと自体は昔から知られており、たとえば、ケインズの「アニマルスピリッツ」概念で示唆されていたが、特にミクロ経済学ではこうした仮定の妥当性の検証が弱かった。そして、ここでも仮想敵としてミルトン・フリードマンが登場するのだが、彼によれば、それでもなお予測が正確で説明が役に立つならば仮定の非現実性は無視して構わないとされるのである。行動経済学は、こうした姿勢へのアンチテーゼとして提示された。

もっとも、結果的に行動主義心理学(現在主流の心理学は直接に人間心理を扱わず客観的に外部から観測できる行動の統計である)とどれほどの相違があるのか正直よくわからないが(カーネマン自身心理学者である!)、社会への応用という実用志向性を持っているということであろうと思われる。なお、行動経済学は、現象学の系譜とは関係がないが、抽象度の高い数理世界を批判の対象としている点で現象学と根っこの発想はかなり近いといえる。

顧客価値連鎖分析 Customer Value Chain Analysis

顧客構造を効果的に把握するための分析ツール。新規事業において、製品開発部門が製品定義 product definition で顧客ニーズ Voice of the Customer (VoC) の理解を誤り、当該製品の市場投入で商業的に失敗することに問題意識を置く。ビジネスモデルの分析やバリューチェーンの分析に近いが、経営戦略レベルの問題ではなく、具体的な開発レベルの問題である。法曹が用いるような当事者関係図に事実上の利害関係者を足したようなステークホルダーの把握からはじまり、ステークホルダーをノードとしてネットワーク図を描画する。図解化された CSR レポートという印象がある。適切な製品定義のため、お金の流れやクレーム(負の VoC フィードバック)の流れなどに着目する。法曹のやっていることとかなり近いといえる。元ネタ論文は、たとえば、Donaldson, Krista M., Kosuke Ishii, and Sheri D. Sheppard. "Customer value chain analysis." International Design Engineering Technical Conferences and Computers and Information in Engineering Conference. Vol. 46962. 2004. などがある。

コンセプチュアルデザイン

私は知らないが、みんな普通に使っていて全然ついていけてない。どうも理念的なものをテキストで表現しつつ、それが作品に落とし込まれていることを言っているらしい。とはいえ、基本的にはアブダクションの思考様式(→「アブダクション」の項を参照されたい。)に沿っているものと思われ、コンセプトよりも作品制作が先行しているはずである。Wikipedia から引用すると「1990年代以降、主にオランダを中心に欧州から世界中に広がったデザインの動向。1990年代以降の『ダッチ・デザイン』とほぼ同義ともいえる。〔…〕言語的なアプローチに立脚した意味操作的かつ自己言及的なデザイン」ということで「ダッチデザイン」がわからないので、やっぱりよくわからない。言語的なアプローチをとるなら定義も言語的アプローチをとってほしいと思わないではない。

コンテクスチュアルデザイン

日本語として上のコンセプチュアルデザインとの区別がややこしい。重要な概念であるが、原典の邦訳がないため日本での知名度が低い。

作家性

なんとなくわかってきたことであるが、どうもデザインやアートの業界内部では作家単位での「識別」が行われているようである。作品のコンテクストもカテゴリー単位ではなく作家単位である。私は作品に関心があっても作者にそこまで関心はなかったので、この点はやや意外であった。デザインの定義にこだわらないのかと思えば、けっこうこだわるデザイナーは多く、作品だけ見て別の系譜に位置付けると好ましく思われない。

作家単位で識別する傾向が生じる第一の理由は、作品性から作家の「実存」を辿るという批評の思考回路がとられることが多いと思われることである。このあたりは思想哲学の領域に近く、デザインの分類は原理による分類ではなく学派による分類に近いような印象を受ける。ただ、思想哲学の領域とは異なり、必ず参照されるような定冠詞付きの作品があるわけではない。……建前上は。

第二の理由は、より実際的な問題で、商業的に作品のクオリティの担保が難しいと思われるからである。つまり、コンペティションが行われて特定の作品がその時にはよい評価を受けたとしても、本命のプロジェクトで同じように「再現」できるとは限らない。この場合、一定の「再現性」を担保するものは作家性しかないということである。

歴史的な背景として、ヨーロッパにおいては伝統的に「作品」とは、市場で流通する財ではなく、作者作家 Author の人格の発露であると考えられてきた。これは、アメリカ合衆国で Copyright と呼ばれる権利がヨーロッパでは Author's right と呼ばれていることにも現れている。そう考えると、作家性とは作品から滲み出る個性といったところだろうか。若干、この説明には物理学で棄却された熱素説のような説明の胡散臭さはあるが、アブダクションの発想(→「アブダクション」の項を参照されたい。)からは自然である。

なお、「作家性」という用語が使われる局面は編集時のノイズキャンセリング(作品にクセがあると採用しにくい!)などがあったりすることにも注意を要する。

シニフィアンとシニフィエ

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超基本概念。「聴覚イメージシニフィアン」と「概念シニフィエ」のセットにおけるそれぞれの名称。〈意味するものシニフィアン〉と〈意味されるものシニフィエ〉、〈シニフィアン〉と〈意味シニフィエ〉。なぜか難解だと言われるが、高校の現代文の教科書に掲載されているような一般教養レベルの術語。大学生であればセンター試験の現代文の前提知識として知らないはずがない。

フランスを中心に戦後の人文学・社会科学に対して絶大な影響を及ぼしてしまった無名の言語学者フェルディナン・ド・ソシュールによってつくられた概念である。つまり、現代思想ないしポストモダンの無自覚な始原であり、近代的パラダイムを滅ぼす力の源泉。言葉はモノの名前ではない。言葉は実体に貼られたラベルではない。実体そのものがない。デカルトはすべてを疑い、疑っている自分自身は疑いようがない旨言った(我思う故に我在り)。ソシュール的な反論としては「自分自身の実体なるものはない」。これがレヴィ=ストロースのような構造主義に至ると実体論的主体は構造の結節点に解消されることになり、ラカン派精神分析に至っては主体は分裂して同一性を保持できないことを前提に同一性が保持されるため(我思う xor 我在り。なお、主体の同一性を保持できないことを前提に同一性を保持しないで分裂した状態に置くのがドゥルーズ+ガタリである。)、もはや近代的主体という設定は帰結主義的な虚構として開き直るしかなくなった。

ソシュールに著書はなく、1907 年から 1911 年の間に僅かな講義を行っているだけである。このうち第 3 回シリーズの講義に出席した学生エミール・コンスタンタンのノートの翻訳書(東京大学出版会、2007 年)118 頁では、シニフィアンとシニフィエという用語について次のように説明されている。

このように用語を変更した理由:記号システムの内部で、シニフィアンとシニフィエを対置する必要があるからです。(イメージと概念という異なる面をそのまま)互いにつきあわせて置くためです。
シニフィアン(聴覚的なもの)とシニフィエ(概念的なもの)は、記号を構成する二つの要素です。したがって、
1) 言語においてシニフィアンとシニフィエの結合は、完全に恣意的です。
2) 言語においてはシニフィアンの本質は聴覚上のもので、時間の中でだけ展開され、時間から借り受けた次の特徴を持っています。
a) 広がる特徴
b) ただ一次元の方向のみに広がる特徴

写真 photo

現状で最も手軽にリアリティを表現できる方法。伝統的デザイナーと比較して表現技能の低い私のような「しろうと」が依存しがちな有力な武器。フレームとして写真を重ねて音声をつけたものが動画である。写真は、プロのフォトグラファー/写真家に及ばずとも、ある程度のトレーニングでそれっぽい表現が可能である。iPhone をはじめとするスマートフォンの普及により、それに附属する高機能カメラの普及も進んだ。レンズを対象に向けてワンプッシュするだけで記録が可能であり、自己の活動記録やグループ内でのイメージ共有にとって非常に重要な位置を占める。私には空疎に見えてしまうが、視覚表現に特化した SNS である Instagram の登場により、周囲への共有のための写真撮影やそのための対象やスポット(通称「インスタ映え」)が形成されることとなった。みんなそこまでしてキラキラして見せたいのか…? この意味では、写真は、特定の層において理想自我 Idealich を効率的に生産するためのツールであるといえる。自我理想 Ich-Ideal なき時代だからイメージの渦に巻き込まれるのも仕方ないか。

私が時代に追いついていないだけだと言われるとそんな気もするが、私は圧倒的に絵画派である。いまでさえ絵画と写真はまったく別ジャンルの美術として共存しているが、色々な話を聞く限り、約100年前に写真技術の発達により絵画は滅びるなどと言われていたらしい。グラフィック系の教授あたりによれば、約100年前に自身の領域が経験したことが、いまでは科学技術の発達により様々な領域で経験されるようになってきており、既に危機を経験して生き残った美術絵画の力や視点、考え方はきっと参考になるはずだとのことで、とても感銘を受けた。

真・善・美

だいたい3つのセットで登場する。元ネタはよくわからないが、プラトンやカントあたりだと思われる。「哲学・倫理学・美学」のセットに言い直してもたぶん通じると思う。解釈は様々ありうるが、この概念群の仮想敵は「知性・正義・生活感」ではないかと推測される。

「真」は、現象学系譜のハイデガー的な発想によれば、知の対概念であり、知とは正反対の位置に置かれているものである。形而上学的真理を意味しないどころか、形而上学は存在の忘却であるとされる。知れば知るほど知らないことが増えていき、真理から遠ざかるのはこのためである。デザインの領域では、実践の場における〈無〉からの返答を意味すると考えてよい。

「善」には、万人の善と固有の善がある。デザインの領域では万人の善という点については倫理学ないし法価値論(の中でも共同体論)の問題だと考えられているようである。もっとも、善の万人ウケについてはそこまでこだわられず、それよりもその人の固有の善というものが重視される傾向はある。実践の場における〈無〉を遮蔽するものである。

「美」とは、光の中で自らの〈死〉と関係する場である。〈死〉から身を守るバリアであると同時に〈死〉の前触れである。いつの時代の美術作品でもどことなく〈死〉が漂っているイメージがあるが、おそらく原理的に理由がある。善のように〈死〉から遠ざからず、むしろ〈死〉に歩み寄る。

サービス・ドミナント・ロジック

「モノからコトへ」ってやつでしょ、知ってる知ってる、と思った読者諸君は全員、間違いだ。有形のプロダクトとの比較における無形のサービスは、グッズ・ドミナント・ロジックの「サービス Services」であり、サービス・ドミナント・ロジックの「サービス」ではない。用語法にも紛らわしいものがあり、原典の理論は複雑すぎて使いこなせている人は見たことがない。

もともとマーケティング領域から派生した概念であり、サービスデザイン概念の発達とはパラレルの関係にあるとされる。近年ではサービス・ドミナント・ロジックとサービスデザインとは融合しているようである。なお、当該企業においてサービス・ドミナント・ロジックを採用しているかどうかは、損益計算書の研究開発費の項目を見ればわかるとかわからないとか。

自分事化/ジブンゴト化

特に学生の発話において頻出する用語であるが、使用者が理解しているケースは多くない。他人事について自分事のように当事者意識と責任感を持つことであり、したがって、専ら内省的な用法に限られる。あくまでも自らの心構えの問題であり、「おまえ、ジブンゴト化しろよ!」などと他人に要求したり説明責任を課したりすることではない。その意味で、ジブンゴト化にあたって最も重要なことは、周囲の人々を巻き込んで進めていくような古典的なリーダーシップの発揮とは逆に、他人が抱える問題を、声にならない哀しみや痛みを知るために他人の話を傾聴する(姿勢を見せる)ソフトなリーダーシップである。想像力や感受性が低かったり、価値観の違いについていけなかったりすると、ジブンゴト化は困難であるといえる。とりあえず、他人が話す時間よりも自分が話す時間のほうが多ければ、ジブンゴト化にとっては危険信号であるといえる。非効率的な手法であるが、デザインの領域では、こうしたことを面倒くさがらずにできるかどうかは非常に重要である。

自分たち事化/ジブンタチゴト化

上の概念との関係が非常にややこしいが、プライベート領域の「自分事」と無関係なものとして切り離された「他人事」の間の曖昧な領域のこと。もともとは 2002 年の仙台市公共文化施設「せんだいメディアテーク」で行われたトークセッションの参加者のひとりから出てきた言葉のようであり、新しい関係や新しい企画をつくることが目的のようである。「人と人のつながりの中で生み出されていくモノ・コト」であると定義され、コミュニティから生まれるとされる。つまり、共同体論とセット。情報デザインのパイオニアのひとりである渡辺保史によって取りあげられたデザイン概念であり、決してかつての「地域共同体」的なものの単純な再現や復活ではないとされていることからすれば、中身としては卓越主義的共同体論に近いといえる。

社会人

社会人であるからといって社会性があるとは限らないし、社会性が必要とされるとも限らない。デザイン領域において「社会人としての常識」なるものをどこまで維持するかは非常に深い問題である。迂闊に「社会人としての常識」を主張すると大変つまらない人間になるし、かといって完全に「社会人としての常識」が欠如すると大変やばい人間になる。個人的には社会で生きていれば「社会人」でいいじゃないかと思わないではない。「社会」とはどこからどこまでの範囲を言うのだろうか、人間が3人以上いればそれはもう社会ではないだろうか。ちなむと、造形構想研究科では社会性のあるコミュ力の高いキラキラなかんじのつよつよな人が想像以上に多く、教室の隅っこでひとりで絵を描いていたいような私は相当苦労するのでみなさんも気をつけてほしい。とても美大とは思えない環境である。いやぁチームって大変だなぁ……

スタートアップビジネス startup business

デザイン思考3
スタートアップの「Jカーブ」

おそらくもともとは投資家の目線の概念である。投資対象事業の性質的相違から通常の事業とは投資方法が異なることが問題とされたものと思われる。「スモールビジネス」を対概念として理解することにより、ある程度は意味内容が明瞭になる。なお、よくある上の図はてきとうにつくられた根拠のないイメージなので真に受けないこと。

デザイン領域における「スタートアップビジネス」の用語はシリコンバレー的なものを意味しないことに注意が必要である。これは、日本のデザインの文脈がヨーロッパ、その中でもイタリアに大きく影響を受けているからであると考えられる。また、当事者性や地域共同体を重視するためか、PMF よりも PSF に大きく寄っており、スケールやグロースの観念が著しく希薄である。ビジネスとしてのコスト構造の発想も薄い。

スペキュラティブデザイン

鮮烈な造形を通じて既存の倫理的秩序を動揺させ議論を喚起するデザインの態度のこと。価値中立的な方法論ではなく極端に偏った物神的なモードである。比喩的に言えば、「バットマン」におけるジョーカーの役割であり、ひとりの市民が議場に投げ入れる火炎瓶であり、革命的な問いかけである。

説明されるとだいたいわかるが、だいたいしかわからない。ビジョンデザインがビジネスに落とし込むことを念頭に置いた実用志向の概念であるのに対して、スペキュラティブデザインでは実用性が意図的に排除されているため、実用的でない。それではアートなのかというと、そういうわけでもないようであり、よくわからない。だが、それがいいとされる。

作品だけ見てもアートやアドバンスドデザインと区別がつかないこともあると思うが、そのあたりは作家性で区別しているらしい。

社会課題

「社会問題」というと壮大なスケール感が出てしまうので、それよりも若干小粒の表現が使われるが、社会問題と同趣旨の概念である。おそらくビジネスで解決すべき/できるものであることが念頭に置かれている。

社会構成主義

認識優位のパラダイムということだろう。別に実在論者と論争を繰り広げているわけではない。

社会実装

現実に社会においてプロトタイプとなるサービスを展開し、試行錯誤すること。綿密な計画や予測を立てるよりも仮説をもってさっさとやってみて検証することは重要である。一方で、仮説は明確に設定する必要があり、また、検証時には分析も要するため、やりっぱなしはもちろん推奨されない。

造形

何か形をつくることをいう。伝統的なアートやデザインのことであると言ってもよい。造形構想研究科の入試では造形技能は不要ということになっているが、まともに何かをやろうとすると造形技能は不要どころかマストであるため注意されたい。何なら、本質をとらえたプロトタイピングのほうが「要求される」造形技能は高いかもしれない。

造形構想

おそらくデザインの社会的な普及や共有を目的とするため、従来、可視化されていなかった造形過程等を可視化すること。

知財

ノーコメントで。

デザイン Design

入学以来最大の謎であり、今もなお解明されていない。「デザインもアートだよ」派と「デザインとアートは違うよ」派が存在しているが、なぜか特に対立することなく共存している。私が誰をどの派に分類しているのかはセンシティブな問題であるため聞かないでほしい。

デザイン思考 Design Thinking

デザイン思考2
図 ダブルダイヤモンドモデルの実態

元ネタ論文は Brown, Tim. "Design thinking." Harvard business review 86.6 (2008): 84. である。現在流通しているデザイン思考の図式は提唱者の IDEO の意図していたデザイン思考とは違うんだぞ、と叩き込まれる。IDEO 出身の講師の方からも、IDEO の価値の源泉は、表に出てくる派手な手法や図式ではなくて、おそろしく深く人間の心理と行動を洞察できる特定の人材に集約される旨の話があった。デザインプロセスっぽいビジュアル図式は、あくまでも導入の際に用いる見せかけにすぎず、あとは地図のように自分のいる位置を表現する際に利用されるようである(上図)。

「デザイン思考」自体、実のところ、伝統的なデザイナーからはあまり肯定的に見られていないのではないかという疑いがある。わざわざ「教養的思考」と呼ぶのも、にわかなデザインシンカーを伝統的デザイナーの領域から排斥して差別的取扱いを行う意図がないとは言い難いように思われる。これは純粋な UX デザイナー(→「ユーザーエクスペリエンス」の項を参照されたい。)についても同様に言えることである。また、大手企業の場合には、当否はともかくとして、教養的思考として普及させるよりも伝統的なデザイナーが営業現場に出ていって担当すればいいじゃないかという話も出てくるようである。アウトソースを前提としてインハウスデザイナーが入口段階を担当することもあるらしいが、ものをつくるというスキル面で個人の成長の観点から、必ずしも好意的に受け止められているわけでもなさそうである。「デザイン思考」を取り入れようとする我々(というか私だけ?)は複雑な立場に置かれているといえる。

デザインシステム

大規模開発用のデザイン統制の考え方ないし仕組み。大規模開発をしない学内では登場しない概念である。せいぜい「トンマナ」くらいか。

哲学

デザイン領域における「哲学」とは、デザインの臨床現場を前提として、自らのやっていることとの関係で学問的な思想・哲学・宗教からのインスピレーションを受けた結果として成立する価値観や理念のことをいう。学問的な哲学等をほんの少しかじっただけの場合もあれば、特定の哲学者や宗教にかなり深く踏み込んだ場合もあるが、いずれにせよ目の前のデザイン活動を前提としている点は共通であり、その点が大陸哲学や分析哲学、宗教とは大きく異なるところである。全体性や包括性ではなく、単独性や特異性を志向しているとも考えられる。

東洋

西洋の対概念であり、西洋の外側であり、西洋人のファンタジーである。西洋/東洋の二分法ないし二項対立図式自体が西洋的なものの見方であるともいえる。このあたりはレヴィ=ストロースへの批判を参照されたい。西洋人をマインドフルネスなどのスピリチュアル領域に駆り立てる魅力を持った語である。どうせ参考にするなら、シリコンバレー的な流行に乗るのではなく、神道、仏教、中国大陸経由の仏教、儒教、道教等々を教義と世俗の歴史を踏まえながら丁寧に追いかけてほしいと思う。なお、法学領域では、明治以来の西洋法の継受が基礎理論レベルで大問題であり、安易に日本史の上に西洋的な概念や発想を接続しようとしてもうまくいかないことはよく知られている。概念輸入については検討のワンクッションを挟むべきであろう。

人間中心デザイン Human-Centered Design

デザインプロセス全般にわたって当該問題に関わる人間の視点を取り入れるアプローチのこと。「インターフェースは人間の形をしている」。1970 年代前半のパーソナルコンピュータ黎明期において事実上支配的であった機械中心 Machine Centered の考え方に対する批判的概念として生じたものと思われる。もともとは "User-Centered Design" と呼ばれていた。"Human-Centered Design" という用語は 1990 年前後から台頭してきているようであり、実は、UX デザインやサービスデザインよりも登場が早いようである。

なお、この概念の問題意識は、ヒューマンエラーを許容しないとか、機械的プロセスに従わせるとか、そうした当時のコンピュータのある種の非人間性にあり、もちろん自然に対する人間の優位性を説くキリスト教的な概念ではない。

How Might We (HMW)

問題定義用の日本人的には覚えにくいデザインフレームワークである。私もさっきまで忘れていた。「どうすれば私たちは~できるだろうか?」という意味であり、この問いを起点に解決策のブレインストーミングが行われる。よい解決策が出てきやすいほど問いの質が高いことになる。たとえば、「デザインのことでわからない用語が出てきた場合の対応をどうすべきか?」という問いの立て方よりも「どうすれば私たちはデザインのことでわからない用語のわからなさを楽しむことができるだろうか?」という問いの立て方のほうが面白いアイデアが出やすい。

ビジョン Vision

何かを突き詰めた先に自然と見えてくる世界観のことをいう。元ネタは経営方面でドラッカー系統の学者が提唱していた Mission, Vision, Value (MVV) から来ているものと思われる。現在の日本国内で MVV はスタートアップビジネスの領域で用いられる概念であるが、これは組織構成員に対するコミットの要求の仕方において従来の経営理念等とはやや異なっている。

大前提としてドラッカー系統の学者の基本的な論理は「成果をあげることを目的にする」、「成果をあげるために効率的な情報の活用を行う」、「成果をあげるための効率的な情報の活用を行うにあたって明白な不適格事由は真摯さの欠如である」を確固たる基礎として組み上げられていることを確認しておこう。「成果をあげるための効率的な情報の活用」のためのメタ情報をドラッカーが「マネジメント」と呼んでいることは周知のとおりである。いや周知でないかもしれないが。最も重要な鍵概念は「真摯さ」であり、宗教的文脈に還元すれば信仰のことである。これらの概念や思考は自然発生的な共感共同体ではなく意識的な宗教的結社をベースにしているものと推測され、特定のイデオロギーへの賛同をもって組織されるべく、テキストにより組織集団の価値観が明記され、構成員となる者に何らかの形で告知される。ここでの「真摯さ」とは、要するに忠誠を誓う価値観の貫徹のことである。つまり、MVV は多様性を絶対に許容しない。

こうして結成され、実際に並外れて成果をあげた企業が「ビジョナリー・カンパニー」である。ただし、ゴールから逆算するという発想をとればビジョンがミッションよりも先に来るかのように思えるが、ここではむしろ宗教的な自己目的的普及運動が念頭に置かれるため、コミットの対象をミッションに置くのである。もっとも、自己目的的である以上、コミュニケーションという観点からすれば自閉的になりがちであるため、視覚的にわかりやすくビジョンを描く必要が生じてくる。そういう意味ではやっている本人にとってはなくても構わないが、周囲や社会にとって必要なものがビジョンであるといえるだろう。なお、スタートアップビジネスについては、PMF (解決策が市場で売れる状態) を達成し、あるいは事業として持続可能な経済的基盤を確保してからミッションやビジョンを掲げるべきであるとの見解が有力ではあるものの、そうした見解は単なるマーケ用のキャッチコピーとしてしか捉えきれていないため、妥当でないと思われる。ただ、アブダクションという思考様式からすると、必ずしも排斥し切れない考え方ではある。

プラネタリー・バウンダリー

元ネタの論文は、Rockström, Johan, et al. "A safe operating space for humanity." nature 461.7263 (2009): 472-475. である。以下、同論文から重要な部分を引用しよう。

 完新世の状態を維持するために、私たちは「プラネタリー・バウンダリー planetary boundaries」に基づく枠組みを提案します。この境界線群 boundaries は、地球システムに対して人類が安全に活動できる空間を定義するもので、地球の生物物理学的サブシステムまたはプロセスに関連しています。地球の複雑なシステムは、変化する圧力に対してスムーズに反応することもありますが、それはルールというよりむしろ例外であることが証明されそうです。地球の多くのサブシステムは、非線形で、しばしば急激な反応を示し、特定の重要な変数の閾値付近で特に敏感に反応します。これらの閾値を超えると、モンスーンシステムなどの重要なサブシステムが新しい状態に移行し、しばしば人類にとって有害な、あるいは悲惨な結果をもたらす可能性さえあります。
 これらの閾値のほとんどは、二酸化炭素濃度のようなひとつ以上の制御変数の臨界値によって定義することができます。地球上のすべてのプロセスやサブシステムに明確な閾値があるわけではありませんが、たとえば、土地や水の劣化など、そうしたプロセスやサブシステムの回復力を損なう人間の行動は、気候システムなど他のプロセスにおいても閾値を超えるリスクを高める可能性があります。
 私たちは、地球システムのプロセスと、それを超えた場合に受け入れがたい環境変化を引き起こす可能性のある関連する閾値を特定することを試みました。その結果、気候変動、生物多様性の損失速度(陸域および海洋)、窒素・リン循環の阻害、成層圏オゾン層破壊、海洋酸性化、地球規模の淡水利用、土地利用の変化、化学汚染、大気エアロゾル負荷の9つのプロセスについて、惑星の境界線群 planetary boundaries を定める必要があると考えています。
 一般に、惑星の境界は、閾値から「安全な」距離にある制御変数の値であり、閾値の振る舞いを示す証拠があるプロセスでは、閾値から「安全な」距離にあり、閾値の証拠を持たないプロセスでは、危険なレベルにあることを示しています。安全な距離の決定には、社会がリスクと不確実性にどう対処するかという規範的な判断が必要です。私たちは、多くの閾値の真の位置を取り巻く大きな不確実性を考慮し、保守的でリスクを回避するアプローチをとって、惑星の境界を定量化しました。〔…〕
 人類は、地球上の淡水の利用、土地利用の変化、海洋酸性化、地球規模のリン循環への干渉に関する境界にまもなく近づくかもしれません(図1参照)。私たちの分析によると、地球システムプロセスのうち、気候変動、生物多様性の損失速度、窒素循環への干渉の3つは、すでにその境界を越えていることが示唆されています。後者の2つについては、それぞれ、種の消失速度、大気中の窒素が除去され、人間が利用する反応性窒素に変換される速度が制御変数となります。これらは、地球システム機能の主要な構成要素の回復力を著しく損なわない限り、継続できない変化率です。

Rockström, Johan, et al. "A safe operating space for humanity." nature 461.7263 (2009): 472-475. 私訳。強調引用者。

根拠がない=不明ではなく高リスクと判断されていることに注意が必要である。リスクは被害の大きさと発生確率を乗じるものであるが、そういう意味でのリスクではなく不確実性のことを指している。

批評

つくった人と評価する人との間の二者間の自閉症のこと。観念的にはそれぞれ独善的であるにもかかわらず、現実的には関係性を持っているという逆説的な構造をとる。比喩的に言えば、作品と批評の「素手の殴り合い」といったところで、ルールがあるとすれば、自身に忠実な表現をし続けること、つまりは誠実に独善的であり続けることしかない。デザイン思考におけるようなユーザーインタビューとの相違は、(1) 現物の作品が僅かでも変わると批評もすべて変わるので足場となる言説として批評を捉えてはならない、(2) 作品においては作り手の意図がすべてであり、批評においては批評家の意図がすべてであり、一致させることを目指してはならない、といった点にあると考えられる。

ブランド

顧客吸引力のある標章等。事実上の信用のこと。商品役務や営業主体の出所を示すものである。その本質は出所識別機能にある。特に BtoC ビジネスにおいて、顧客の購買行為は、商品役務を知覚した際の瞬間的な判断、つまり無意識の一瞬の判断に大きく依存する。リピート購入を前提とした商品役務の内容をよく見ない、この一瞬の判断を保証するものこそがブランドである。需要者が目の前のボトルの形状を知覚して「コカ・コーラ」のボトルだと思って手に取って買ったら、実は別の会社のコーラだったということが発生しないようにするため、ブランドは、商標法や不正競争防止法等により保護されている。

ブランディングにおいては、価値観の偏ったイデオロギー色の強いメンバーでチームを組まない限り、つまり、てきとうにチームを組成してブランドをつくろうとすると、だいたい「多様な価値観」や「多様な基準」、「多様な選択」といったところまで抽象化して整合性をとろうとしてしまうため、ほぼ確実に失敗する。しかし、ブランドはこうした多様性を拒絶するところに本質があるので、抽象化によるすり合わせは最悪の手段であるといえる。ブランディングに必要なことは、抽象化などではなく、単独的価値観に基づく一貫した体系性であり、それ以外の価値を断固として拒否することである。そのために、Mission, Vision, Value (MVV) というものが存在し、チームの設計に組み込まれるのである。創業者ひとりのセンスで築き上げたハイブランドが創業者亡き後に敷いている体制は、チーム組成にとって非常に参考になる。こうした視点は「共創」、つまり共感を重視する共同体論からも肯定されるものであり(→「共創」の項を参照されたい。)、自由主義を重視して多様な生き方を無条件に認めるよりも、対話等から価値を汲み取りながらも特定の善き生き方に限って認めることで、はじめてブランドが成立しているものと考えられる。

ブリコラージュ

それっぽいことを言ってその場をごまかす bricoler ときに使われるフランス語であり、(目的論的視座からの)恣意的な類似性によるつじつま合わせの意味である。平たく言えば、それっぽい妖怪のせいにするときのその妖怪を生み出すこと。カッコよく言えば、神話的思考である。地震は地下にいる大ナマズのせいだ、とか。科学的思考が対概念なので当然であるが、概念自体が多義的であり、自己言及的にごまかしになっている。そのため、しばしば日常的な意味での寄せ集めのことだと誤解されるが、寄せ集めてもブリコラージュにはまったくならない。ゴミをあつめてもゴミの山でしかなく、そこから付喪神という馬鹿げた空想を生み出してはじめてブリコラージュである。ああ、悲しき日本よ。

西洋のばりばりの合理主義者で人類学者のレヴィ=ストロースが用いたダジャレであり、それにもかかわらず「イノベーション」に関連させて理解されている。主著の名である "La Pensée sauvage" も「野生のすみれ」と「野蛮な思考」をかけたダジャレである。言ってみれば、同書の内容は「俺たちのような進んだ文明の思考!に劣らない思考もあるのだ」という文化相対主義的な話である。レヴィ=ストロースによれば、恣意的な類似性によって再構成されたもの=構造=野蛮な思考は厳密に現代数学的に記述される。このことに対するある種の人々の嫌悪感が後々「存在論的転回」を引き起こすことになったかどうかはわからない。

ペルソナ

サービスデザインのツールのひとつであり、同じサービスニーズ、すなわち同じ価値観をもつ集団を「わかりやすく表現したもの」。ペルソナは伝統的に年齢や性別、職業などの要素で構成されていたが、それらの要素はあくまでも特定の層に対するイメージ共有を目的とした表現であって本質的ではなく、あくまでも目に見えない価値構造が問題である。もともとはインタラクション・デザインのツールだった。リサーチャーのチームが無能でなければユーザーについて感覚的にも情報的にも把握してることは当然であり、わざわざこんなものをつくる必要はないし、いったい何の役に立つのだろうかと思いがちである。私はずっとそう思っていた。しかし、組織やチーム、プロジェクトによっては、メンバーがユーザーから隔絶された状況に陥る事態が頻繁に発生する。たとえば、フィールドセールス担当者は頻繁に顧客や顧客候補者と取引先の会議室などで物理的に顔を突き合わせて面談を行う機会が相対的に多いであろうが、開発部門のエンジニアは自分が開発しているサービスの顧客と一度も会ったことがないかもしれない。そうした中では新規企画や改善案に関する議論は構造的に発生しえない。そこで、顧客をよく知る者が顧客をよく知らないと思われる特定のチームメンバーに向けて当該メンバーのコンテクストに即して顧客像を描く必要が生じる。その顧客像こそ「ペルソナ」である。したがって、定型的なペルソナの記述方法は原理的に存在しない。そんなものは断じてペルソナではない。伝える相手のことを考えない顧客像の描写など何の意味もないのである。

フロントステージとバックステージ

見解によって定義が大きく異なるため、チーム内で用いるには注意が必要な用語である。前提として、サービス領域をひとつのステージに見立てて、フロント/バックに二分割するという点では争いがない。問題は、どのような理由でどのような基準により分割するかである。また、「フロントステージ」概念に顧客を含めるかどうかについても争いがある。

ひとつの見解は、サービスデザインがインタラクションデザインの系譜であることから、サービス領域(ステージ)から顧客を排除して受動的な立場に置き、ステージ構成の問題を専らサービス提供者側の問題とする。この見解によれば、フロントステージは顧客の視界に入るインタラクションの場となり、バックステージは顧客の視界の外にある見えない領域を意味することになる。この見解は、顧客との接点(インターフェース)やバックステージの不可視性を強調する。「ステージにおける上演」の享受という比喩的文脈と整合的である。

もうひとつの見解は、顧客もステージ上に存在するとの前提的理解を背景に、サービス領域と成果物の接続関係を重視し、フロントステージをカスタマージャーニーマップ、バックステージをサービスブループリントに結びつける。この見解は、顧客をフロント、従業員をバックに対応させる。この見解にあっては、もはやステージにおける上演ではなく、顧客をも含めたひとつの世界観の構築が目指されることになる。

MAU

「まう」と読む。Musashino Art University の頭文字をとっている。以前に、潜在的な入学希望者向けの認知施策として「MAU ポイント(まうポイント)」をつくってウェブサイトやレジで MAU ポイントを使うと "MAU! MAU! (まう!まう!)" という音声を出せば面白いのでは?!というアイデアを出してボツになったことがある。ごめん、意味不明なのは私だったわ。ちなみに、その後、2022年度の武蔵野美術大学芸術祭のタイトルに「まうじゃないか」が採用されている。

武蔵野美術大学 HP https://www.musabi.ac.jp/student_life/event/festival/ より引用。

民主化

どうも一部の専門家の扱う対象から一般市民の扱う対象に降下させることを意味しているらしい。そうすると、対概念は「専門化」なのだろうか。

厄介な問題 wicked problem

元ネタ論文は Rittel, Horst W., and Melvin M. Webber. "Wicked problems." Man-made Futures 26.1 (1974): 272-280. である。厳密な定義は「解決策を生み出そうとするたびに当該問題に対する理解が変化してしまう問題」であり、自分が先に手を出す「後出しジャンケン」に臨むようなものだと思ってもらっていい。恋人による「あなたは私のどこを好きになったの?」という邪悪な問いと相同的である。私の理解によれば、フレーム内の問題状況についてフレームの外に触知したことを知ることが不可能な実在的空無となる問題の核があり、存在論的な問いから考える必要があるという忠告的な概念である。因果ループ図やアクターネットワーク等々で表現可能であるのは問題状況の回路だけであり、それらを描写した瞬間に問題の位置が変更される問題である。掴みえぬ空虚な対象、仮想化しきれない残余のこと。

「厄介な問題」が何なのか、どうやって判別するのか、それ自体が自己言及的に「もっと厄介な問題」である。停止性問題に陥らないか、やや不安である。元ネタの論文の趣旨は、デザインがそうした領域で力を発揮できることを示したことにあるとされる。探してみろ、この世の全てをそこに置いてきた。世は、大デザイン時代を迎える――(歓声

ユーザーエクスペリエンス User eXperience 

略称「UX」。ユーザーの体験のこと。歴史的にはデジタルプロダクトが念頭に置かれていた概念であり、ノーマンが提唱したとされている。ここにいう「ユーザー」は、顧客だけとは限らず、企業の中の人たちや地域住民など、多様な利害関係人を含む概念であることに注意されたい(→【注】)。顧客体験については Customer eXperience (CX) という別の用語が付されて明確に区別されている。また、ここにいう「体験」は、精神的な審級にあり、物質的な審級にはない。したがって、物質的な世界である User Interface (UI) とは別の概念であって、どちらかがどちらかを包摂する関係にはなく、両者の間に連続性もない。

【注】あとで聞いた話だが、UX と CX とで概念の包摂関係で不毛な争いがあるようである。アメリカでは CX が「見込み顧客」も含むことから UX よりも概念が広いとされているらしい。この場合は、顧客のことをユーザーと呼ぶということだろう。

学内で用語として登場することはあまりなく、ほぼ肩書である「UX デザイナー」という文脈で用いられる概念である。どちらかといえば「サービスデザイン」という用語のほうが使われる傾向がある。「UI/UX」と表記されるなど、UI デザイナーが「なんちゃって UX デザイナー」を名乗っているという認識がけっこう広まっている一方で、UI について自ら手を動かさない UX デザイン自体に対する疑義も絶えないところである。デザイン領域としては大論点のようであるが、いかんせん論争の土台となる足場が曖昧であるため論点自体が不明瞭なものとなっているように思われる。

個人的には、理論面ではコンテクストの強度やペルソナの有無・態様の問題(人間に道具を合わせる見方か、道具に人間が合わせる見方か、といった主客の視点の問題)に解消されると思っており、実践面では情報収集・整理の技法やその工程の有無の問題、そしてウェブサイトなどの最終成果物からのアブダクションの成否の問題に解消されると思っているが、どうだろうか。UX という概念に肯定的な立場の問題意識には、(a) サービス提供者が想定する特定の集団についての特定の体験自体に焦点をあてたいこと、(b) そのためサービス提供者の独善性を稀釈する必要があることから(人間中心設計)、関連情報に偏りや脱漏が生じないようにユーザーを調査し、又は情報ないし仮説を持ち寄るチームでつくる必要があること(UX リサーチと共創)、(c) さらには、チームメンバーが UX の考え方を持っていることが望ましいこと(非デザイナーへのデザイン思考の教育と普及)の3点があると思われる。つまり、UX の理念と方法は、サービス提供者の独善性を前提として、これを克服することを試みるものであるといえる。これに対して、UX という概念に懐疑的な立場からは、(a') そもそもサービス提供者がユーザーの体験を操作し、又はユーザーの行動を誘導するという発想自体が誤りである、(b') 正確な情報ないし仮説は最終成果物について実際に手を動かすことの反動としてのアブダクションによってしか得られないものであって、リサーチもその限度でしか有効性を持たない、(c') したがって、手を動かすことによるアブダクションから離れた人たちにいくら教育を施しても最終成果物にとってはあまり意味を持たない、といった反論が考えられるところである。そうすると、根本的にはサービス提供主体の視点を前提としてそれに立ち向かうか(UX 肯定派)、サービス提供主体の視点という前提から否定(たとえば、客体の側に立ったより優れた視点を肯定)しにかかるか(UX 懐疑派)といったパラダイムレベルでの対立であるため、ロジックで折り合いをつけるのは原理的に困難であろう。

UI・UX 論争が激化する傾向があるのは、それが純粋な UX デザイナーの存在意義やアイデンティティをかけた戦いだからであり、根本的には用語の定義や最終成果物への寄与度について議論されているわけではない。あくまでも分業形態や社会的地位の問題である。伝統的デザイナーは目に見える現実の最終成果物からアブダクションという思考方法をとることにより自身の支え(アイデンティティ)を獲得することができるが、純粋な UX デザイナーは最終成果物からのアブダクションと無縁であるため、自身の存在意義がぐらつきやすい。地に足のつきにくい UX デザインが従来のデザインから一転してビジネス、特に経営の上流に接近していくのはそうしたアイデンティティの確立という背景があるものと考えられる。というよりも、歴史的経緯としては、IDEO のようなデザインファームがクライアント企業の経営に接近していき、経営者にデザインの重要性を説く都合上、アブダクションという側面を切り離さずにはいられなかったのではないか。「デザイン経営」といった概念も、こうした文脈で理解されるべきである。一方で、伝統的なデザイナーからすれば、経営の上流で UX デザインの地位の確立を訴えられると好ましくは映らず、地に足のつかないうさんくさい人たちが「デザイナー」を名乗っているようにしか映らない。これはこれで伝統的デザイナーにとってアイデンティティの危機だからである。こうなると、デザインと経営の関係性の探索という壮大なテーマに近づいていくようにも思われる。

ユーザビリティ usability

ユーザビリティ usability 概念は、1980 年代にあったユーザーフレンドリー user friendly という曖昧な概念を置き換えるためにつくられた概念であったが、結局、曖昧になってしまった概念である。一応、ISO に定義もあるが、制定経緯に問題があるようで必ずしも妥当な定義とは言い難い。学内では、ほぼ使われない用語である。

リーダーシップ

現象学系譜の目的的行為論・機能的行為支配説的に理解すれば、相互の意思連絡に基づいて結成される特定の集団において特定の成果をあげるために目的的意思に基づきプロジェクト全体を支配する機能を果たす行為をいう。ここにいう「支配機能」とは、プロジェクト全体を挫折させられるほどの大きな役割を担っていることを意味する。要するに、レポートライン上の地位と権限はひとつのファクターではあるが、それとは必然的な関係がなく、当該プロジェクトにおいて重要な役割を果たすことである。

ビジネスの世界では、他人を巻き込んで特定の目的を実現することを主導すること、そうした第一次的な中心的役割を果たすことを伝統的に「リーダーシップ」と呼んで賞賛していた。しかし、デザインの世界では、どちらかといえば、自己の目的を掲げて直接的に他人を巻き込むのではなく、他人が活動する場やシステムをつくって他人に主導権を委ねるという間接的な形態をとる。こうした形態は「システムリーダーシップ」と呼ばれることもあるようであり、従来のリーダーシップと比較して一段階メタの位置を占める。従来のリーダーシップが周囲の人々の意思に働きかける手法だとすれば、デザイン領域のリーダーシップは周囲の人々の意思形成過程となる動機や環境に働きかけるものである。ホワイトなかんじのフィクサーのようなものだろうか。他人より自分のほうが目立っていれば、リーダーシップとしては失敗である。

こうしたリーダーシップ観が採用されるのは、従来の強権的でトップダウンのリーダーシップでは事象として複雑で人的リソースを多く消費する問題(→「厄介な問題」の項を参照されたい。)に対してうまくいかないことが明白だからである。たとえば、ある意味で厄介な問題ないしその縮図だと思われるが、中学校の文化祭でクラスの出し物の準備の際にクラスをまとめる熱意ある女子が「ほら男子、協力して~」と言っても現実にはあまり効果がないことは明らかである。クラスのメンバーの価値観が多様な中で、ひとりひとりと対話を重ねながらそれぞれが大切にしている価値を拾いあげてまとめなければ、上からの押し付けになってしまい、満足に機能しないであろう。これが国家規模になったものが社会主義であり、計画経済であったともいえる。こうした不幸な事態を避けるため、個々人の自発性を尊重し、いかにジブンゴト化してもらうか、そのための場づくりやシステム設計が重要となるのである。近年、デザインの領域でナッジやアーキテクチャが注目されているのも同様の理由であると考えられる。

リゾーム rhizome

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フランス語で地下茎を意味する。ロジカルシンキングやピラミッドストラクチャを象徴するようなツリー構造の対概念。もともとは、哲学者ドゥルーズと精神分析家ガタリの両名が、神経症者に対してエディプスコンプレックスと呼ばれる安定的な精神構造の樹立を試みる当時の精神分析臨床に対抗して提唱していた一連の概念群のうちのひとつである。

「コンプレックス」という用語が通俗的には嫉妬の意味で曲解ないし矮小化されてしまっているが、エディプスコンプレックスは〈父〉—〈母〉—〈子〉という家族関係の三角形をベースとした安定した精神構造のことであり、子供は〈母〉—〈子〉の満たされた二者関係から〈父〉という第三項の介在を受け容れることではじめて満たされないことを引き受けた大人になると考えられていた。そして、神経症(神経とは関係がなく、現在は診断名として消えている)は、こうした精神構造に歪みがあってそれが表に出てきたものなのだ、という理解をとっていた。

ドゥルーズとガタリは、こうした〈父〉を中心とする三角形の精神構造を父権主義的・家族主義的なものとみなして、〈父〉が機能してない精神病者を持ち上げる。精神病者の頭の中におけるような言葉が乱舞する状態こそ自由であると考えたのである。このときの制御し切れなくなった欲動の動線が地下茎に見立てられた。それが「リゾーム」である。この〈父〉は神話的な父であり、現実の父でなくとも構わないし、〈神〉などの権威的な名前を代入してもよい。

デザインの領域では、シンプルに「ドグマのような権威的な規則がないこと」の意味合いで用いられると捉えてよいと思う。アブダクションから得られるものが常に仮説フィクションである以上(→「アブダクション」の項を参照されたい。)、ドグマが否定されるのは当然と言えば当然の帰結である。さらに、この結果として、デザイン領域では「確固たる言語的な定義」というものもあり得ないことになり、〈事象〉や〈存在〉そのものを志向する現象学に接近していく。現場至上主義も、ここから発生する。

なお、同系統の用語に「セミラティス」(クリストファー・アレグザンダー)がある。

わかりやすさ

決して「わかりやすさ」とは言ってはいけない。「わかりやすさ」の内実を明らかにしなければならない。しかも、その内実を一義的な意味内容の確定や認識容易性の機能的向上だと理解すると受け手の想像の余地を奪ってしまうことからデザイン的にはたいへんウケが悪い。法律系のデザインぇ…

(執筆者:平塚翔太)

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