見出し画像

色硝子瞑れば色彩の夢 ――9月18日に寄せて


 夢の中で展開されるストーリーを、起きた後にあまり覚えていない。
 しかし、夢の中に何度も登場する場所のことは記憶している。

 ある時は小学校。実際に通ったそれとよく似ているのだが、明らかに構造が異なっている。外から見ると「く」の字をしているのに、中に入ると廊下は「ロ」の字型に走っている。
 ある時は、温室の天井のような材質で空を覆われた、SF世界を思わせる町。町並みはいたって普通の都会だが、追尾性能のある何かが絶えず人々を襲っている。なぜなのだろうか?
 ある時はほとんど何もない。これは熱が出た時に見る夢だ。一面は墨黒で、しかし例外的に、目の前には白い絹のような道がある。その上を延々と行く。その左側を、車窓の光景のように何かが過ぎ去っていく。
 夢占いにかけたところでどうしようもない内容ばかりだろうし、考えたところで「何かしらの影響を受けているのだろう」という結論しか出ない。ただコントロールできるわけでもなく不定期に、これらの場所を巡回する。

 こうやって振り返ってみると、どうにも閉塞的な場所が多いように思えてならない。小学校の廊下は延々とぐるぐる回り続ける構造になっている。SFの町は日覆いによって空を支配されている。絹の道には出口がない。それに、どこも一様に薄暗い。淋しい夢ばかりだと思う。

 そう、閉塞的な場所は影の中にある。光は少しばかり遠くにいる。だから、光の中にあるはずのものを、私は夢の中でうまく知覚できない。

 それは「色彩」である。

 光があれば色彩が存在を許されているはずなのに、思い出される夢の風景には色彩が乗っていない。そのせいか、小説を書く時、いつも色彩に手を伸ばし続けているように思う。ある作品では青紫に固執し続け、ある作品では橙と桃混じりの空を作り出そうとあくせくしていた。
 私は薄暗い場所にいる。そこから光に、そこにあるはずの色彩に手を伸ばしている。薄暗い場所の淋しさを埋めるように、ただ色彩を求めている。
 昔、私の小説は透明だと言った人がいた。透明な文章、そこには生々しさの代わりに、乾いた淋しさがある。内面化された瑞々しい色彩が存在しないからだ。

 モノクロの夢ばかりで、色彩を外に求めるしかない私は、色硝子の瞳を手に入れたいのだと思う。目から入ってくる色彩を、氷中花のようにそのまま留めておきたいのだと思う。

 
 「」のように、夢の中で鮮やかな色彩を見たいのだと思う。

 彼は、何か知ら黄い星の様なものが遠くから鉄砲玉の様にとんで来ては、急に彼の前で大きい円形のものとなつたかと思ふと、彼の体にぶつつかつては風船玉の様に暗い彼の周囲に消えてゆくのを知つた。
 暫らくすると、彼が仰向けになつて見つめてゐる黒い天井の様な処に無数の穴があいて其処に赤黒黄白緑青等の凡ゆる種類の色が燦然と輝き出した。すると又部屋のたがひに反対の位置にある二つの隅から、各違つた色をした煙の様なものが煙草の煙の様に大きくうねつた輪を画いて漂うて来ては、その二つが接触すると音もなく何度も何度も不気味に消えていつた。
 彼は、自分が夢を見てゐることを夢の様に薄く意識してゐた。彼は常にかう云ふ画家らしい色の幻想を絶えず築いて居たらしく別にこの不思議な現象に対して別に不思議の感じを持たなかつた。或は彼が特に夢の中に置かれて居ると云ふのでかも知れぬが・・・・・・ 

「画家の夢」(1925)より一部抜粋
京谷裕彰編(2019)『薔薇色のアパリシオン 冨士原清一詩文集成』 共和国 p16



 これは、「画家の夢」という詩の一部である。
 1925年だから、この詩は"彼"が17歳の時のものだ。「彼」は"彼"と同一か、それとも別人か。私は前者だと思う。"彼"は画家ではないけれど、そうだと思う。
 なぜなら、夢に落ちる前の三人称たる「彼」が見た光景と、一人称たる「私」(詳しくは後述する)が見た光景が、よく似ているからである。

「画家の夢」の「彼」は、

赤黒黄青白等の色の幻覚が矢の様に彼の瞳の上を走馬燈の様にめぐり出した。

「画家の夢」(1925)より一部抜粋
京谷裕彰編(2019)『薔薇色のアパリシオン 冨士原清一詩文集成』 共和国 p16

 と述べている。
 その一方で、1927年に発表した「CAPRICCIO」という詩を見てみよう。
 語り手である「私」が卒倒する前には、

エメラルドグリイン・アムバア・スカアレツトなどの光りがピカ/\飛び散りはじめたかと思ふと、虹のやうな奇麗なテープや模様がメリイゴウラウンドの酔ひごゝち夢見ごゝちに走つてゆきます。

「CAPRICCIO」(1927)より一部抜粋
京谷裕彰編(2019)『薔薇色のアパリシオン 冨士原清一詩文集成』 共和国 p43

記憶にある総ての人間の顔が黄ろい粒の羅列となり、ついには一条の細い火花となつて消し飛んでゆきます。

「CAPRICCIO」(1927)より一部抜粋
京谷裕彰編(2019)『薔薇色のアパリシオン 冨士原清一詩文集成』 共和国 p44

遥かに複雑な名状しがたいこの色彩光波の洪水が流れてゆくのを、驚きに意識を失つた私は、その閉ざした眼の紫いろの泳いでゐる網膜の上にいつまでもいつまでも見続けたのです。

「CAPRICCIO」(1927)より一部抜粋
京谷裕彰編(2019)『薔薇色のアパリシオン 冨士原清一詩文集成』 共和国 p44


 と語っている。なんだかよく似た光景である。
 だから、私は「彼」と「私」が同一であると思う。「私」という一人称で語っているから"彼"と同一だと述べるのは、性急かもしれない。しかし、複数の作品で似たような光景が語られ、しかも一方では一人称で語られているのだから、そう読んでもいいように思われる。

 さて、「画家の夢」に話を戻す。
「彼」の夢の中には、様々な色が登場している。例えば「黄い星のようなもの」「黒い天井の様な処」に「赤黒黄白緑青等の凡ゆる種類の色」……。それが「彼」の周囲を取り巻く。夢を覆い尽くさんばかりの、圧倒的な色彩である。
 例えば雑踏を歩く時、そこには大量の色がある。しかしそれを見るのとは違う。雑踏の色が、至るところに散らばった色だとすれば、「彼」の夢の色は、集合的かつ濃厚である。色そのものの圧力を感じる。色に対する執着ともいえるような関心がないと、こんな強烈な夢を見ることはできないのではないか。
 

 "彼"の瞳は色硝子だったのだろうと思う。
 視界に入れた色彩を鮮やかに保存し、内包し、夢の中で再現してみせる。


 夢の中で、そして夢と現のあわいで見た色彩の激しさが、私には羨ましい。色彩の中に迷い込むような夢を見たい。
 "彼"の初期の詩には、色彩が溢れている。もし"彼"が本当に画家だったなら、ひとつの絵を描くために何本もの絵の具を使い切っただろう。そして、たっぷりと豊かな色彩の世界を描き上げるだろう。……それと同じことを、"彼"は詩でやっているのだと思う。

 夏の午後である。
 細かく茂つた緑葉の影が、くつきりと黒く鮮かに障子に写る影絵の様に大地に描かれて居る。衣ずれの様な囁きを時々の微風が木の葉からもたらしてきて、夏の日は大きい柿の実の様に空にぶらさがつて居る。まわりは青色のペンキで塗られた様に青い。睡魔が一様にこの世界に手を拡げて居る。そしてバ をはづした時の様な緊張からのゆるみの気分が半分死にかゝつた魚が自暴的に自分の体を水の流れに委かせて居る様にこの雰囲気に埋れて居る。
 一つの頽廃的な美しいシーンである。彼は今、縁側から少し奥に入りこんだ畳の上に半ば夢心地をむさぼつて居る。
 赤黒黄青白等の色の幻覚が矢の様に彼の瞳の上を走馬燈の様にめぐり出した。同時に、彼にはこれ等の夏の輝いた風物が蜃気楼の様に見え始めた。彼の目の周囲にならんでゐる細かい睫毛が暗い牢獄の窓にはまつてゐる太い鉄棒がぼけた様に、彼には思へた。
 彼の瞳の上は次第に睡魔の手で圧しつけられ、そしてそれが段々重くなつてゆくのを、彼はぼんやりと意識して居た。そして全く眠りが彼を包んでしまつた頃、自然の揺籃は相変らず静かであつた。

「画家の夢」(1925)より一部抜粋
京谷裕彰編(2019)『薔薇色のアパリシオン 冨士原清一詩文集成』 共和国 p15-16


 序盤、「彼」が夢を見る前、「夢心地」でいる夏の午後も鮮やかだ。夢を見る前と後は明確に区切られているけれども、「細かく茂つた緑葉の影」(p15) 、「青色のペンキで塗られた様に青い」(同) 周囲、「赤黒黄青白等の色の幻覚」(同) なども、夢のように美しく思われる。
 特に、「赤黒黄青白等の色の幻覚」(同) は夢の中で見ている「赤黒黄白緑青等の凡ゆる種類の色」(p16) と重なり、夢と現の境界を曖昧に仕立てている。


 その一方で、「画家の夢」の後半へ行くに従って、色彩の描写が消えていく。なぜなら、「彼」は「彼」の石膏の腕に魅了されるからだ。

 彼がはつきりと彼の右の片腕を眺め得た時、彼は自分の手がすつかり石膏に変つてしまつて居るのを知ることが出来た。
 不思議な雰囲気は彼に対して不思議な決断を与へずにはおかなかつた。彼は自分のその腕をすつかり切りとつてしまはうと決心することが出来た。彼の前には何時の間にか三日月形に曲つた青龍刀にも似た刃が青白い気味の悪い光沢を放つて居た。彼は何の不安もなしにそれをとりあげた。
 ヒヤリとした冷たい金属性の感覚が一度に無数の針で体中を刺された様に、彼の体中を流れたと思ふと、彼の前には何処一つ非難の打ちどころの無い美しい石膏造りの腕が横はつて居た。

「画家の夢」(1925)より一部抜粋
京谷裕彰編(2019)『薔薇色のアパリシオン 冨士原清一詩文集成』 共和国 p17

 
  切り落とされた腕は、このように描写される。

そしてその美しい冷たい片腕のみが白くぼんやりと夢幻的に浮び出て居た。見る/\内に彼の手にある白い石膏の腕に紅い血潮が朝日が空を染める様にさしこんでいつた。

「画家の夢」(1925)より一部抜粋
京谷裕彰編(2019)『薔薇色のアパリシオン 冨士原清一詩文集成』 共和国 p17

 冷たく白い腕と、その中に差し込まれる血液の赤。この文を最後に、色彩に関する描写が消える。
 詩は「彼」の内面へとフォーカスしていく。切実なまでに続く自問自答。「彼」は、「この美しい腕をモデルにして描いて見たいと云ふ切望の念」(p17) を抱いた。しかし、それを描くための右腕は、「彼」自身が切り落としてしまった。その葛藤を、「彼」はひたすらに語り続ける。

 

――俺は尊い犠牲を払つた。して俺は今その美しい美の極致に接する 空間を持つて居る。その美の極致の空間を接する空間を持つて居る。その美の極致の空間を!――併し俺は作品を生む力を失つてしまつた。勿論これは悲しむべき事実である。併しその作品を生むことよりもその美に眩惑され切つた瞬間こそ俺達は真実の意味の画家であり詩人であり芸術家であるのだ。 作品を生むこと、成程其処には人間に最も必要な自己満足と云ふ意義を存してゐるかも知れぬ。併しある厳正な地位から見るときは、それは単なる虚栄に止まると云ふことは無いだらうか?!

「画家の夢」(1925)より一部抜粋
京谷裕彰編(2019)『薔薇色のアパリシオン 冨士原清一詩文集成』 共和国 p19


 "彼"は1920年代、精力的に詩を発表するが、30年代にはその数を減らし、40年代には1篇も発表していない。

『薔薇色のアパリシオン』(p281-284) に掲載されている、詩の発表年を確認すると、
 1925年に1篇、1926年に4篇、1927年に6篇、1928年に14篇、1929年に18篇。
 1930年に2篇、1931年に1篇、1933年に1篇、1934年に3篇、1935年に2篇、1938年に1篇。
 (ただし、未発見の詩がいくつかあるとみられる。)

風はすべての鳥を燃した
砂礫のあひだに錆びた草花は悶え
石炭は跳ねた
風それは発狂せる無数の手であつた

溺死者は広場を通過した
そして屋根の上で生が猿轡を嵌められたとき
夜は最後の咳をした

「成立」(1933)より一部抜粋
京谷裕彰編(2019)『薔薇色のアパリシオン 冨士原清一詩文集成』 共和国 p120


 加えて、特に1930年代に発表された「襤褸」を中心とする詩は、初期の詩と比べて明らかに色彩が少ない。初期の詩は様々な色名を挙げて具体的かつ華やかな描写をしていたが、後年の詩はそれが鳴りを潜めている。「錆びた草花」「溺死者」……描かれるものも、どこか淋しい。
 代わりに、モノクロ映画のような鋭さを放っている。「画家の夢」にも、例えば「暗い牢獄の窓にはまつてゐる太い鉄棒」(p15)といった不穏なイメージが登場するが、しかしなお余りある色彩の強烈さが存在していた。
 後年の作品を否定したいわけではない。後年の作品には後年の作品の美しさがある。凄絶さがある。


 ただ、私は淋しかった。
 色彩の欠けた夢を、見続けているようだったからだ。
 薄暗い小学校、攻撃される街、果てのない絹の道。夢を覚えていられない質の人間が忘れられない光景。

――併し俺は作品を生む力を失つてしまつた。勿論これは悲しむべき事実である。

「画家の夢」(1925)より一部抜粋
京谷裕彰編(2019)『薔薇色のアパリシオン 冨士原清一詩文集成』 共和国 p19


 自ら腕を切り落とした「彼」。
 それと同じように、彼は美しい色を捉える瞳を失ってしまったのだろうか。
 美しい色をたたえた硝子の瞳を、色彩の夢を見せるだけの繊細な知覚を持つ、鮮やかな色硝子の瞳を、失ってしまったのだろうか。
 切り落とされた石膏の腕に赤い血が流れ込み、そして色の描写が消えた。同じように、色彩を内包した硝子は、"彼"と別れ別れになってしまったのだろうか。
 だから、詩に描かれる世界はこんなにも淋しく、モノクロームの響きを持っているのだろうか。世界から色彩が全て奪われてしまった、廃墟のような哀しさがあるのだろうか。


 ……私は、そうではないと思う。
 なぜなら、「彼」はこう言っているからだ。

併しその作品を生むことよりもその美に眩惑され切つた瞬間こそ俺達は真実の意味の画家であり詩人であり芸術家であるのだ。

「画家の夢」(1925)より一部抜粋
京谷裕彰編(2019)『薔薇色のアパリシオン 冨士原清一詩文集成』 共和国 p19

 ……やはりこの詩は、先見的だと感じる。先見的というよりは、彼が一本筋の通った詩人であったというべきか。
 たとえ暗い時代にあっても、暗い詩を書いていても、"彼"の夢の中には美しい色彩があったのだと思う。それを形にしなかっただけで。"彼"は色硝子の瞳を失ってなどいないし、色彩の夢を失ってもいない……。

 "彼"は心の中に美しいコレクションを持っていた。
 例えば「魔法書或は我が祖先の宇宙学」を読むだけで、その存在がはっきりとわかる。

 風の如きまた自在風車の如き彼の理性は全く彼の理性 彼は理性のみである 澄明な発狂の夕暮に彼の光る ABSENCE は彼の真理の汚点である おお眠れ すべてのハムレツトの霊魂をもつた草花等よ さて私は七里靴を穿いた そして ZEUS よ 私は汝に面会する(まあ この星月夜に何たる夥しい溶岩の落下)この光景が私に閃いたときそれは汝の巨大なる頭の円筒から生誕するあらゆる天体達であつた 太陽就中太陽は汝の最大の傑作であつた 汝の頭の円筒のなかの凄じい機関よ 汝の巨大なる頭の永遠の CHAOS よ 私は睡眠の青白いトンネルをぬけて汝の頭の永遠のなかに十字の雪の降つてゐるのを認める人間である いますべての不思議なる射撃は行はれる 然しそれらは直ちに理解されるのである

「魔法書或は我が祖先の宇宙学」(1930)より一部抜粋
京谷裕彰編(2019)『薔薇色のアパリシオン 冨士原清一詩文集成』 共和国 p118

 色彩は、"彼"が持ち続けた大切なコレクションのひとつだったのだと思う。色彩は後年、引き出しから取り出されることが少なくなっただけで、捨てたり失くしたわけでないのだろうと。
「その作品を生むことよりもその美に眩惑され切つた瞬間」とは、それらを無理に詩という形に乗せるのではなく、自分が美しさをよく理解した上で、自分専用の引き出しにコレクションしておくということだったのだろうと思う。

 "彼"の詩が好きな者として、"彼"のコレクションをもっと見たかったという気がしないわけでもない。しかし同時に、そのコレクションの一部を詩という形式で見せてくれたことを嬉しく思っているし、"彼"の詩を知ることができて光栄だと感じている。


 "彼"は今、深い海底に眠っているだろう。
 美しい色彩の夢を見ていると、私はそう願いたい。 



 最後に、「画家の夢」全文と、この詩にインスピレーションを受けて描いた絵を掲載して、この文を終わりにしたいと思う。

 

 夏の午後である。
 細かく茂つた緑葉の影が、くつきりと黒く鮮かに障子に写る影絵の様に大地に描かれて居る。衣ずれの様な囁きを時々の微風が木の葉からもたらしてきて、夏の日は大きい柿の実の様に空にぶらさがつて居る。まわりは青色のペンキで塗られた様に青い。睡魔が一様にこの世界に手を拡げて居る。そしてバンドをはづした時の様な緊張からのゆるみの気分が半分死にかゝつた魚が自暴的に自分の体を水の流れに委かせて居る様にこの雰囲気に埋れて居る。
 一つの頽廃的な美しいシーンである。彼は今、縁側から少し奥に入りこんだ畳の上に半ば夢心地をむさぼつて居る。
 赤黒黄青白等の色の幻覚が矢の様に彼の瞳の上を走馬燈の様にめぐり出した。同時に、彼にはこれ等の夏の輝いた風物が蜃気楼の様に見え始めた。彼の目の周囲にならんでゐる細かい睫毛が暗い牢獄の窓にはまつてゐる太い鉄棒がぼけた様に、彼には思へた。
 彼の瞳の上は次第に睡魔の手で圧しつけられ、そしてそれが段々重くなつてゆくのを、彼はぼんやりと意識して居た。そして全く眠りが彼を包んでしまつた頃、自然の揺籃は相変らず静かであつた。
    ✕   ✕   ✕   ✕ 
      ✕   ✕   ✕   ✕
 彼は、何か知ら黄い星の様なものが遠くから鉄砲玉の様にとんで来ては、急に彼の前で大きい円形のものとなつたかと思ふと、彼の体にぶつつかつては風船玉の様に暗い彼の周囲に消えてゆくのを知つた。
 暫らくすると、彼が仰向けになつて見つめてゐる黒い天井の様な処に無数の穴があいて其処に赤黒黄白緑青等の凡ゆる種類の色が燦然と輝き出した。すると又部屋のたがひに反対の位置にある二つの隅から、各違つた色をした煙の様なものが煙草の煙の様に大きくうねつた輪を画いて漂うて来ては、その二つが接触すると音もなく何度も何度も不気味に消えていつた。
 彼は、自分が夢を見てゐることを夢の様に薄く意識してゐた。彼は常にかう云ふ画家らしい色の幻想を絶えず築いて居たらしく別にこの不思議な現象に対して別に不思議の感じを持たなかつた。或は彼が特に夢の中に置かれて居ると云ふのでかも知れぬが・・・・・・
 要するに、彼にとつては、これ等の総ての言葉なき現象が自分に対して一種の何か言葉に似た衝動を沈黙の中に与へようとして居るらしく思へた。彼は起き上らうとした。突如、大きい重く冷たい石の様な力が彼の右の肩先を引いた。彼は余りに意外の驚愕に、声を発しようとあせつたが、彼の口の中へ恰も海綿をつきこまれた様に、そしてその海綿が彼の持つて居る総ての声を吸ひ尽してしまつた様にかすれ声だに発することが出来なかつた。彼は次第に冷静に冷静になるのを勉めた。
 彼がはつきりと彼の右の片腕を眺め得た時、彼は自分の手がすつかり石膏に変つてしまつて居るのを知ることが出来た。
 不思議な雰囲気は彼に対して不思議な決断を与へずにはおかなかつた。彼は自分のその腕をすつかり切りとつてしまはうと決心することが出来た。彼の前には何時の間にか三日月形に曲つた青龍刀にも似た刃が青白い気味の悪い光沢を放つて居た。彼は何の不安もなしにそれをとりあげた。
 ヒヤリとした冷たい金属性の感覚が一度に無数の針で体中を刺された様に、彼の体中を流れたと思ふと、彼の前には何処一つ非難の打ちどころの無い美しい石膏造りの腕が横はつて居た。彼の様な画家でさへ今までにこれほどの立派な彫刻を見たことが無くまた想像だに及ばなかつた。彼は思はずその腕を左手でとりあげそしてそれをぢつと打ちこむ様に眺めた。
 もう周囲の奇怪な影法師の如く不気味な幻影はすつかりその姿を潜めてしまつて居た。そしてその美しい冷たい片腕のみが白くぼんやりと夢幻的に浮び出て居た。見る/\内に彼の手にある白い石膏の腕に紅い血潮が朝日が空を染める様にさしこんでいつた。
 彼にはもう不安もなかつた。彼の片腕の如何さへ念頭に無かつた。只彼はこの腕を何度も何度も讃歎したが尽せなかつた。彼はもうすつかりこの美の極致に眩惑されきつて居た。同時に彼は彼の心におきてくる創造欲をおさへることが出来なかつた。
 彼はこの美しい腕をモデルにして描いて見たいと云ふ切望の念にかられた。併し彼には肝心の右腕をなくして居た。彼はもう既に美しいものを造り上げる技術をもつたものを失つて居た。彼は今更ながらドンと胸を強くつかれた様な気になつた。そして半ば後悔に似た煩悶が幾回となく彼の自問自答を強ひた。
――俺は右の腕を失つてしまつた。そして俺にはただ殆んど可能力の無い左腕があるばかりだ。
――併しロダンは芸術には犠牲が必要だと提唱してゐる。俺の右腕! それは果して犠牲であり得るだらうか?! 若しそれにしても余りに尊い無暴な犠牲ではなからうか?!
――ロダンはその犠牲によつて更によくその芸術が芸術なるものゝ価値を造り上げると云つて居る。併し俺はもう俺自身が作品を生むことが出来ないまでに大きい犠牲を供した。
――俺は俺のかうした行為を半ば悔い半ば誇つて居る。俺は誇つて居る! 何と云ふ浅間しさだ! それは俺の虚勢ではないか?!
――そうだ、虚勢に違ひない。併しこの虚勢は極めて自然な、そして矛盾を許さるべきものだ。即ちこれが人間の世の大きい矛盾であつて矛盾と見なし得ないものだ。即ち虚勢であつて虚勢ではないのだ。
――俺は尊い犠牲を払つた。して俺は今その美しい美の極致に接する 空間を持つて居る。その美の極致の空間を接する空間を持つて居る。その美の極致の空間を!
――併し俺は作品を生む力を失つてしまつた。勿論これは悲しむべき事実である。併しその作品を生むことよりもその美に眩惑され切つた瞬間こそ俺達は真実の意味の画家であり詩人であり芸術家であるのだ。 作品を生むこと、成程其処には人間に最も必要な自己満足と云ふ意義を存してゐるかも知れぬ。併しある厳正な地位から見るときは、それは単なる虚栄に止まると云ふことは無いだらうか?!
――或る意味から云へば芸術家が作品を生むことは一種の堕落的傾向ではなからうか。
――否や、そうではない。虚栄! それは自己に取つて最も重要な条件だ。畢竟芸術と云へども自己以外に何処にその存在を認め得るか?!
――俺は確かに今あせつて居る。悶へてゐる。狂つて居る。醜い姿をさらけ出してゐるのだ。
――俺には今勇気と努力のみが必要なのだ。
――俺には矢張り犠牲が必要だつたのだ。俺はもう殆んど芸術の目的なるものを達しようとして居る。
 また悟らうとしてゐる。俺はその美しい腕によつて無限に芸術の法悦を感じたのだ。俺は作品を生む力を失つた。それは悲しむべきである。併し俺は作品を感じる力は未だ失はない。作品の魂に触れること。これが真実の意味に於ての作品を生むことである。俺には、否、すべての芸術には犠牲が必要だつたのだ。 
    ✕   ✕   ✕   ✕   
      ✕   ✕   ✕   ✕
 彼はこの不思議な夢から醒めた。彼の体はびつしやりと汗がにじみ出てゐた。

 何時も眠りから覚めた時、大きな欠伸をする人間の一人である彼は、 今日に限つてそれをしなかつた。そして彼顔色からは、その不思議な夢を今尚辿つて居る表情があり/\と見られた。 

京谷裕彰編(2019)『薔薇色のアパリシオン 冨士原清一詩文集成』 共和国 p14-20



「画家の夢」にインスピレーションを得て描いた絵です。



 2024年9月18日
 80年前の今日亡くなった詩人、"冨士原清一"に捧ぐ。


 

いいなと思ったら応援しよう!