はじめに
千田光(せんだ・ひかる) 1908~1935
散文詩を十数篇、世に出して夭折した詩人です。
彼の詩との出会いは、冨士原清一の出会いと同じ、『モダニズム詩集Ⅰ 現代詩文庫・特集版3』。読んでいる時は「なんか怖い詩だな」というのが第一印象でした。
しかし、おそろしいことに、詩を読んでいる中で浮かんでいた強烈なイメージが、その後頭から離れなくなってしまったのです……。
ということで今回は、千田光の詩の中から12篇を掲載しようと思います。どの詩も、頭に残るのを通り越して刻みつくほど、良い意味でパンチが効いています。
お楽しみください!
参考資料
・鶴岡善久編(2003)『モダニズム詩集Ⅰ 現代詩文庫・特集版3』 思潮社
→戦前~戦後の詩の世界の魅力をいかんなく伝えてくれた、すばらしい詩集です。ありがたや……。千田光の詩は、11篇掲載されています。
・北川冬彦(1952)『日本詩人全集(六)』 創元社
→『モダニズム詩集I』とおおむね近しいラインナップの詩人が並んでいます。詩の前に詩人の紹介が載っているのですが、その内容が時折辛口(?)です。こちらには7篇収録されています。
・アエリエル
「夭逝シュルレアリスム散文詩詩人・千田光(1908-1935)」アメーバブログ
前編(2020)
https://ameblo.jp/fifth-of-july/entry-12596815943.html
後編(2023)
https://ameblo.jp/fifth-of-july/entry-12829686501.html
詩の知識量の豊富さに度肝を抜かれたブログです。千田光の詩集に関する情報もたっぷり掲載されていて、世の中は本当に広いな……と感嘆しています。
・桑原茂夫(1971)『現代詩手帖 第一四巻 第一号』 思潮社
→「千田光詩集」と題して、11篇の詩を紹介しています。企画した方、本当にすごいなと思います。『モダニズム詩集I』に掲載されていない詩も掲載されています。
・北川冬彦(1954)『現代詩Ⅲ』 角川書店
→千田光に対する北川冬彦の所見が印象的です。彼によると、千田は
だったそうです(「輪郭のキツカリした」という言葉が好きだったので引用しました)。
「歴史章」(1929)
「夜」(1929)
「赤氷」(1930)
「KANGOKU NO KABE」(1930)
「肉薄」(1930)
「失脚」(1930)
「失脚」(1930)
「足」(1930)
「海」(1930)
「誘ひ」(1930)
「善戦」(1931)
「死岩」(1932)
感想
「歴史章」
無色(もしくは白)と色彩の対比がおもしろい詩だと思います。例えば、「厭ふべき色素の骸骨がある。」 骸骨は白いイメージである一方で、色素には当然何かしらの色がある。「緑青を噴いた骸骨がある。」も同様です。白い骸骨から溢れる緑青の色彩のコントラストです。
また、「勿論、血液の真珠がある。」の「血液の真珠」も。赤と白の対比。
そういう細やかな対比を見せているからこそ、「白い曠しさが、厳丈な四壁を建ててゐる。」というフレーズが際立つのかもしれません。圧倒的な白!
「夜」
「なぜなら、この道は正確なところ発掘市のやうな廃れた町に墜ち込んでゐる。」 「発掘市のやうな廃れた町」、独特な味わいのある比喩だと思います。土埃にかすむ町のイメージです。
「老人が私に道を乞ふ、私の親切な指尖が、ある一点を刺した時、老人の姿は、 私の指尖よりも遙か前方を行くのだ、私は未だ遇はなければならない筈だ、片目眇の少年に。」 老人と少年という対比。目の前にいる老人と、未だ出会わない少年。また、光景を想像すると、抽象的でありながら、童話の挿絵のような、不思議なノスタルジーを覚えます。
「少年は凶器を握ぎつてゐる。凶器の尖には人形の首とナマリの笑ひがつるさがつてゐるのだ。」 !!! 前言撤回、薄煙の中にあったような光景が急に刃物のぎらつきを見せたので、とても動揺しました。
「赤氷」
「山間から氷の分裂する音は河の咽喉を広め始めたと共に氷流だ。ドツと押し寄せる赤氷だ。」 河の咽喉を流れる赤氷、というイメージが、どうも喀血と重なってしまうのですが、どうなのでしょうか。
「赤氷から生えてゐる掌形の花。」「脂の乗つた筋肉のやうな茎だ。」 「咽喉」「掌」「筋肉」、体を用いた比喩が印象的です。生命の強烈さを感じます。
「太陽の背には更に新らしい太陽の燃焼だ。燃焼だ。」 想像するだけで眩しい! 力強い!
「KANGOKU NO KABE」
「石膏の壁に肉薄する皮膚は強固だ。」「摩擦する皮膚と壁。」「皮膚の冷却は壁の貫通だ。愛の汚物は傷孔の如くに、消えはしない。」 こちらの詩も、体を用いた比喩が多いですね。しかし、こちらは何だか、まさしく壁のように冷え冷えとしていて、肉感に欠けるイメージです。
「透明なる壁を持つた人間には透明なる壁を与へよ。」 そんな印象だからか、「透明なる壁を持つた人間」「透明なる壁」という、実体の薄いイメージが、しっくりと脳内に入ってくる感じがします。
「肉薄」
「柱脚の真中から腐つた人間の足が硬直し、逆さに露出してゐるのだ。」 読んだ時の気持ちは、芥川龍之介『羅生門』で、下人が楼の中で大量の死骸と老婆を見た場面を読んだ時に近いものでした。本能的にぞっとするような。
「突如、颱風だ、怒号だ、かくて群集は建築場の板塀に殺到した。」「群集に群集する群集。」 それとの対比として、群集の息遣いというか、密度と熱気に満ちた肉体のぶつかり合いを感じる気がします。
「彼等に驚くべき沈黙が伝はるや彼等は死体を痛快なる場所へ持込んで行こふといふのだ。痛快なる場所へ!」 そして最後に、死者と群集の両者が出会う、という帰着。「痛快なる場所」とはどこなのか……。
「失脚」
「太陽は流れて了つた。それからどの位ひ歩いたか判らない。運河の両壁は次第に冷却しはじめた。地上は未だ明るいらしい。時たま猛烈な砂塵が雲を崩して飛び去つた。私は突然この水の無い運河の底で恐怖の飛躍を感じた。私は用意を失つてゐる。私はもう駄目だ。」 この一段落が、わけもなく好きです。太陽は流れてしまって、それでもまだ明るい瞬間の時間、その中でひたすらに運河の底で歩く「私」。異様な光景です。私事(?)ですが、発熱した時などに見る悪夢で、墨色の世界の中、ひたすら絹のように白い道の上を歩き続けていくというものがあります。それを見ている時に、近い感覚がします。
「私は走つた。走つてゐるうちに、最早や動かすべからざる絶望が墜ちて来た。逃げる私の前方に当つて又も海水の響きは迫つたのだ。私はもの淋しい悲鳴を起しながら昏倒した。海水が私の頭上で衝突するのを聴きながら。 」 世界の終わりみたいだな、と読みながら思っていました。それと同時に、夢から醒める直前のようだな、とも思っていました。
「失脚」
私の記憶の中にこびりついてしまった詩がこちらです。想像しながら読んでくださいよ。忘れられなくなりますよ。
特に後半、畳みかけるように、悪夢的展開が続きます。まず、「次の瞬間、少年は四つん這ひになると溝渠の周囲をぐるぐる廻りはじめた。」 次に、「ぐるぐる廻つてゐるうちに、いつか得体の知れない数人の男が加つた。」、そして「突然、それら数人の男が一斉に顔を上げた。驚ろいたことには、それが各々みんな時代のついた私の顔ばかりであつた。」 自分なら、「驚ろいたことに」くらいで済まされないくらい悲鳴を上げそうです。自分が乗っ取られたような、自分の意志が介入せずに自分という存在をいじられたような恐怖……。
ただ、この作品の怖さは、さらにもう二段階あります。まず、「私の顔はなんともいへない不愉快な犬のやうに、私の命令を求めてゐた。」 私が私にかしずいている図、考えるだけで非常に不気味です。そして、「気がついて見ると、その顔顔の間で私は四つん這ひになつて、駄馬のやうに興奮しながら、なんにもない溝渠の周囲をぐるぐる這ひ廻つてゐた。」 ここが極まって怖いです。本当に怖いです。いつの間にか自分がその一部になっている怖さ!
「足」
「私の両肩には不可解な水死人の柩が、大盤石とのしかかつてゐる。」 出だしからぞくっとします。「不可解な水死人の柩」……。
「数人の亡者のやうな男が、取巻き或は担ぎ又は足を搦めてぶらさがり、何かボソボソ呟き合つては嬉しげにからから笑ひを散らした。」 柩を運んでいるという状況で、笑っている不気味さ。
「私は確に前進してゐる。しかるに私の足は後退してゐるのだ。後退してゐるに拘らず私の位置は矢張り前進してゐるのだ。」 まるで、水に流されているみたいじゃないか……と思いながら読みました。
「その時頭上で燃えあがる雲が再び私を転倒せしめた。」 ラスト、転倒で終わるのが不穏です。
「海」
「すると突然鳥の一羽が眠つた男をみつけると、一層羽音を高めてその眠つた男を強襲した。一羽二羽と続いた。」 読んでいてぎょっとした部分です。真っ白な白い塊が男を集中攻撃する、強烈なイメージが頭に浮かびました。
「羽までを赤く染めた鳥共が、再び一団となつた時、男の死骸は海底に斜めに下りて行つた。」 これも、頭に残って離れない光景です。羽が赤い以外何も変わらない鳥の一団、その色と海の青とのコントラスト、海底に沈んでいく男の死体……。
「誘ひ」
「その夜、私は桜の上の男が、悶絶しながら地上に墜落した夢を見た。翌朝、私はとるものも取敢へづ現場へ急行した。果たせるかな画布は昨日の姿勢のままで置かれてあつた。男の姿は遂ひに発見することが出来なかつた。が然し桜の根方に夥しい血滴がはじまつて、池の方に続いてゐた。」 この詩でも男が血を流して死ぬ……。早逝の予感があったのでしょうか。桜と男の儚さが重なっているようにも思われます。
「私は軽い暈ひと痙攣の後、心快い嗅覚をふり廻しながら、朧気に鍵盤を叩いてゐた。」 この部分をうまく説明できないのですが、それでも匂い立つような鮮やかな気の昂ぶりを感じて、印象的です。
「彼は二日二晩燐寸を擦り続けた。」 鍵盤をひたすら叩いていた、1の「私」に通じるものを感じます。
「彼の笑ひが完全に封じられた時、彼は彼の総身に笑ひを立てながら病院の窓から墜落して了つたのだ。」 この光景も、強烈に頭の中に残っています。彼の描き出す「墜落する男」、なんだかものすごく脳裏に刻まれるんですよね……。
「善戦」
「次いで早くも敵の触手は私の面上を掠めた。」 「失脚」の「海水が私の頭上で衝突するのを聴きながら。 」といい、「誘ひ」の「不審に思つてゐる私の頭上で、突然、桜の花びらが一散に落ちて来た。」といい、「私」のすぐ上で何かが起こること、多いですね。
「それから夢のやうな苦しみが肉体を刺しだした。」 夢が苦しい、というのが、わからないような、わからないような。不思議な比喩だなと思います。
「火のやうな太陽がカツカツと昇る。」 個人的に、このオノマトペの使い方が好きです。非常に規則的に、無慈悲に昇っている感じがします。軍的な雰囲気すらあります。
「続いてその時、一大亀裂が私を再び地上へ投げあげたのだ。」 実に映像的なフレーズです。ぽーんと投げられる体が、脳裏に浮かびました。
「死岩」
「私は彼の動かぬ姿の中から、動かぬ速力の激流を感じた。」 静の中に存在している動。死岩の形状をはっきりとイメージすることができませんが、概念としてはくっきりした存在だと思います。
「霧は起つて、私は遠くへ流されてしまつた。圏外。」 「圏外。」のぽつねんとした感じが好きです。本当に圏外にいるんだな、という感じがします。
「私にかくまで喰ひこんでゐる死岩の影から、何故逃げなければならないのか、足を固めなほすと、私は死岩に向つて颯爽と小手を翳した。あそこだ。」 なんだか爽やかな終わりに見えなくもないのですが、得も言われぬぞくぞくを覚えた終わり方でした。「死」の名前を冠するものに向かっているからでしょうか。
おわりに
北川冬彦は、彼の詩について、
と書いています。自身が見る悪夢に例えたりもしましたが、そういう底の無い怖さが、彼の作品にはあるのだと思います。そしてそれが癖になると、これまた底から出られなくなってしまうのだと思います。
千田光と、彼の詩の関係者に感謝を込めて。
ご覧いただきありがとうございました!