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好きな詩歌の飾り棚#3 千田光


はじめに


千田光(せんだ・ひかる) 1908~1935

 散文詩を十数篇、世に出して夭折した詩人です。
 彼の詩との出会いは、冨士原清一の出会いと同じ、『モダニズム詩集Ⅰ 現代詩文庫・特集版3』。読んでいる時は「なんか怖い詩だな」というのが第一印象でした。
 しかし、おそろしいことに、詩を読んでいる中で浮かんでいた強烈なイメージが、その後頭から離れなくなってしまったのです……。

 ということで今回は、千田光の詩の中から12篇を掲載しようと思います。どの詩も、頭に残るのを通り越して刻みつくほど、良い意味でパンチが効いています。
 お楽しみください!


参考資料

・鶴岡善久編(2003)『モダニズム詩集Ⅰ 現代詩文庫・特集版3』 思潮社
→戦前~戦後の詩の世界の魅力をいかんなく伝えてくれた、すばらしい詩集です。ありがたや……。千田光の詩は、11篇掲載されています。

・北川冬彦(1952)『日本詩人全集(六)』 創元社
→『モダニズム詩集I』とおおむね近しいラインナップの詩人が並んでいます。詩の前に詩人の紹介が載っているのですが、その内容が時折辛口(?)です。こちらには7篇収録されています。

・アエリエル
「夭逝シュルレアリスム散文詩詩人・千田光(1908-1935)」アメーバブログ
前編(2020)
https://ameblo.jp/fifth-of-july/entry-12596815943.html

後編(2023)
https://ameblo.jp/fifth-of-july/entry-12829686501.html

 詩の知識量の豊富さに度肝を抜かれたブログです。千田光の詩集に関する情報もたっぷり掲載されていて、世の中は本当に広いな……と感嘆しています。

・桑原茂夫(1971)『現代詩手帖 第一四巻 第一号』 思潮社
→「千田光詩集」と題して、11篇の詩を紹介しています。企画した方、本当にすごいなと思います。『モダニズム詩集I』に掲載されていない詩も掲載されています。

・北川冬彦(1954)『現代詩Ⅲ』 角川書店
→千田光に対する北川冬彦の所見が印象的です。彼によると、千田は

色の浅黒い、サイレント時代のフランスの映画俳優ジャック・カトランのような金属的な、輪郭のキツカリした顔の青年

北川冬彦(1954)『現代詩Ⅲ』 角川書店  p192

 だったそうです(「輪郭のキツカリした」という言葉が好きだったので引用しました)。



「歴史章」(1929)

石の上の真青な花。花から滅形するものの中に、厭ふべき色素の骸骨がある。緑青を噴いた骸骨がある。花に禁じ得ぬ火山灰。

それは荘厳な動機によつて出発する美しい首である。美しい首には、勿論、血液の真珠がある。こつちを向いた美しい首には、拭ふべからざる創痕がある。

そこには幾多の屍がある。白い曠しさが、厳丈な四壁を建ててゐる。惰力を失つて、傷〓に墜ちた天象。音響の花。
※…〓は欠字を示す。

桑原茂夫(1971)『現代詩手帖 第一四巻 第一号』 思潮社 p58


「夜」(1929)

 私の数歩前にあたつて、私は実に得体の知れぬ現象に出遇つた。
 私は不図この光景を、未だ見知らぬこの道を、嘗てこの位置で、この洞穴にもまして暗い道の上で、経験したことがあるやうに思へる。
 なぜなら、この道は正確なところ発掘市のやうな廃れた町に墜ち込んでゐる。私が顔をあげると鳥が羽を落して行く。軍鶏のやうな男が私を追越す。私はこの男を別に気に留めなかつたが、と思ひながら私は更に歩いてゐた筈だ、と考へて歩いてゐる私の眼前に、突然、それらの現象が一塊となつて現れたのだ。私は鏡でも撫でるかのやうに前方を探ぐつた。
 未だある! 未だある! そうして秒間を過ぎると、 私は更に驚異すべき発作に撃れる。それはといふと、この道の先で一人の老人に遇ふのだ。老人が私に道を乞ふ、私の親切な指尖が、ある一点を刺した時、老人の姿は、 私の指尖よりも遙か前方を行くのだ、私は未だ遇はなければならない筈だ、片目眇の少年に。少年は凶器を握ぎつてゐる。凶器の尖には人形の首とナマリの笑ひがつるさがつてゐるのだ。その少年は私に戯れると見せかけるのだ。戯れると見せかけるのだ。

 私はさつと苔を生じた。苔を生じた石のやうに土を嚙むだ。

鶴岡善久編(2003)『モダニズム詩集Ⅰ 現代詩文庫・特集版3』 思潮社 p159



「赤氷」(1930)

山間から氷の分裂する音は河の咽喉を広め始めたと共に氷流だ。ドツと押し寄せる赤氷だ。
新国境の壁に粉砕される赤氷だ。赤氷から生えてゐる掌形の花。
山間に於ける数年間の閉塞と雖も、脂の乗つた筋肉のやうな茎だ。が然し、新国境の壁には何ものも咲かせざる如く一滴の水以下だ。
赤氷よ新国境の壁を貫け、太陽の背には更に新らしい太陽の燃焼だ。燃焼だ。

鶴岡善久編(2003)『モダニズム詩集Ⅰ 現代詩文庫・特集版3』 思潮社 p159-160



「KANGOKU NO KABE」(1930)

石膏の壁に肉薄する皮膚は強固だ。

壁に封じられた言葉は暴力の開始だ。

摩擦する皮膚と壁。

皮膚の冷却は壁の貫通だ。愛の汚物は傷孔の如くに、消えはしない。

透明なる壁を持つた人間には透明なる壁を与へよ。

桑原茂夫(1971)『現代詩手帖 第一四巻 第一号』 思潮社 p59



「肉薄」(1930)

 沛然たる豪雨の一端が傷口のやうな柱脚を掘り返へして行つた。そうしてとりとめのない雲が二三と、太陽は壁の中へ墜ちかかつてゐた。
 突如、颱風だ、怒号だ、かくて群集は建築場の板塀に殺到した。
 柱脚の真中から腐つた人間の足が硬直し、逆さに露出してゐるのだ。
 群集に群集する群集。原野の炎は群集の眼に拡大した。彼等に驚くべき沈黙が伝はるや彼等は死体を痛快なる場所へ持込んで行こふといふのだ。痛快なる場所へ!

鶴岡善久編(2003)『モダニズム詩集Ⅰ 現代詩文庫・特集版3』 思潮社 p160



「失脚」(1930)

 私は運河の底を歩いてゐた。この未成の運河の先きには必ず人間の仕事がある。私はたゞその目的に急いでゐる。
 太陽は流れて了つた。それからどの位ひ歩いたか判らない。運河の両壁は次第に冷却しはじめた。地上は未だ明るいらしい。時たま猛烈な砂塵が雲を崩して飛び去つた。私は突然この水の無い運河の底で恐怖の飛躍を感じた。私は用意を失つてゐる。私はもう駄目だ。
 私の行手僅かの地点で歓喜の声が震動してゐるのだ。私はたゞ走しることによつて慰ぐさめるより仕方がない。私の背後には大海の水が豪落と迫つてゐるに違ひない。私は走つた。走つてゐるうちに、最早や動かすべからざる絶望が墜ちて来た。逃げる私の前方に当つて又も海水の響きは迫つたのだ。私はもの淋しい悲鳴を起しながら昏倒した。海水が私の頭上で衝突するのを聴きながら。 

鶴岡善久編(2003)『モダニズム詩集Ⅰ 現代詩文庫・特集版3』 思潮社 p160 



「失脚」(1930)

 私は、私の想像を二乗したやうな深い溝渠の淵に立つてゐた。その溝渠の上には、溝渠から噴きあがつたやうな雲が夕焼を映して蟠つてゐた。
 不意に人のけはひがしたので雲から目を落すと、そこに一人の少年が私と同じやうな姿勢で、雲から目を落して私を発見みつけた。彼は自分の油断を狙はれて了つたかのやうに溝渠の半円へ遠ざかりはじめた。それは宛然、鏡面から遠ざかる私自身ででもあるかのやうに、少年の一挙一動は私のいらだたしいままに動いた。一体この溝渠の底に何があるのか、私は知らない。次の瞬間、少年は四つん這ひになると溝渠の周囲をぐるぐる廻りはじめた。ぐるぐる廻つてゐるうちに、いつか得体の知れない数人の男が加つた。然し溝渠の底は依然として暗く何物もみとめられなかつた。
 突然、それら数人の男が一斉に顔を上げた。驚ろいたことには、それが各々みんな時代のついた私の顔ばかりであつた。私の顔はなんともいへない不愉快な犬のやうに、私の命令を求めてゐた。気がついて見ると、その顔顔の間で私は四つん這ひになつて、駄馬のやうに興奮しながら、なんにもない溝渠の周囲をぐるぐる這ひ廻つてゐた。

鶴岡善久編(2003)『モダニズム詩集Ⅰ 現代詩文庫・特集版3』 思潮社 p161



「足」(1930)

 私の両肩には不可解な水死人の柩が、大盤石とのしかかつてゐる。柩から滴たる水は私の全身で汗にかはり、汗は全身をきりきり締めつける。火のないランプのやうな町のはづれだ。水死人の柩には私の他に、数人の亡者のやうな男が、取巻き或は担ぎ又は足を搦めてぶらさがり、何かボソボソ呟き合つては嬉しげにからから笑ひを散らした。それから祭のやうな騒ぎがその間に勃つた。 柩の重量が急激に私の一端にかかつて来た。私は危く身を建て直すと力いつぱい足を張つた。その時図らずも私は私の足が空間に浮きあがるのを覚えた。それと同時に私の水理のやうな秩序は失はれた。私は確に前進してゐる。しかるに私の足は後退してゐるのだ。後退してゐるに拘らず私の位置は矢張り前進してゐるのだ。私はこの奇怪な行動をいかに撃破すればいいか、私が突然水死人の柩を投げ出すと、堕力が死のやうな苦悩と共に私を転倒せしめた。起きあがると私は一散に逃げはじめた。その時頭上で燃えあがる雲が再び私を転倒せしめた。

鶴岡善久編(2003)『モダニズム詩集Ⅰ 現代詩文庫・特集版3』 思潮社 p162



「海」(1930)

 一人の男が、流木にしがみついたまま、海の上で眠ってゐた。次いで現はれたのは水平線上の白い塊だつた。雲足にしては余りに早い速力だったので、尚ほ凝視してゐると、それは紛ぎれもない一団の鳥であつた。鳥は既に眠つた男の真上にまで来た。すると突然鳥の一羽が眠つた男をみつけると、一層羽音を高めてその眠つた男を強襲した。一羽二羽と続いた。眠つてゐた男は一唸りすると、パッと眼を見開いた。流木の上に立つた。無数の鳥との無惨な格闘はかなり長い間続いた。しかし一際大きく唸ると男はそのまま流木の上に斃れて了つた。羽までを赤く染めた鳥共が、再び一団となつた時、男の死骸は海底に斜めに下りて行つた。軍港をとりまいた山の上では、巨大な望遠鏡が雲の動静をうかがつてゐた。

鶴岡善久編(2003)『モダニズム詩集Ⅰ 現代詩文庫・特集版3』 思潮社 p162-163



「誘ひ」(1930)

 1

 爛漫たる桜の樹の下で、一人の男が絵を描いてゐた。男の目は半ば眠つてゐるかのやうにどろんとしてゐた。男は時時画布から首を擡げては犬のやうにあたりを嗅ぎ廻つた。次の日、私はやはり桜の樹の下で、桜の幹に抱きついて、幹の匂ひを熱心に嗅いでゐるその男を見た。三日目には、画布だけが桜の樹の下に建てられてあつた。不審に思つてゐる私の頭上で、突然、桜の花びらが一散に落ちて来た。驚ろいたことには、昨日の男が桜の枝の上で昏昏と眠つてゐた。実は、眠つてゐると思ったが、そうではなく、男は桜の匂ひの中で全く困乱に陥入つていたのだつた。そうしてまた私はその男の姿に魅せられて了つたのだ。その夜、私は桜の上の男が、悶絶しながら地上に墜落した夢を見た。翌朝、私はとるものも取敢へづ現場へ急行した。果たせるかな画布は昨日の姿勢のままで置かれてあつた。男の姿は遂ひに発見することが出来なかつた。が然し桜の根方に夥しい血滴がはじまつて、池の方に続いてゐた。池には蓮の葉が油ぎった舌嘗をしてゐた。その日、初めて私はその画面を熟視することができた。画面はまるで解剖図のやうに、触るとずるずる崩れて了ふのではないかと思へた。それから二日経つても三日経つても、男は再び桜の樹の下へ現れて来なかつた。私は意を動かして、その画布を家へ持ち帰へつた。その翌日から私に不思議なある慾望が勃りはじめた。半日を費して、私はピアノを庭園へ運んだ。そこで私は思ふ存分鍵盤を擲ぐつた。私は軽い暈ひと痙攣の後、心快い嗅覚をふり廻しながら、朧気に鍵盤を叩いてゐた。

 2

 その男は、あらゆる音響を字体に移植しようと考へた。この研究に斃れても、自分は決して犬死ではない、むしろ歴史的な事業ではないか、と考へるに至つた。そこで先づ彼は最初、燐寸を擦る音に就いて、研究を開始した。彼は二日二晩燐寸を擦り続けた。彼は硫黄の焼きついた黄色い顔を町へ運んだ。家家は怪しんで燐寸を売らなかつた。狭い町ではこれを不審に思はない訳にはゆかなかつた。その夜、一人の警官が彼に面会を強要した。ところが警官は腹を抱へて帰へつて行つた。彼の耳が半分程焦げてゐたからだ。彼はたうとう狂人にされて了つた。彼は笑つた実際大声を張りあげて笑つた。笑つてゐるうちに、笑いの妙味が彼をとらへた、彼は直ちに燐寸を棄てて笑ひを笑つた。笑ひはやがて灰色の窓に移されて行つた。彼の笑ひが完全に封じられた時、彼は彼の総身に笑ひを立てながら病院の窓から墜落して了つたのだ。

鶴岡善久編(2003)『モダニズム詩集Ⅰ 現代詩文庫・特集版3』 思潮社 p163-164



「善戦」(1931)

    菱山修三君に

 敵だ。敵がゐる。私にそう遠くない所だ。敵の正体には根がない。ただもやもや浮動し屯してゐるばかり、一度たりと私に攻勢を執つたことはないのだ。が然し、少くとも私に眼を着けてゐるといふことは否めない事実なのだ。いはんや敵は不思議な自信の中に私を獲へて放さないかのやうな威嚇を示してゐるのだ。そこで私は密に物物しい武装に取掛つたが、武装意識が私よりも敵の大きさを強からしめた。それが私を過らした最初だつた。果せる哉敵は堂堂と意識の上に攻め込んで来た。次いで早くも敵の触手は私の面上を掠めた。
 追撃――追撃は極つた。私の茫然たる眼前には暗い泥海が盛りあがつてゐた、と思つた時は既に遅く私の胴体はその泥海の上を風のまにまに流れ、私の背後にうねつた夜明の方へ少しづつ動きはじめた。それから夢のやうな苦しみが肉体を刺しだした。私の全身は泥の中へめり込んでゆく。私の周囲の泥の上には草が生えぐんぐん伸びる。火のやうな太陽がカツカツと昇る。全身の下降が止つた。すると泥海はみりみり音をたてながら太陽の下で固つて行くのだ。その時だ。かの怖るべき敵は、大敵は私の無視の下に消失して了つたのだ。続いてその時、一大亀裂が私を再び地上へ投げあげたのだ。

鶴岡善久編(2003)『モダニズム詩集Ⅰ 現代詩文庫・特集版3』 思潮社 p164-165


死岩デツドロツク」(1932)

 私の前には、死岩デツドロツクが顔を霧の中に埋めて立つてゐる。私は知つてゐる。しかし、私が彼に手をあてるまで、私は実に雄然と対立してゐた。死岩をとりまく霧は、渦巻いて私の手を払ふ。私がぴたり死岩に手をあてると、サツと彼はその毅然たる姿を現した。私は彼の動かぬ姿の中から、動かぬ速力の激流を感じた。それが真向から墜落して来た。はずみをくつて私はよろよろした。高さ! 高さの下で痛めたのは羽ばかりではない。私は浮ぶことも沈むこともできなくなつた。高さは私の腕の長さではない。黙然と佇立してゐると、霧は起つて、私は遠くへ流されてしまつた。圏外。そこでは私に軽蔑と安堵が向うてゐた。然し死岩の前から姿を消したとて、私には眼が見える。蟻のやうに登つて行く人々の足音がきこゑる。足音をきいてゐるうちに、私の身はいつのまにか、死岩に向つて歩いてゐる。私にかくまで喰ひこんでゐる死岩の影から、何故逃げなければならないのか、足を固めなほすと、私は死岩に向つて颯爽と小手を翳した。あそこだ。

鶴岡善久編(2003)『モダニズム詩集Ⅰ 現代詩文庫・特集版3』 思潮社 p165



感想

「歴史章」

 無色(もしくは白)と色彩の対比がおもしろい詩だと思います。例えば、「厭ふべき色素の骸骨がある。」 骸骨は白いイメージである一方で、色素には当然何かしらの色がある。「緑青を噴いた骸骨がある。」も同様です。白い骸骨から溢れる緑青の色彩のコントラストです。
 また、「勿論、血液の真珠がある。」の「血液の真珠」も。赤と白の対比。
 そういう細やかな対比を見せているからこそ、「白い曠しさが、厳丈な四壁を建ててゐる。」というフレーズが際立つのかもしれません。圧倒的な白!


「夜」

「なぜなら、この道は正確なところ発掘市のやうな廃れた町に墜ち込んでゐる。」 「発掘市のやうな廃れた町」、独特な味わいのある比喩だと思います。土埃にかすむ町のイメージです。
「老人が私に道を乞ふ、私の親切な指尖が、ある一点を刺した時、老人の姿は、 私の指尖よりも遙か前方を行くのだ、私は未だ遇はなければならない筈だ、片目眇の少年に。」 老人と少年という対比。目の前にいる老人と、未だ出会わない少年。また、光景を想像すると、抽象的でありながら、童話の挿絵のような、不思議なノスタルジーを覚えます。
「少年は凶器を握ぎつてゐる。凶器の尖には人形の首とナマリの笑ひがつるさがつてゐるのだ。」 !!! 前言撤回、薄煙の中にあったような光景が急に刃物のぎらつきを見せたので、とても動揺しました。


「赤氷」

「山間から氷の分裂する音は河の咽喉を広め始めたと共に氷流だ。ドツと押し寄せる赤氷だ。」 河の咽喉を流れる赤氷、というイメージが、どうも喀血と重なってしまうのですが、どうなのでしょうか。
「赤氷から生えてゐる掌形の花。」「脂の乗つた筋肉のやうな茎だ。」 「咽喉」「掌」「筋肉」、体を用いた比喩が印象的です。生命の強烈さを感じます。
「太陽の背には更に新らしい太陽の燃焼だ。燃焼だ。」 想像するだけで眩しい! 力強い!


「KANGOKU NO KABE」

「石膏の壁に肉薄する皮膚は強固だ。」「摩擦する皮膚と壁。」「皮膚の冷却は壁の貫通だ。愛の汚物は傷孔の如くに、消えはしない。」 こちらの詩も、体を用いた比喩が多いですね。しかし、こちらは何だか、まさしく壁のように冷え冷えとしていて、肉感に欠けるイメージです。
「透明なる壁を持つた人間には透明なる壁を与へよ。」 そんな印象だからか、「透明なる壁を持つた人間」「透明なる壁」という、実体の薄いイメージが、しっくりと脳内に入ってくる感じがします。


「肉薄」

「柱脚の真中から腐つた人間の足が硬直し、逆さに露出してゐるのだ。」 読んだ時の気持ちは、芥川龍之介『羅生門』で、下人が楼の中で大量の死骸と老婆を見た場面を読んだ時に近いものでした。本能的にぞっとするような。
「突如、颱風だ、怒号だ、かくて群集は建築場の板塀に殺到した。」「群集に群集する群集。」 それとの対比として、群集の息遣いというか、密度と熱気に満ちた肉体のぶつかり合いを感じる気がします。
「彼等に驚くべき沈黙が伝はるや彼等は死体を痛快なる場所へ持込んで行こふといふのだ。痛快なる場所へ!」 そして最後に、死者と群集の両者が出会う、という帰着。「痛快なる場所」とはどこなのか……。


「失脚」

「太陽は流れて了つた。それからどの位ひ歩いたか判らない。運河の両壁は次第に冷却しはじめた。地上は未だ明るいらしい。時たま猛烈な砂塵が雲を崩して飛び去つた。私は突然この水の無い運河の底で恐怖の飛躍を感じた。私は用意を失つてゐる。私はもう駄目だ。」 この一段落が、わけもなく好きです。太陽は流れてしまって、それでもまだ明るい瞬間の時間、その中でひたすらに運河の底で歩く「私」。異様な光景です。私事(?)ですが、発熱した時などに見る悪夢で、墨色の世界の中、ひたすら絹のように白い道の上を歩き続けていくというものがあります。それを見ている時に、近い感覚がします。
「私は走つた。走つてゐるうちに、最早や動かすべからざる絶望が墜ちて来た。逃げる私の前方に当つて又も海水の響きは迫つたのだ。私はもの淋しい悲鳴を起しながら昏倒した。海水が私の頭上で衝突するのを聴きながら。 」 世界の終わりみたいだな、と読みながら思っていました。それと同時に、夢から醒める直前のようだな、とも思っていました。


「失脚」

 私の記憶の中にこびりついてしまった詩がこちらです。想像しながら読んでくださいよ。忘れられなくなりますよ。
 特に後半、畳みかけるように、悪夢的展開が続きます。まず、「次の瞬間、少年は四つん這ひになると溝渠の周囲をぐるぐる廻りはじめた。」 次に、「ぐるぐる廻つてゐるうちに、いつか得体の知れない数人の男が加つた。」、そして「突然、それら数人の男が一斉に顔を上げた。驚ろいたことには、それが各々みんな時代のついた私の顔ばかりであつた。」 自分なら、「驚ろいたことに」くらいで済まされないくらい悲鳴を上げそうです。自分が乗っ取られたような、自分の意志が介入せずに自分という存在をいじられたような恐怖……。
 ただ、この作品の怖さは、さらにもう二段階あります。まず、「私の顔はなんともいへない不愉快な犬のやうに、私の命令を求めてゐた。」 私が私にかしずいている図、考えるだけで非常に不気味です。そして、「気がついて見ると、その顔顔の間で私は四つん這ひになつて、駄馬のやうに興奮しながら、なんにもない溝渠の周囲をぐるぐる這ひ廻つてゐた。」 ここが極まって怖いです。本当に怖いです。いつの間にか自分がその一部になっている怖さ!


「足」

「私の両肩には不可解な水死人の柩が、大盤石とのしかかつてゐる。」 出だしからぞくっとします。「不可解な水死人の柩」……。
「数人の亡者のやうな男が、取巻き或は担ぎ又は足を搦めてぶらさがり、何かボソボソ呟き合つては嬉しげにからから笑ひを散らした。」 柩を運んでいるという状況で、笑っている不気味さ。
「私は確に前進してゐる。しかるに私の足は後退してゐるのだ。後退してゐるに拘らず私の位置は矢張り前進してゐるのだ。」 まるで、水に流されているみたいじゃないか……と思いながら読みました。
「その時頭上で燃えあがる雲が再び私を転倒せしめた。」 ラスト、転倒で終わるのが不穏です。


「海」

「すると突然鳥の一羽が眠つた男をみつけると、一層羽音を高めてその眠つた男を強襲した。一羽二羽と続いた。」 読んでいてぎょっとした部分です。真っ白な白い塊が男を集中攻撃する、強烈なイメージが頭に浮かびました。
「羽までを赤く染めた鳥共が、再び一団となつた時、男の死骸は海底に斜めに下りて行つた。」 これも、頭に残って離れない光景です。羽が赤い以外何も変わらない鳥の一団、その色と海の青とのコントラスト、海底に沈んでいく男の死体……。


「誘ひ」

「その夜、私は桜の上の男が、悶絶しながら地上に墜落した夢を見た。翌朝、私はとるものも取敢へづ現場へ急行した。果たせるかな画布は昨日の姿勢のままで置かれてあつた。男の姿は遂ひに発見することが出来なかつた。が然し桜の根方に夥しい血滴がはじまつて、池の方に続いてゐた。」 この詩でも男が血を流して死ぬ……。早逝の予感があったのでしょうか。桜と男の儚さが重なっているようにも思われます。
「私は軽い暈ひと痙攣の後、心快い嗅覚をふり廻しながら、朧気に鍵盤を叩いてゐた。」 この部分をうまく説明できないのですが、それでも匂い立つような鮮やかな気の昂ぶりを感じて、印象的です。
「彼は二日二晩燐寸を擦り続けた。」 鍵盤をひたすら叩いていた、1の「私」に通じるものを感じます。
「彼の笑ひが完全に封じられた時、彼は彼の総身に笑ひを立てながら病院の窓から墜落して了つたのだ。」 この光景も、強烈に頭の中に残っています。彼の描き出す「墜落する男」、なんだかものすごく脳裏に刻まれるんですよね……。


「善戦」

「次いで早くも敵の触手は私の面上を掠めた。」 「失脚」の「海水が私の頭上で衝突するのを聴きながら。 」といい、「誘ひ」の「不審に思つてゐる私の頭上で、突然、桜の花びらが一散に落ちて来た。」といい、「私」のすぐ上で何かが起こること、多いですね。
「それから夢のやうな苦しみが肉体を刺しだした。」 夢が苦しい、というのが、わからないような、わからないような。不思議な比喩だなと思います。
「火のやうな太陽がカツカツと昇る。」 個人的に、このオノマトペの使い方が好きです。非常に規則的に、無慈悲に昇っている感じがします。軍的な雰囲気すらあります。
「続いてその時、一大亀裂が私を再び地上へ投げあげたのだ。」 実に映像的なフレーズです。ぽーんと投げられる体が、脳裏に浮かびました。


「死岩」

「私は彼の動かぬ姿の中から、動かぬ速力の激流を感じた。」 静の中に存在している動。死岩の形状をはっきりとイメージすることができませんが、概念としてはくっきりした存在だと思います。
「霧は起つて、私は遠くへ流されてしまつた。圏外。」 「圏外。」のぽつねんとした感じが好きです。本当に圏外にいるんだな、という感じがします。
「私にかくまで喰ひこんでゐる死岩の影から、何故逃げなければならないのか、足を固めなほすと、私は死岩に向つて颯爽と小手を翳した。あそこだ。」 なんだか爽やかな終わりに見えなくもないのですが、得も言われぬぞくぞくを覚えた終わり方でした。「死」の名前を冠するものに向かっているからでしょうか。


おわりに

 北川冬彦は、彼の詩について、

 かれの作品は、読者が見られるように底気味わるい。単に感覚が異常であるばかりではない。その作品は、どれも底知れない虚無の深淵をのぞかせているからである。
〔・・・・・・〕力学的構成の見事さは、そうザラに見られるものではない。これはイメージ主義の典型的作品と言つていいだろう。そして、これ位、散文詩の詩的機能を発揮した作品もめずらしい。

・・北川冬彦(1954)『現代詩Ⅲ』 角川書店  p192

 と書いています。自身が見る悪夢に例えたりもしましたが、そういう底の無い怖さが、彼の作品にはあるのだと思います。そしてそれが癖になると、これまた底から出られなくなってしまうのだと思います。

 千田光と、彼の詩の関係者に感謝を込めて。
 ご覧いただきありがとうございました!

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