オードリー・タン デジタル影響工作対策としてのデジタル民主主義
『オードリー・タン民主主義が語デジタル民主主義』(大野和基、NHK出版新書、2022年2月10日)を読んだ。台湾で行ったことが紹介されていて興味深かった。ただ、すごく根本的な疑問がわいてきた。
●本書の内容
本書は大野和基が台湾のデジタル担当大臣のオードリー・タンに複数回インタビューした内容をとりまとめたものである。オードリー・タンはすごく人気があるらしく、いろんな本が出ている。以前からオードリー・タンが民主主義をどのように定義しているのか関心があったので読んだけど、結局定義はなかった。どういうこと?
・SNSと台湾の政治プラットフォーム
SNSは同質の人間が集まる空間であり、冷静な議論には向いていないと本書では指摘されている。そのため市民が政治について自由に意見を表明できる独自のプラットフォーム(Join)を構築した。誰もが政策などについて電子請願でき、60日以内に5千人以上の市民が賛同すれば、政府は必ず議題に取り上げて、2か月以 内に担当部局がその検討結果を公表する。
Joinではコメントは賛成、反対、パス・不確定の3種類しかできないため、SNSでうざがらみしたり、本論と関係ない話題を振ったりできない。合意形成のための仕組みのため、このようになっている。
このプラットフォームを使って、16歳の女子校生がプラスチック製のストローの使用禁止を提案し、それが賛同を得て、実際の法律となった。民意を直接反映するための仕組みとして機能している。すべてのプロセスは透明化されるので市民からの信頼を得やすくなる。
なお、外交や防衛など総統権限に関することは請願できない。
・デジタル民主主義と代議制民主主義
オードリー・タンが進めているデジタル民主主義は既存の代議制民主主義を代替したり、強化したりするものではなく補完するものだという。当然、ブロードバンド接続は基本的人権のひとつとなる。
台湾には20ほどの言語と文化があり、これらすべてを排除しないインクルーシブな社会であるべきとオードリー・タンは考えている。
参加型民主主義では市民と政府の相互の信頼が重要となり、政府は市民を信じなければならない。官民よりも上位の存在である市民は、政府を信用する必要はない。
オープン・ガバメントはより多くの目でチェックすればプログラムのバグがなくなるように、政府のバグもなくなることになる。
・ファクトチェック、インフォデミック
コロナ対策およびファクトチェックについてもページが割かれている。ファクトチェックの仕組みの解説や台湾でメディアリテラシーとデジタルコンピテンシーを重要視していることなどを説明している。
●感想
噂通り、オードリー・タンは天才なのだな、と感じた。幅広い分野の最新の知見を取り込んで常に自分自身を更新し続け、周囲を刺激し、周囲から刺激を受け、進化している。ただ、幅広い分野の最新の知見をカバーしている一方で、根本的な課題を残しているような気がする。
・民主主義の定義はない
たとえば本書では、「民主主義」の定義あるいは目的について語られていない。全編を通してのオードリー・タンの実績や生い立ちなどが語られている。だからこの本を読むとオードリー・タンのことはよくわかる。やっていることの多くは目に見える範囲、手の届く範囲のことが多く、民主主義の定義や目的のような概念にはほとんど触れられていない。簡単に民主主義はテクノロジーであるという説明くらいで、そのテクノロジーをなんのために使うのかはよくわからない。ゴールとすべき社会や個人のあり方はわからない。
本書で説明されていることのほとんどは外部仕様であり、部分的に詳細まで説明されていることもある。その本来の機能や目的についての説明はない。もしかすると民主主義とは民意を政治に反映するツールというのが民主主義の定義なのかもしれないが、そうであるならそれとは別に政治にたずさわる者としてのビジョンが必要だ。そうでないと単に便利なツールを提供している人になってしまう。
この本はそもそもオードリー・タンの人となりを知るための本なのかもしれない。そうだとするとオードリー・タンの考える民主主義を知りたいというのは無茶振りだ。
・クリティカルな問題にほとんど触れていない
Joinの説明であげられた例には税制度や福祉などクリティカルな問題はなかった。同様にインフォデミックやディスインフォメーションでも、ファクトチェックやリテラシーやコンピテンシーといった解決の決め手にはならないものを中心に取り上げていた。クリティカルな問題を解決した事例はコロナ対応の諸策に限定される。
また、ジャーナリズムについても大手は信頼できる、調査報道はよいことという前提に立っているものの、その根拠は示されていない。報道に大きな偏りがあり、フェイクニュース以上に問題であるという指摘がある以上、ここは充分な根拠を示す必要がある。
・ここでいうデジタル民主主義とは雰囲気
デジタル民主主義は市民に参加している感覚を与え、政府への信頼を醸成するツールとしてはとても効果的だという感じがした。クリティカルな問題でなくてもJoinで実例がでれば市民感情はよくなる。
ディスインフォメーションなどのデジタル影響工作対策の有効なものはいまだに見つかっていないが、オードリー・タンのデジタル民主主義はデジタル影響工作対策として、とても有効かもしれない。クリティカルな問題に対処しなくても、政府に対する信頼を取り戻し、市民自身が参加している実感を与えることができ、それがデジタル影響工作がつけいる余地を狭める。そう考えると、やはりオードリー・タンは天才なのだなあとあらためて思う。
・こまごま
こまごま気になることは多々あるのだが、インタビュアーの誤解によるものである可能性もありそうなので、あまり突っ込まないようにしておく。
いちおういくつか例をあげておくと、
クアドラティック・ボーティングを推しているのだけど、社会的選択理論(メカニズムデザイン)では他の方法もあり、その比較についてはまったく触れられていないのでなぜ推すのか理由がわからない。
充分な数の目でチェックすればバグはなくなるというのはそうかもしれないが、現実的にはほぼすべてのシステムにはバグは存在しているので、「充分な数」というのは実現不能な数なのだろう。オープン・ガバメントのチェックに「充分な数」の市民の数が確保されているかは疑問。
利用者の個人情報を守るためにSMSでコードを送る方法を採用しているが、SS7の脆弱性によって直接デバイスやシステムにアクセスすることなく、SMSの内容を盗聴できるので個人情報漏れないか気になる。
アップルへの信頼への根拠が薄い。
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