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心を静かに ~聖なる瞬間、瞑想、坐禅


オンライン坐禅会

最近、「オンライン坐禅会」に参加しています。とってもいいですよ。

私の義兄が数年坐禅を続けていて、いわく
「なんでも『大宇宙につながる』らしいで。知らんけど」

だ、大宇宙ですか。
いいっすね。

それで私も「大宇宙」、じゃなくて「坐禅」と検索してみました。
そうしたら…たくさんあるんですね、一般の人でも参加できる坐禅の会。

日曜の早朝メインに、いまのところオンライン参加です。
いつか実際にも坐禅してみたい。

瞑想(メディテーション)

日本に昔からある「坐禅」ですが、これも「瞑想」に分類されると思います。
宗教的な要素の有無とか、作法とか…厳密に完全一致ではないのかもしれませんが。

いま、世界で注目されているという「瞑想(メディテーション)」。
その効果については、いろいろ言われています。
心が落ち着く。不安が減る。よく眠れるようになる。などなど。
「瞑想(メディテーション)」は、こうした効果そのものが目的なのかもしれません。

一方で「坐禅」は、心を静かにすることに重きが置かれているように感じます。

いわゆる「瞑想がもたらす良い効果」もまったく同様でしょうが、それはたぶん副次的。

私たちの心はおしゃべりでうつろいやすく、「勝手に」思考を生み出し続けるようにみえます。
なかなか自分でコントロールすることができません。

この心を、意識的に静かにする。
それじたいが「坐禅」の目的のように思えます。

聖なる瞬間

ところでACIMには、「聖なる瞬間」というテーマが登場します。

これが瞑想によく似ている、と感じる方もいるのでは。
私も同感です。

「聖なる瞬間」は、聖霊による時間の使い方で経験される時間です。
自我による時間の使用方法とはまったく異なる観点からの、時間の使い道。
ACIMによるとそういう定義です。

だからそれ、具体的にどういうこと?
抽象的でよくわからないんですけど。
っていうのはあると思いますが…。

ともかくこの「聖なる瞬間」を経験するためにも、やはり心が静かになっているのが大切だと思います。

ガチャガチャとうるさい心では、「聖なる瞬間」なんて体験できそうな気がしません。
この「直観」は、おそらく正しいでしょう。
静かな心のための訓練は、そのまま「聖なる瞬間」の実践にもつながるはずです。

ACIMは学習者に特定の瞑想法や精神修養は指示していませんが、「ワークブック」には瞑想の訓練的な面があると思います。特に後半に向かうにつれ、その傾向は顕著です。

いずれにせよ、自主的になんらかの心を静める実践・訓練を継続している方もいることでしょう。

自我の観点

さて、ここで、FIP版(☆)ではないACIMに収録されている「瞑想」に関する興味深い一節を紹介します。
(☆)邦題「奇跡講座」「奇跡のコース」など

あなたがたは、自分のなかに聖霊を探すという誤りを犯してきた。
だから瞑想の際に恐れが生じたのだ。
自我の観点を受け入れ、自我を導き手にして、自我にとってまったく未知の航路に乗り出してしまった。
これでは恐れが生じることが避けられない

You have made the mistake of looking for the Holy Spirit in yourselves, and  that is why your meditation have frightened you. By adopting the ego's viewpoint, you undertook an ego-alien journey with the ego as guide. This bound to produce fear.

Helen's Note
日本語訳は筆者
(太字は原文から)

FIP版ACIMテキスト5章Ⅲ4に、
「聖霊を自分の内面のみに探そうとする誤り」を主眼に
編集され収録されている個所です

あなたの「外側」を探すことに意味はない。
ACIMに登場する、印象的な表現です。

それなら、「自分のなか」を探究すればいいわけね。
おっと合点承知の助ですよ。
「すべては自分のなかにある」ってこと。

しかして…その結末は。

瞑想にせよ何にせよ、私たちが自分のみのためになにかを行おうとするーつまりそう意図すると、最後は必ず恐れに行き着いてしまうのです。

自分だけのため。
自分ひとりの内面。

この個人的な視点が、「自我の観点」です。
この観点からの探究や探索は、当然ながら「自我を導き手にする」ことになる。

しかもその探索がACIMの考える「聖霊」のようなものをめざしている場合、それは自我にとってまったく「未知」の領域です。
自我には、聖霊を知ることはおろか理解すらできないのですから。

これではなんの経験もない、地図さえもたない相手に、異国の道案内を任せるようなものだーACIMはそう語ります。

全体として、なかなか衝撃的な説です。

導き手を選ぶ

上の引用文を見ると、「自我を導き手に選択したことから恐れが生じた」と読めます。
それならば、自我ではなく聖霊を導き手にすれば、恐れを経験せずに済むはず。

どうやらそのとおりのようです。
ACIMによれば、こういうハナシですから…

「聖霊を導き手に選択すること」=「自分のためだけに意図しない」
これが文字通りの「イコール」


たとえば「時間」に関してなら、自我による時間の使い道ではなく、「聖なる瞬間」という聖霊の使い道があります。
この世界のものには、なんにでも「自我の使い道」と「聖霊の使い道」がある。

そう聞くと、
「やっぱり時間を使う具体的な内容、方法が大事だろうなぁ」
そう考えたくなります。

時間を「どう」使うか。つまり、「その時間で、なにをするか」。要はそれがポイント。
…なんでしょ?

いや。どうやら、そういうハナシじゃないようで。
使用目的(意図)が、重要のようです。

自分だけのために、使うのか。
あなたのために捧げるのか。

それとも…双方のための、共有される目的があるとまず考えるか。

この実践者の「意図(意志)」。
それがポイントになる。

この意図(意志)に関わる決断が、使用目的を決定づけます。
その結果として、実践者は「導き手を選ぶ」のです。

これはたしかに、物質レベルではない。
抽象レベル(形而上)の次元での話。
焦点は、「心のレベル」です。

「外野」がうるさい

こういう話は、心が静かでないと耳に入りません。
理解する以前に、ほんとうに、全然耳に入らない。

「なにそれ?わけわかんない」
それ以前に、完全無視のスルーになる可能性があります。

自分がこれまでに”学んで”きたことが「外野の声」になって、心のなかでやかましくがなり立てます。
(ACIMがいう「自我の声」「過去の学び」ってやつですね。)

「世の中の常識」と一致していたりすると、この「外野」はがぜん勢いを増してくる。
それがまるで、「自分の心の声」のような錯覚に陥ることも…

この騒音をかいくぐってACIMが語りかけるようなことを聞き取ろうとするのは、容易ではありません。

だからこそ、こうした「外野の声」を静めて、心を静かにする訓練はとても大切だと思っています。


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