私とAIと漢字練習帳が居るね
例えば、捨てる前に窓際に並べた空き缶やペットボトルに日が当たり、色のついた木漏れ日の様になること。
窓から吹き込んだ風で、壁にもたれ掛かる空き缶を直さずにそのままにしておく事、そしてその角度を覚えておくこと
忘れ物をして急いで戻り、玄関で脱ぎ捨てた靴が天気を予想していたこと。
現AI時代において、グラフ等を使った人間性の可視化はさらに台頭し、分析が頻繁に行われているが、その一方でAIと人間の差別化(区別)も図っていかなければならないとは、なんとも難しい世の中である。
このまま、人間性を考える際にAIが煽動を取って行くようであれば、S F小説のように「人間関係」というものは人同士の関係でなく、個人個人の環境となって行くのかもしれない。
さて、人間性の可視化について私は昔から考えている事がある。何故昔から考えているのかと言えば、人間性について聞くのも聞かれるのも嫌いだし、数値化や心理テストによる分析なども嫌いだからだ。端的に言えば、一部を切り取って中途半端に単純化を図ろうとすることが、人間性を理解していく(する)こととは最も遠いことに思えていたからだ。
しかし。どうしてもそういう場面には出くわしてしまう。辛酸を舐め、何か、漠然とでも、しかし中途半端に単純化せずに可視化して伝えることのできるものはないのかといつも考えていた。
そこで思いついたのが、漢字練習帳である。
小学生の時に嫌という程同じ字を書かされたアレである。同じ漢字を何ページも丸々書いていることもザラにある。
面接官「あなたの人間性を教えて下さい」
私「この漢字練習帳を見て下さい。何ページに渡って書かれた同じ漢字があります。この漢字のそれぞれの微妙な差異の連なり。これが私の人間性です」
セリフとして説明して見たが、これは伝わるだろうか。伝わったらいい。勿論実際にはやったことはないのだが、私は人間性の可視化というものはこういったものだと思っている。
明確な間違い(単純化した善悪)や、字面(見た目)の綺麗さ、汚さ、よりも、恐らくは無意識も混ざっているであろう同じ字(日々)を書くことを繰り返す中で出てきた見逃してしまいそうなとても小さな差異の連続。その差異自身は決して単純化されず地層の様に残り、根幹へと繋がっている。
ちょっと綺麗すぎるこじつけに、恥ずかしくも思えるが、しかし私はそういったとても些細な部分の方が「人間性」と呼ぶに相応しいと思っているのだ。
何より、将来的に「数字やグラフが沢山書かれた書類」「大量の1問1答」等をもってしてAIによって結ばれる人間関係を持つよりも、下手な字の漢字練習帳でも見せあっている人間関係の方が良いなってこと。
でもAIとも仲良くなりたいと思う日々。
まぁ私はそんな人間性さ。
2024年1月14日 一井重点
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