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ルーブル美術館展

今回はルーブル美術館展に行ってきた話

2023.6.5
母と父の愛が形になって生まれた日。
またの名をわたしの誕生日という。

愛していると好きって何が違うんだろう。
大切にしているのと好きでいるのは違うのかな。私が時たまに思う「大切だけど好きじゃない」「愛しているけど好きじゃない」ってこれはどういう類いに含まれるのだろう。好きよりの嫌いなのか、嫌いよりの好きなのか、そういう風に思うことが増えたので私が生まれた日に愛とはなにか考えたくなって、そんな時に愛をテーマにしたルーブル美術館展が開催されていると知って、これも何かの縁だと行ってみることにした。

結論から言うと(私が感じた結果)、神が言うには無防備な寝顔を見ることこそ最上級の愛とされていたのに、人間の欲望が発達するにあたりキス、セックス、暴力、略奪、犠牲、赦すこと、と愛の表現が増えたらしいんですが、唯一愛じゃないのは見返りを求めることだよ。とのこと。

昔は無防備=心を許してる、という意味だったみたいなので(今よりも狩りが一般的だったしね)、無防備になって寝顔を見せるのと、見ることが愛なの確かになぁと思う。大切な人の寝顔っていいよね。愛おしくなるよね。

人類で初めてキスという行為をされた時の女の人の表情の絵があったんだけど、戸惑いつつもどこか嬉しそうな微笑みがとても素敵だった。
好きという気持ちが溢れて唇を相手に重ねる表現ってどういう気持ちで、どうしてそれを愛の表現としたんだろう。って気になるよね。

そしてキスからセックスに愛の表現が膨らんでいって、その先に出てきたのが暴力とか支配、略奪になるわけですが、キスやセックスが嫉妬や独占欲に繋がるの人間味を感じて好きです。男の人は暴力、力を使って無理やり奪って、女の人は身体、言葉を使って誘惑して、欲しいものに対して支配や略奪をしていたみたいです。愛があるなら暴力も支配も略奪も肯定される世界。ただそんなことしてまでも欲しくて、手に入れたい愛があることが少し羨ましいなと思った。

DVとかモラハラがいつまで経ってもなくならないのは、それも愛だと神が造ってしまったゆえの結末なのかと思うと少し腑に落ちてしまうなぁ。

ここから”赦すこと”の愛、主に親子愛が出てくるんだけど、家族の誰かが悪いことをしても自分だけは赦してあげる。なにがあっても味方でいてあげる。そして犠牲の愛が生まれる。息子イエスが十字架に磔られることによって人類の幸せのためならと母マリアは受け入れた。これも愛。私は赦せるのかな。受け入れられるのかな。

観にいってもわからなかった。

愛って難しい。
誰かを愛すって重いな。
責任感がすごい。
私があなたを愛していいのかな。
あなたに愛されるほど私に価値があるのかな。

とかたくさん考えちゃった。

余計にわからなくなっちゃった。

いつかわかるといいな。

少しずつとわかっていけたらいいな。

皆様が思う愛も教えてください^_^


それでは皆様良い夢を。

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