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「麒麟がくる」・駒ちゃんはどうしてカッコいいのか。

こんにちは。氷です。
毎度テーマの振れ幅が大きすぎるのは承知していますが、今回は今年の大河ドラマ「麒麟がくる」をアツく語る回にしたいと思います。
ということで、歴史好き、集まれーっ!

前書き

2020年大河ドラマ「麒麟がくる」。
本能寺の変で織田信長を討った戦国武将・明智光秀が主人公です。
今なお謎の多い彼の生涯を追いながら、ドラマはいよいよ佳境に入ってきています。最終回は来年2月7日。
今年はあれやこれや色々ハプニングの多かった年なので、なんだか感慨深いですね。。

まあ、それは置いておいて。
今回私が注目するのは、光秀を取り巻く女性たちです。
'History'が'his story'を語源とすると言われるように、歴史の中で女性たちはどうしても「脇役」に立たされがちでした。

しかし、今は誰もが主人公になれる時代。この時代において、「昔の女性たちをどう描くのか」は大河ドラマにとって重要なテーマになっています。

史実がどうであったにせよ、ドラマはフィクションたるゆえに「今この時代につくられる意味」をきちんとわきまえていなくてはならない。そう、私は考えているのです。

ではでは、しばしの間独断と偏見にまみれた私の大河ドラマトークにお付き合いくださいね。

駒ちゃんは「ただのオリジナルキャラクター」なのか問題

2019年ぐらいだったでしょうか、「麒麟がくる」情報が続々と解禁され始めていた頃、オリジナルキャラクターの登場が話題になっていましたよね。

医師の東庵先生、戦災孤児の駒ちゃん、後々徳川の忍びだと発覚する菊丸、旅芸人の一座を率いる伊呂波太夫。

発表当時の私は「え、何の意図があるんだろう?庶民の生活にもフォーカスする的な当たり障りのない演出になるのかな?」などと考えていましたが、ドラマの大半が放映された今では「結局めちゃめちゃストーリーに絡んできたな」と実感しています。

そんなキャラたちの中でも、駒ちゃんは光秀の妻・煕子さまや光秀の幼馴染・帰蝶Pを差し置いてドラマのヒロイン枠で登場します。
他の女性たちもヒロインを張るに十分すぎる魅力がありましたが、なぜ駒ちゃんなのでしょう。

脚本の意図を見抜くことができるわけではないのですが、今では駒ちゃんというキャラクターをとても気に入ってしまった私なので、ここで駒ちゃんにぐっとフォーカスして「なぜ駒ちゃんなのか」を考えてみたいと思います。

駒ちゃんのヒミツ

戦災孤児だった駒ちゃん。
若い頃、光秀に恋心を抱いていた駒ちゃん。
将軍・足利義昭と深い仲になる駒ちゃん。

ここまでの流れって、意外と大河ドラマのオリジナルキャラ設定として目新しさはあまりないんですよね。

でも、ずっとドラマを追っていた人ならわかるはずです。
駒ちゃんが「戦のない時代」を語る時、すごく強い眼をしていることを。
「戦などなくなればいい」と語る人物はこれこそあるあるなのですが、駒ちゃんの言葉はただの「弱き者の叫び」で終わらない説得力があります。

なぜなのでしょうか。

ここで活きてくると私が考えるのが、「薬」製造者としての駒ちゃんです。

【ドラマ内の設定】
戦災孤児で医者の東庵先生に拾われた駒ちゃんは医療を身につけます。戦災孤児という身の上である以上、「手に職」は逃れられない道であったのかもしれません。そして大人になった彼女は丸薬の大ヒットを飛ばしました。「貧しい人を助けたい」という願いで作っている以上値段は高くないようですが、それでも彼女の元には着々とお金が溜まっていくんですよね。博打に使おうとする東庵先生とプチバトルしながら。

私は、この設定には二つの意味があると考えています。(もっとあるかも?)

医療という飛び道具(!?)

一つには、彼女は「医療従事者」という身分階層から逸脱した存在であり、戦で傷ついた人を実際に癒すことができる存在であるという性質です。

東庵先生が各所に食い込んでいるように、医療従事者はある程度身分から、さらには土地からも自由なんです。(もちろん光秀との結婚は、光秀の所属する武家社会側のルールに反するので絶対に無理ですが)。駒ちゃんがもし農民の娘だったら、ドラマのようにあっちこっち旅に出たりお偉いさんにお目通りしたりということの難易度は爆上がりしていたでしょう。

「下克上」なんて言いながら天皇ー(寺社・公家はこの辺に入ろうと頑張っている)ー将軍ー武士ー庶民(農民・漁民)という身分秩序が戦国時代にはバッチリ意識されていたことは、ドラマの中でも何度も描かれていましたね。駒ちゃんはそんな壁をひょいっと乗り越えていく、そこに彼女がオリジナルキャラクターでなければならなかった一つの意味があるのではないでしょうか。付け加えると、伊呂波太夫が芸能者であることもこれと似たような性質を秘めています。

また、病気の人や怪我をしている人を実際に救うことができること、これは「戦をなくすために戦を続けなければならない」光秀のジレンマと呼応し、物語に新たな軸を作っています。その軸を担ぐんだからヒロインでいいだろう、という認識もあるのかもしれませんね。

カネを握っているパワー

そして二つ目の意味は、生々しく言えば「カネ」を持っているということです。

お金を生む丸薬と、丸薬で儲けたお金はなかなかに大きなものであると思われる中で、駒ちゃんは要所要所でその丸薬もお金も使っていくんです。
将軍に救貧院的なものを作ろうと提案し、「しかし、金がかかるのだ」と言われれば自分で資金の用意はバッチリ。今井宗久との交渉のカードに自分の丸薬を持ち出してくるところもありました。旧知の伊呂波太夫にさえ、頼み事をしたらきちんとお金で対価を支払っている場面が。

大河ドラマのヒロインは「戦をなくしたい」というイメージを残す役割を託されることが多いですが、駒ちゃんはそれを自分でできてしまいそうなところにカッコ良さがあります。自分にできないことがあったとしても、自分の持っているお金や道具でしっかり交渉をまとめようとするのです。

ドラマ内では伊呂波太夫もお金を貯めて帝のために使おうとしているし、そう考えると女性たちに(帝や将軍よりも、、?)お金を握らせているという威力は凄まじいものがありますね。
この時代は「豪商」と呼ばれる商人が多く台頭していた時代でもありますが、身分秩序に対抗できるもう一つのパワーが「カネ」だったと言っても過言ではないかもしれません。

「恋愛枠」から飛び出せるか

そして最後のトピックです。
若い頃光秀に恋していた駒ちゃんは、その後も折に触れて光秀を手助けするのですが、それは光秀に恋心が残っていたからなのでしょうか。

私は違うと思いました。
なぜなら駒ちゃんが将軍に乗り換えているからです。
将軍・足利義昭に本当に恋していたのかは別として、いわゆる「側室」的ポジションに一時期はおさまっていましたね。

それならば、光秀への手助けは親愛や信頼の情から来ていると考えるのが妥当です。(助けるばかりでなく、自分が困ったときは助けを求めていますし。)

だから、「麒麟がくる」は恋愛要素もありながら、恋愛というジャンルからは自由になっているドラマなのではないかと私には思えるのです。
あれほど駒ちゃんの恋心に感情移入することを視聴者に要求しながら駒ちゃん自身が足利義昭に乗り換えてしまっているし、結局追放された将軍にもついていかずに引き続き京で薬屋をやっているように、駒ちゃんはGoing my wayなのです。「恋に一途であるべき」なんていう価値観には微動だにしません。
(たまに視聴者の私には脈絡がわからなくなる時もあるけれど…)

そもそも恋だの愛だのという概念は戦国時代にはあまり意識されていなかったでしょうし、今までの大河ドラマが反映してきたその時々の恋愛への価値観からは「麒麟がくる」が反しているというだけの話です。

今まで述べてきたように駒ちゃんは「身分を超えて時代を動かす」役割を与えられているような節が多いので、大河ドラマの女性をロマンスの場面のためだけに使うのは、もう時代遅れなのかもしれませんね。

近年の大河ドラマをみると、「真田丸」ではキリちゃんが真田幸村を一途に想い続けていたり、「おんな城主直虎」では主人公のおとわの行動基準には常に男性の影があったりと、ヒロインの動機が恋心である場合が多いような気がするのです。
こんな恋愛脳な女性は今も当時もこんなにいるか!?と突っ込んでしまいそうなくらい。

もちろん大河ドラマから「胸キュン」や「癒し」をなくした方がいいとは全く思わないのですが、それだけのために女性を使われるのはもううんざりだなあ、、と思ってしまいます。

大切な人を失っても嘆くだけ、泣いてすがるだけの女性ではなく、自分の力で自分のやりたいことを切り開いていける、戦だって止めようとできるという駒ちゃんのパワフルさが、私に元気をくれていたように思います。

そんな彼女に「自分が主人公だ」という気概を勝手に見出して、私は彼女を好きになってしまったのかもしれません。

後書き

「麒麟がくる」は群像劇とも言われるのですが、本当に「誰もが主役」になれるってこんなに勇気づけられるものなんだなあ、と実感しています。

このnoteを書いている段階ではあと2回分未放映なのですが、「果たして本能寺の変はどのように描かれるのか!?」「麒麟はくるのか!?」と謎に緊張している筆者です。その中で駒ちゃんがどのような働きをするのかにも要注目ですね。

それでは「麒麟がくる」最終回まで駆け抜けましょう!!!


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