私たちが不可逆だから、時間が存在する。
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坂本裕二さんの脚本、「カルテット」第1話にはこんなやり取りが見られる。
諭高「そのこと(と、深く頷き)別府くん、唐揚げは洗える?」
司「洗えません」
諭高「レモンするってことはね、不可逆なんだよ」
司「ふかぎゃく」
諭高「二度と元には戻れないの」
司「すいません。かけますかって、聞けば良かったんですね」
真紀・諭高「(うーん、という顔をする)」
司「違うんですか?」
そんで、物語終盤あたりにこんなやり取りがある。
すずめ「過去とか(と、首を振り)、そんなのなくても一緒に音楽やれたし。道で演奏したら楽しかったでしょ?」
真紀「(小さく頷く)」
すずめ「真紀さんは奏者でしょ。音楽は戻らないよ。前に進むだけだよ。(胸を押さえ)一緒。心が動いたら前に進む。好きになった時、人って過去から前に進む」
真紀「(うん)」
すずめ「わたしは真紀さんが好き。今、信じて欲しいか、信じて欲しくないか、それだけ言って?」
レモンも音楽も、不可逆であるということ。
もう半年ほど前だからあんまり覚えてないけどカルロ・ロヴェッリという物理学者の「時間は存在しない」という本を読んだ。
物理学にも哲学にも造詣が皆無人間なので理解が及んでないのが実情ではありますが「時間は平等に与えられている」は嘘だろうと生きている中で思う。
時間は存在しない。
時間は、私たちが絶えず変化しているから流れているように見えてるのか。
もしみんなが不老不死になり、有機物が腐ることのない世界が訪れたら、それでも私たちは時間を認識することができるのか。
私は物心ついた時には「時間」という概念を認識させられていた人間なので、むしろ可逆性のあるものなんてないんじゃないかと思ってしまう。
例えば生卵を茹でたら「ゆで卵」になってしまってもうそのゆで卵は永遠に「生卵」には戻れない、というのが不可逆。
対してスポンジは水を吸ってしぼんでも水が蒸発すればまた乾いたスポンジに戻るから可逆。
なんだけど、1回水を吸ったスポンジは、完全に乾いたとしてもすでに「一度水に濡れることを経験してしまったスポンジ」な訳で、完全新ピカなスポンジと水に濡れた過去を背負ってしまったスポンジは別物なんじゃないかと思ってしまう。(例え状態として全く同じに戻れたとしても)
だから全てのものは諸行無常で、それ限りで、一度過ぎてしまったら元には戻れないもので、、
と思うんだけど、「時間は存在しない」を読んで、それは私が「時間が一方通行に流れている」という概念を持ってしまっているからそう思ってしまうのかなとも思った。
「時間」を当たり前のものとして認識してしまっている以上、それを取り除いて考えることが非常に難しいわけなんだが、時間が絶対的に存在するものではなく、人間の主観が作り上げているものなのかなとは考えられるようになってきた。
よく「過去は美化される」というけど(言うのかな?)、それは私たちが不可逆で、過去はもう過ぎてしまったものだから戻れはしないもので、だから過去の出来事が脳内でいい出来事として認識されると言うよりは「現在」のことではなく「過去」だから、「過去」という、それそのものが美しいから、なんて言うんだろう、しょうがないよね、美化されるというよりは過去になることで美しくなってしまっている、と思う。
もう手に入れられないもの、戻ってこれないものは、不可逆な私たちにとってとても美しいものなんだと思う。
だからこそ「老い」とか「死」とか、不可逆の先を見つめて進みたくなくなる時もあるだろうけど、それこそ「前に進むだけ」なんだろうね。
時間は残酷に進み続けていくものじゃなくて、私たちの認識の中で勝手に流れてるものだと思うと、私たちはもっと自由だなあと思う。
時計とかカレンダーに沿って流れているわけじゃなくて、私たちは早く進むこともできるし、立ち止まることもできる。
今まで何かに集中したり、逆に何もせずにいたりするときに時間が過ぎていってしまうことをけっこう恐ろしいことだと感じてたけど、自分の周りで時間がどんなに流れてようとも自分の中の時間は自分が変化することによって進む。
そう考えると、時間も残酷に流れていくものではないんだなあと思えるようになった。
まとまらなくなってきたのでこの辺で。