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人は思い出をどう刻む? ボルタンスキー展で考えた

仕事前の朝の時間を有効活用して、
開館時間に合わせて新国立美術館で開催中のクリスチャン・ボルタンスキー展を観に行ってきました。

私は美術を体系的に学んだことがなく、ボルタンスキーに詳しいわけでもないのですが、彼の集大成ともいえる回顧展で、しかもテーマが「Lifetime」となると、アーティストとして生きてきた彼が、誰もが向き合う「生と死」というテーマをどう表現するのか?にとても興味が湧きました。

展示エリアにはこれまでの彼の代表作が六本木の会場に合わせて新たな手法で展示され、そこには白、黒、青を中心とした静かな世界が広がっていました。

そして、順路を進みながら展覧会全体がまとっている音や風、そして空気というかatmosphereを身体中に吸い込みました。

私は日頃、光の強さや色、においで、ある時の出来事を記憶しているな、と感じることがあります。似たような音や、においを感じ取った時、ある時の記憶の引き出しが開く瞬間があるというか。。。

それは明文化されたものではなく、より感覚的な記憶です。

おそらく人は視覚、聴覚、嗅覚など「感覚」を総動員してある記憶を自分の身体に刻もうとするのでは、と思うのですが、とかく美術系の展覧会は視覚情報からのみ、情報を受け取ることが多いです。

でも、今回のボルタンスキーの作品たちは、視覚だけではなく、日常的な体験により近い形で、色々な感覚に訴えかけてきました。そしてその複数の構成要素が、自分の中で過去の記憶と結実し、新しい強烈な記憶となって自分の中に刻まれていく、という実感がありました。

展覧会場の中でも日常生活と同じように五感を働かせ続けることを要求される。
結果、生活の中で体験した物事の記憶と展覧会の記憶が渾然一体としていく。

そして、自分の中にすでに刻まれた大切な誰かの死の記憶や、新しい命に出会った瞬間の記憶とシンクロし、混ぜ合わさって1つの記憶となる。

そんな不思議な体験をしたのでした。

暗闇で強い光を放つ入口と出口に置かれた「出発」と「到着」を告げるネオンサイン。

そのネオンサインは自分の生活空間と展示会場の境界線を明示しているようなのに、
実際は自分のLifetimeの年表の中に展示作品が組み込まれ、新たな記憶を生成していくような、体験。
そして、展覧会のゴールである到着に至った時、自分の中の何かが変わったような感覚になっている。。

私が感じたこの感覚、観に行った他のどなたかも感じていたりしますか?

会期は9月2日まで。
お時間ある方は是非。

アイスクリップでした


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