『伝説の編集者 坂本一亀とその時代』田邊園子

福永武彦『秋風日記』に坂本一亀の名前がちらっと出てきたので、積んでいたこの本を読んでみた。

若い頃高橋和巳を熱心に読んでいたので、坂本一亀の名前も何度か耳にはしていたけれど、よく知らなかったので興味深く読んだ。

日本の戦後文学に関する貴重な証言集でもあるけれど、作家の裏話的エピソードが散りばめられているところが愉しく読めた。

たとえば―

『エホバの顔を避けて』でデビューした丸谷才一について、林達夫が「日本でもああいう作品が出版される時代がきたのですね」と評した

とか

坂本一亀に小田実を推薦したのは中村真一郎だった

とか

高橋和巳『悲の器』が文藝賞を受賞した時、選考委員の中で中村真一郎だけが消極的だった

とか

野間宏の『青年の環』が分厚い全四巻になり重戦車四台と揶揄?されていると聞いた三島由紀夫が、自身の「豊穣の海」を「野間さんが重戦車四台なら、僕はスポーツカー四台だ」と嘯いた(実際には『青年の環』は五巻になったそうな)

とか

そういうところはとても面白いんだけれど、全体にどうももう一つ食い足りないのは、タイトルにもある“その時代”、その時代の空気感のようなものが少し希薄に感じられるところ。日本の戦後文学が醸し出していた、あの過剰な泥臭さが、どうもこの著者の文章を通すと少し薄まってしまうように感じる。

当事者たちの証言も多く引用されていて、坂本自身の強烈な個性と、それとぶつかりあった作家たちの姿もよく描かれているのだけれど、どこか膜を一枚通したようなもどかしさ。

著者は坂本の部下としてしごかれ、野間が『青年の環』を書き上げるのに伴走した編集者でもあり、決して坂本一亀とその周辺の空気を知らないわけでもないのだろうけれど、記述の全体からうっすらとした距離感を感じてしまうのは何故だろうか。


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