辻邦生『黄金の時刻の滴り』
夢中で読んできた小説家や詩人の生きた時に分け入り、その一人一人の心を創作へと突き動かし、ときに重苦しい沈黙を余儀なくさせてきた思いの根源に迫る十二の物語。それは「黄金の時刻」である現在を生きる喜びを喚起し、あるいは冥府へと下降していく作家の姿を描き出す。永遠の美の探求者が研き上げた典雅な文体で紡ぎ出す、瑞々しい詩情のほとばしる傑作小説集。
「もう一度、生きているこの人生のさなかから、何か〈物語〉に生命を吹き込む〈詩〉を掴みとる」(「あとがき」)という試み。
物語が、単なるストーリーに堕せず、人生をかけた一瞬の光芒として輝くその瞬間の美しさ。一篇一篇が短いがゆえに、その刹那の光の美しさも目映くて濃い。
12人の作家を取り上げて、その作家らしいフィクショナルなエピソードなども交えながら、その作家が物語に魂を注ぎ込む姿を描いて、小手先の細工に堕さないさすがの筆捌き。
下手を打てば、取り上げた作家の名前に乗っかって、少し気の利いた物語ていどで終わってしまいそうなものだけれど、円熟期の辻邦生らしいコクのある作品集に仕上がっていて、読み始めたらやめられない。
もともと男と女の愛には、生と死と同じように、人間にはどうすることもできない力が働いているのです。そしてそこには、生と死同様の危険と不確実が伴なうものなのです。恋をするとは、安全地帯で抱擁することではありません。その逆なのです。恋をした男と女は、恋をした次の瞬間から、もういつ別れるか知れないという崖っぷちで生きることになるんです。