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野又穣 - 僕の好きな藝術家たち vol.10

好きな藝術家について書きたいように書いてみるシリーズ。その藝術家についてのバイオグラフィとか美術史的意義とか作品一覧とかはインターネットで他のページを参照してください。


今年(2023年)、オペラシティーアートギャラリーで開催された大規模な展覧会を観るまで、野又穫については全く知らなかった。

チラシやネットで観た野又の絵は、少しロマンティシズムに過ぎるように感じて(どこかジブリ作品を彷彿させるような)、観に行くか迷った展覧会だったけれど、不思議な流れで足を運ぶこととなり、そこで観た野又の絵は、事前にイメージしていものとは全く異なるテイストのものだった。

ロマンティシズムやリリシズムは確かにある。確かにあるんだけれど、それに溺れないように抑制する知性のほうが強かった。

とても知的で批評的な作品だと感じたけれど、では野又の作品は何を批評しているのか。

それは我々が意識的にであれ無意識にであれ囚われ依存している共同性だと言える。

野又の絵にノスタルジックな味わいを感じる観方はおそらく少なからぬ鑑賞者に共通のもので、例えば大手美術系メディアは、「野又穫の描く未来はなぜこんなにも懐かしいのか。」というタイトルの展覧会レビューを掲載した。(https://bijutsutecho.com/magazine/news/report/27475)

このレビューは目配りの良く効いたレビューだと思うのだけれど、自らタイトルに掲げた「野又穫の描く未来はなぜこんなにも懐かしいのか。」という問いに答えていないように思える。少なくとも僕には、読み取れなかった。

不思議な感じもするけれど、僕がよく分かっていないだけで、展覧会レビューというのはそういうものなのかもしれない。

それに何より、その問いに共感した鑑賞者一人ひとりが、その答えを自分で見出すプロセスこそが、鑑賞するということなんだろうとも思う。

何故野又の絵は懐かしさを想起させるのか。僕なりにその答えを言語化してみる。

野又の描く風景には、社会やコミュニティという共同性が、自明のものではなく、謂わば異化された形で刻まれている。

共同性を自明なものとして透明に描いてしまうのは、ナショナリズムをノスタルジーで味付けしてしまう危険性を孕むけれど、野又の作品はそういう共同生の自明さというイデオロギーを、透明にではなく炙り出す。

だから野又の作品には、既視感めいた懐かしさと、にも関わらずそれをのりこえるような違和感や疎外感とが、感じられる。

そういった批評性が、野又を凡百な近未来像イラストレーターから厳しく峻別している。

オペラシティーの展覧会は非常に充実したもので、リアルに体験できて本当に良かった。また何処かで野又穫の作品に出逢えるのを楽しみにしている。

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