乙川優三郎『立秋』
『ロゴスの市』以降、『二十五年後の読書』『この地上において私たちを満足させるもの』『潜熱』『地先』『クニオ・バンプールセン』と、作家もしくは言葉に携わる者たちの生き様を描いてきた乙川優三郎の新作もまた、主人公はものを書く男。
その男と道ならぬ関係になる女は、漆器を作る職人とくれば、乙川さんお得意の、工藝と文藝とが交錯する豊穣な世界…かと期待して読み始めたが、読み進めるにつれて、何だかこれまでの乙川さんとは違うなという違和の想いが強まってゆく。
“死は確実に近づいている。美しい散文を生まねばならない。”とは、『潜熱』帯のコピーだが、これまでの作品には、書くこと、言葉を磨くことに執着する男の、静かだけれども激しい情念の迸りがあった。
しかし今作では、主人公は小説を書いてはいるのだけれど、言葉と格闘して呻吟するような場面はあまり印象に残らない。そういう描写がないわけではないけれど、どこかあっさりと醒めた感じ。
主人公は親の事業を継いで金には困らない暮らしをしている。妻も子もいるが他の女にポルシェを買ってやる。妻を裏切っていることへの罪悪感もなにもない。
なぜ、と思う。
後半で乙川さんは、そんな読者の違和を見透かしたようにこう綴っている。
果たして、不倫相手の女に車を買い与えることを“金持ちの傲岸”と読むのは、読み手の側の問題だけなのだろうか?
つい数年前にこう書いた作家の、最新作における苛立ちと諦念の深さに、戸惑わされる。
主人公の、ヒロインとの距離の取り方もなかなかのもので、この二人の関係を恋愛と言えるのか。“大人の恋愛小説の極北”というコピーも、読み終えてみると些か看板に偽りありという感。
書くことにも、生きることにも、愛することにも執着しない、そんな人物を描いている作品と読めた。
乙川さんにとっては、時代小説と訣別した時(『脊梁山脈』)以来の、大きな転換点となる作品なのかもしれない。