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乙川優三郎『立秋』

匂い立つ情感、大人の恋愛小説の極北

諏訪湖の花火大会の日、光岡は駅に降り立った。漆工の涼子とのつきあいは十年以上になる。二人の生が交差したきっかけは、漆器だった。シンプルで控えめな佇まいと、官能的とも思える光沢に魅かれ、光岡は盛器を購入。伝統工芸展の入賞作品であった。
そして、精神の疲れをいやす旅で、塩尻・奈良井に赴き、光岡は漆器店で作者の涼子と出会う。若い涼子の漆器創作に刺激を受け、彼は、かつて文学賞を受賞したものの、挫折していた小説執筆を再開した。
以来、二人は造形や執筆の傍ら、時に二人で憩いつつ、深い想いを育んできた。
やがて、涼子は漆芸作家として、パリで開催される漆器二人展に招聘される。もう一人は、沈金や蒔絵の輪島塗りの男性作家だという。成功したパリの二人展を契機に、光岡は人生の秋期を意識するが……。

『ロゴスの市』以降、『二十五年後の読書』『この地上において私たちを満足させるもの』『潜熱』『地先』『クニオ・バンプールセン』と、作家もしくは言葉に携わる者たちの生き様を描いてきた乙川優三郎の新作もまた、主人公はものを書く男。

その男と道ならぬ関係になる女は、漆器を作る職人とくれば、乙川さんお得意の、工藝と文藝とが交錯する豊穣な世界…かと期待して読み始めたが、読み進めるにつれて、何だかこれまでの乙川さんとは違うなという違和の想いが強まってゆく。

“死は確実に近づいている。美しい散文を生まねばならない。”とは、『潜熱』帯のコピーだが、これまでの作品には、書くこと、言葉を磨くことに執着する男の、静かだけれども激しい情念の迸りがあった。

しかし今作では、主人公は小説を書いてはいるのだけれど、言葉と格闘して呻吟するような場面はあまり印象に残らない。そういう描写がないわけではないけれど、どこかあっさりと醒めた感じ。

主人公は親の事業を継いで金には困らない暮らしをしている。妻も子もいるが他の女にポルシェを買ってやる。妻を裏切っていることへの罪悪感もなにもない。

なぜ、と思う。

後半で乙川さんは、そんな読者の違和を見透かしたようにこう綴っている。

自身の経験をもとに物語を紡ぐと、豆腐一丁の値段も知らないくせにと のたまう人がいるが、豆腐はもとより特売のモヤシの値も彼は知っていた。それと夜の街で散財することや大事に思う人に車を買い与えることは別であるのに、卑屈な人はそこを読もうとしない。共感できることを期待して読み、共感できないことに失望する。そんな読書はなんの 役にも立たないはずであるから、光岡は敢えてそういう人生もあるのだと書いてやるのだったが、金持ちの傲慢と読まれるのが落ちであった。

果たして、不倫相手の女に車を買い与えることを“金持ちの傲岸”と読むのは、読み手の側の問題だけなのだろうか?

そうしてどうにか流れてゆく人間の営みに真実などというものがあるのかどうか。大方の人は悠々自適の生活を目指して働き、疲れ、妥協して生きてゆく。だがそれで終わらないのも人間らしいことで、求めれば得られるものも結構あるのだった。あれもこれも人間という観点に 立ち、そこはかとなく見えてくる真像を描くために、彼は過去から良いも悪いも揃いとって今 の自分の言葉にしてゆく。

『潜熱』

つい数年前にこう書いた作家の、最新作における苛立ちと諦念の深さに、戸惑わされる。

主人公の、ヒロインとの距離の取り方もなかなかのもので、この二人の関係を恋愛と言えるのか。“大人の恋愛小説の極北”というコピーも、読み終えてみると些か看板に偽りありという感。

書くことにも、生きることにも、愛することにも執着しない、そんな人物を描いている作品と読めた。

乙川さんにとっては、時代小説と訣別した時(『脊梁山脈』)以来の、大きな転換点となる作品なのかもしれない。

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