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R.L.スティーヴンソン『水車小屋のウィル』
ウィルの「素朴な人生哲学」は、ひとりの人間が生き、そして死ぬことの意味を、深く考えさせてくれる。若い日に出会った英国十九世紀に英語で書かれた短編小説の香気を味わい直すために、自分の手で日本語に移そうと試みた有吉氏の姿勢に感銘を受ける。(中略)翻訳がそのまま鎮魂歌となった美しい事例として、読者の胸に残り続けるだろう。
薄く短い物語なので読むのにそう時間は必要としないけれど、さっと読み流すような読み方はしたくない。そんなふうに思わせてくれる一冊。
解説で堀江敏幸が述べているように、この本の訳者・有吉新吉は一実業家であり、翻訳に関してはまったくの初心者の状態だった。
有吉が艱難辛苦を乗り越えて翻訳を成し遂げたその動機は、戦争で死んでしまった友人たちへの鎮魂と、病いで先立とうとしている令夫人の生命が少しでも長からんという祈りだった。
物語はウィルの人生の三局面を寓話風に取り上げたもの。少年期、青年期、そして老年期。それぞれの時間をウィルは素直に、時にわがままに生きた。
見知らぬ世界へ憧れながら、街を出てゆくことを思いとどまり、愛する人との新しい生活に踏み出す勇気を持てなかったウィル。人生において、成し遂げたことと成し遂げられなかったこと、どちらが大きな意味を持つか。
何かを成し遂げたことを誇るのではなく、成し遂げられなかったことたちを忘れることなく胸にしまって生き続ける。それは派手さのないストーリー、それこそがhis story、historyなのだと、スティーヴンソンのこの作品と、それを大切に訳した有吉の言葉から伝わってくる。
「マージョリーが亡くなってから」
ウィルは答えた。
「私は神に誓ってあなたが私の待ち望んだ唯一の友でありました」
愛を失って老いていく日々にとって、死は安寧と安らぎだったのかもしれない。しかし大切なことは、ウィルは死が自らの元を訪れるまで、誠実に生きたということ。
英雄譚でもサクセスストーリーでもない、小さな地味な物語。しかし、滋味に溢れた物語。