デュシャン/柳宗悦、ランドアート/世界遺産、数学

「民藝」というものを初めて知った時、「何かデュシャンぽいな」と感じネットで調べたら同じような記事があったので、まずは以下にご紹介。

他にもデュシャンと民藝について触れている文章は多数ありますし、また、デュシャンと日本美術については、昨年の「マルセル・デュシャンと日本美術」展が有名でそこでも様々な議論がなされていましたね。

マルセル・デュシャンについて話し始めると、デュシャンの話だけで終わってしまうので、今回はそこには深入りせず(笑。

なにがし庵の作者と私が感じた、デュシャンと民藝の共通点とは、その当時、美術(品)とは認識されていなかったもの(具体的な物、作品だけでなく、考え方まで含め)の中にも芸術の要素を見出し、「これ(デュシャンの場合は考え方、民藝の場合は日用品)も芸術と言えるのではないか(あるいは、言えるはずです)」と提示したことにあるのではないでしょうか。

一方、現代美術を色々調べている中で見たロバート・スミッソンの「スパイラル・ジェティ」、こちらは見た目だけでいうと、何かストーンサークルやらナスカの地上絵っぽいなと。ロバート・スミッソンの「スパイラル・ジェティ」がそのアレゴリー的な解釈において「現代美術」であるとされるならば、逆にナスカの地上絵やストーンサークルも今では立派な「現代美術」になるのではないか?と。もちろん、ストーンサークルやナスカの地上絵が制作された目的は不明で、芸術作品ではないかもしれず、「スパイラル・ジェティ」とは目的が違うかもしれませんが「スパイラル・ジェティ」がそれによって(「スパイラル・ジェティ」を見ることによって)、解釈するというポストモダン芸術の特徴が当てはまるのであるならば、ナスカの地上絵やストーンサークルもポストモダン的には立派な「現代美術」となるのではないでしょうか。作品(対象となる物)をきっかけとして「言葉による解釈」へと広がっていくのがポストモダン芸術の特徴であるとするならば、それが作られた目的(芸術作品として作られるのか、祝祭のモニュメントとして作られるのか、あるいはメッセージとして作られるのか)は、芸術であるかどうかの判断には関係なくなってくるのではないでしょうか。

それらを通して考えられるのは、逆に「美術」、「芸術」あるいは「現代美術」とされる範疇が私達の認識によって変わっているだけなのでは?ということです。つまり、私達が何を「美術」、「芸術」あるいは「現代美術」として捉えているか、ということであって、「民藝」として評価される以前の民芸品の数々や、ナスカの地上絵、あるいはアウトサイダーアートへの広がりや昨今のキュレーション及び調査、アーカイブまでをもアート活動と見なす解釈など、私たちがこれまで「芸術作品」と見なしてきたものは変化し続けてきている、ということではないでしょうか。ということは、今後もさらに変わり続ける(広がり続ける)可能性は十分にあり、22世紀では何を、またはどこまでを「芸術」と見做しているかはある意味とても楽しみです。

そう考えると、人間の思考の中で一番抽象化されている、数学(数式あるいは解)までもが一種の芸術のような気がしています。


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