立志 〜僕が日本を旅する理由
「ここでは、なかったのかもしれない。」
一人、部屋の片隅で、手を震わせながら、今日もまた、電話をかける。
「出ないでくれ、出ないでくれ。」
「プルルルル、プルルルル、プルルルル。」
願いと裏腹に着信音は止まり、受話器からしわがれた男性の声がする。
「はい、もしもし、●●不動産ですけど。どちら様?」
「あ、お世話になっております。●●株式会社の森山です。本日は当社の製品をご案内したくお電話を差し上げました。」
声が情けなく震える。
「なんだ営業電話かよ。今、忙しいんだよ。二度とかけてくんな!」
男性の怒号と共に、会話が終わった。
僕は涙目で、一人虚空を見つめる。
「どうして、こんなことをしているんだろう。」
大して売りたくないものを会社の利益のために売りつける。数字を求めて、心を殺す。会社員として働くとはそういうことだ。頭ではわかっているのに、心がついていかない。現に、先ほどの怒声が脳内でリピートされ、僕の心を執拗に抉り続ける。
大学4年生のうちから一足早く始めた内定先でのインターンシップ。職務内容はテレアポ。新規顧客の開拓を求めて、毎日80件、90件、時には100件と電話を鳴らす。
ただでさえ、ハードな仕事であることに加え、当時はコロナウィルスの拡がり始め。東京の本社で仲間に囲まれながら仕事をするならまだしも、大学近くの一人部屋で、会社支給のPCとヘッドセットを使い、電話をかける。
孤独、そして虚無。
一体自分はいつまでこの仕事をするのだろうか。
少なく見積もっても、卒業までの1年間。現実的に考えるなら、就職してからも同じ職務で2年、いや3年?
毎日心を削りながら、電話をするんだ。….でも一体、何のために?
いつまでも続く、終わりのみえない苦行。
あまりの果てしなさに、僕は真っ暗なトンネルに放り込まれたような錯覚を覚えた。
仕事が終わると涙が止まらない。
朝になると起きるのが億劫になる。
心は軋み、音をたて瓦解する。
いよいよ限界を迎えようとしていた。
結局、半年も持たずに、僕は、インターンをやめた。
せめて大学最後の1年くらいは、苦しみから逃げたかった。
先延ばしにすぎないことはわかっている。来年の春、卒業したら、仕事が始まり、元通り。
こんなはずじゃなかった。
大学3年の春からコツコツ就職活動をしてやっと手に入れた内定切符。
“社会的に良い”と言われている「ゴールドチケット」も、自分にとっては「金メッキ」に過ぎなかったのだと、ドス黒い絶望と共に悟るのだった。
転機はやってきた。
大学4年の9月。
北海道の母校で教育実習をする機会があった。
大学で「教員免許」を取ると決意したのは、保険に過ぎなかった。
無難に実習を乗り越えて、免許を取れればそれでいい。当時の自分にとってそのイベントは消化試合以外の何者でもなかった。
だが、あの日、教育実習での経験が、僕の人生を変える。
そこでは、生徒と深くつながることが許されていた。
届けたい言葉を届ける。
心からの関心を向ける。
対価として生徒から、忘れられない宝物のような言葉をもらう。
教育現場で抱く感情のすべてが、数ヶ月前部屋の片隅で縮こまっていた時のものと真逆だった。
生徒の反応を想像しながら帰宅後、授業準備をする。時計は気付けばAM2時を回っている。辛くない。むしろ嬉しい。そっか、こんな自分もいたんだな。
翌日、授業を披露する。生徒の顔に笑顔が浮かぶ。ーもっと笑ってほしい。
生徒の顔にハテナが浮かぶ。ーもっとできる。もっと上手くなりたい。
天職だと思った。
たかが、「教育実習で何を大袈裟な」そう笑われる方がいるかもしれない。だが、それは確信だった。
自分の中の喜び、生徒の喜び、
その二つが綺麗に重なる場面を目撃したとき、初めて、自分の未来に光が差した。
「自分は日本で教員になろう」志が芽生えた瞬間だった。
2ヶ月後、内定先に、内定辞退の連絡を入れる。
「苦労して手に入れたゴールドチケットを捨てるのだって、頑張った君の特権だよ」ずっと尊敬している先輩の一言が、現状に留まろうと怯える僕の背中を優しく押してくれた。
内定を蹴った瞬間、まるで腫れ物が落ちたみたいに、僕は清々しい気持ちになった。描いていた未来予想図は一夜にして消え去った。一方、あるのは「教員になる」という漠然とした決意だけ。
普通なら悲観してもおかしくない状況だけれど、その日はやけにスッキリとしていた。どうにかなるし、どうにかしてみせる。だって全部、自分で決めたのだから。
それからゆっくりと、僕の人生は進むべき方向へと舵を切る。
「そうだ、海外へ行こう。」
今後の進路に頭を悩ませ続けていたある晩、突然閃く。
もともと海外志向の学生だった。長期留学も検討していた。
ただ、当時、ウィルスの蔓延に伴い、海外渡航が制限されていたこと、就職活動の荒波に飲まれたこと等が原因で、すっかり忘れていた。
消えかけていた情熱を思い出した。
3ヶ月後、教育大国:フィンランドへの渡航を決意する。
面白い英語教員になりたいならば、海外へ行けばいい。
とんとん拍子で話はすすみ、翌年の夏、僕は異国の地に足を踏み入れる。
フィンランドでの1年間は刺激的だった。
幼稚園から中学校までの職場4軒、ホストファミリー4家族と目まぐるしく自身を取り巻く環境が姿を変える中、自分の情けなさに失望することはあれど、志がぶれることは一度もなかった。心の中はいつだって「自分は日本に何を持ち帰れるのだろうか」その一点に集中していた。
しかし、フィンランド教育を知れば知るほど、見えてくる現実もあった。
その一つとして、「人々から称賛されている『フィンランド教育』の素晴らしさの大半は、政府によって作り込まれた制度由来である」ことだ。
・国定教科書制度がなく教科書会社が健全に面白い教材作りに励めること
・教員になるためには大学院卒業&複数回の教育実習を経る必要があり、新卒から教員としての力が備わっていること
・進んだICT化や既存教材の徹底活用により、15時帰宅が可能になっていること
これらは全て、行政が積極的教育界改革(テコ入れ)したことにより可能になっている。
だとすると、一個人として、自分が持ち帰れるものはなんなのか?
ー学びこそたくさんあれど、「日本に持ち帰れるもの」はあまりに少ない。
それが渡航して早々に直面した課題だった。
おそらく、当時の僕は「教育」を単純明快なもの、つまり国境を超えて持ち運び可能な「メソッド」として捉えていたのだろう。
だから、教育先進国のやり方をそのまま真似れば、日本教育もアップデートされると信じていた。
だが、無論、現実は、そんなに単純ではない。
当たり前の話だが、国が違えば、教育を実践する土壌が違う。文化、歴史、国民性、伝統、行政の目指す方向性etc…
これらを無視して、フィンランド流を日本に輸入したところで、機能しないことは目に見えていた。
1年間の任期を終えるタイミングで、こんな思いが芽生え始めた。
「日本で働くならば、日本のことをもっと知らなければならない。」
僕は日本という国で多くの制約の中、理想の教育を追求し続けている現場を見たい、さらには、教育だけでなく、農業、漁業、林業、工業と、想いを持って働く人たちと話してみたい。
一個人が、日本のことを知ったからといって、日本教育が大幅に改善されることはないかもしれないけれど、これから教員としてのキャリアを踏み出す前に、やらなくてはいけないことのように感じた。そして何より心の底からやりたいと思った。
「帰国したら、バイクで全国を旅しよう」
新しい目標が生まれた。
自他ともに認める小心者。
恐怖、不安、後悔
さまざまな感情が挑戦を止めるよう渦巻く。
でも、ここで踏みとどまったら、自分のことを大嫌いになりそうだから、勇気を出して計画遂行に向けて動き出す。
バイクなんか免許すらなかった。
だから、帰国して早々、車校に通い免許を取得した。
貯金はフィンランド渡航で使い果たしていた。
だから、ホテルのフロントで夜勤として働き、昼夜逆転の生活を送りながら費用を稼いだ。
肝心のバイクも持っていなかった。
だから、出発の数日前に購入し、ど素人のまま公道へ飛び出した。
この話をすると「君は行動力があるね」と言われるが、そんなことはないと思う。
僕にあるのは、教育への漠然とした「課題感」と「熱意」
それらが、臆病な自分の勇気を奮い立たせ、行動へと駆り立ててくれている。
この日本縦断の旅を通して、いろいろな人と会いたい。日本を丸ごと経験したい。そうすることで、
自分の教員としての引き出しを
ヒントを
理想を
生き様を獲得し、確立したいと思う。
真面目でヘビーな内容になってしまいましたが、ここまで僕のストーリーを読んでくださってありがとうございました。
今後は、教育視察や産業視察での学びは真面目な記事として、
道中でのトラブルや面白かった出来事はエッセイとしてユーモラスに発信しようと考えております。
これからも応援よろしくお願いします。
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