人はみな孤独であるか〜絶対的孤独と相対的孤独〜

人はみな孤独であるという言説があります。
今回はその言説に対して思う事を様々な角度から話してみたいなと思います。

まず最初に大切になってくるのは「孤独」の定義が何かという事です。
僕自身は孤独という言葉に絶対的な定義があるとは思いません。
なぜなら孤独とは感じる事だからです。
強いて言うのであれば、孤独だと本人が感じれば孤独であると言えるのかもしれない。
そして同じ状況においても孤独と感じる人もいれば孤独と感じない人もいます。
その辺りの前提条件を踏まえた上で人はみな孤独であるという言説について考えてみましょう。

たとえば結婚していないとか恋人がいないとか友達がいないとかそういうものは孤独として解釈される事が多いように思います。
一般的に孤独であると判断される材料としてはやはり周りの人間との関わりが大きく関係しています。
良好な人間関係があり充実している人の事をあまり孤独だとは言わないのではないでしょうか。

そしてここで重要になってくるのはたとえ一見友人たちに囲まれているように見えてもその人自身は孤独を感じているという事もあるという事です。
場合によっては本人は孤独を感じているとは思っていないかもしれないが、実際には孤独を感じているという事もあるのかも知れません。
孤独というものに具体的な定義はないと言ってもいいでしょう。
 
ここで押さえておくべき事は孤独というものは人間関係と非常に関連が深いという事です。
鍵となるのはやはり誰かと心が触れ合う事になるでしょう。
だとすれば豊かな人間関係があれば孤独ではないという話になるはずですが、「人はみな孤独である」という言葉はおそらくそのような事が言いたいのではないのだと思います。

言い方を少し変えてみます。
もしこれが「人はみな孤独を感じるものである」だとすればどうでしょうか。
僕はこの方がどちらかと言うと納得いきます。
そして人はみな孤独を感じるのでみな孤独であるという話であれば納得できるように思います。

孤独を感じない事=孤独ではないという定義であれば、孤独ではない人というのはそうそういないのではないでしょうか。
少なくとも僕はそう思います。
多かれ少なかれ孤独を感じる事があるのが人間ではないでしょうか。

誰もが感じるものではない一部の深刻な孤独と誰もが感じる消し去る事のできない孤独というものがあると考えるのが妥当ではないでしょうか。
そこで僕は誰もが感じるものではない深刻な孤独を相対的孤独、そして誰しも感じる事があるであろう孤独を絶対的孤独と呼べるのではないかと考えました。

【相対的孤独の世界】

特定の条件(=心を許せる相手がいない、親しい人がいない、今まで誰にも愛される事がなかった等)によって増長された強烈な孤独。
絶対的孤独の方が名前としてはなんとなく孤独感が強そうな印象がありますが、おそらくこの相対的孤独の方が人を狂わせてしまう激しい孤独でしょう。
いわゆる無敵の人などと言われる凶悪犯罪者もこのような相対的孤独を抱えていたと解釈できるのではないでしょうか。

相対的孤独の人は誰かを強く必要としているように思います。
それは誰かを愛したいとか愛されたいというような感情だけではありません。
相手を支配したり冒涜したり壊したりしたい衝動なども含みます。
前述した無敵の人なども自分という存在がこの世界で何らかの影響を与えられる存在であると示したいというような心理があるのではないでしょうか。

【絶対的孤独】

誰もが感じるような避けようのない絶対的な孤独。
人間が人間である限り存在し続ける感覚。
相対的孤独を抱えた人が相対的孤独を取り除いた先にどうしても消し去る事のできない孤独がある。
それがこの絶対的孤独だと考えています。
相対的孤独を取り除いたらラクになるんだと多くの人たちは思いますが、絶対的孤独の境地というのは決してラクなわけではありません。

絶対的孤独というものは具体性のない漠然とした孤独であるように思います。
目に見えないものでありながらも決して振り払う事はできない。
当たり前のように在り続けるもの。
人間はみな孤独であると言わせるだけの絶対的な何かがあるのでしょう。

振り払う事のできない孤独に気がついたからには人はそれを受容して生きていく他ありません。
無論、その存在を必死に否定しようとする人もいますが、いくら否定しようともそれは振り払えるものではなく、否定しようとしたところで精神的に疲弊するばかりでしょう。
振り払えない孤独というものがあるという事に気が付き、それを受容していく構えこそが絶対的孤独との付き合い方ではないかと考えています。

「人間はみな孤独である」という言葉の本質はこの絶対的孤独から逃れる事はできないということにあります。
僕個人の解釈ではありますが、絶対的孤独から逃れようとするよりもそれを受容していく事が大切であるという裏のメッセージのようなものを僕は感じます。

「孤独と付き合っていく」というような言葉もありますが、ここで言う孤独とはおそらく絶対的孤独の事を言うのではないでしょうか。
相対的孤独に関しては統計的にも幸福度を下げたり、寿命を縮めたり、健康を損ねたりする事が知られており、付き合っていくものとして解釈するのは違うのかなと思います。

しかし絶対的孤独(=振り払う事のできない孤独)に気づいた時に人は初めて自立するチャンスを得られるのではないかという風にも思います。
絶対的孤独というものは解釈次第ではとてもネガティブなものとして捉えられるかもしれませんが、逆に言えば解釈次第では人間の心において非常にポジティブな土台として機能するでしょう。
相対的孤独を超えた先にある絶対的孤独の世界というのは自己を受容し愛する事の価値を問いかけてくるそんな世界だと考えます。

ここで僕が一つ問題視したい事としては相対的孤独を抱えている人に対して「人はみな孤独だよ」というような声をかける事です。
相手が感じている孤独が相対的孤独であるか絶対的孤独であるかという違いを考えずに安易にそのような言葉を発するとおそらく誤った意味で伝わるのではないでしょうか。

言葉の意味を一つに限定しない事、相手はどのような意図でその言葉を使っているのかを様々な視点で解釈する事、それが最近の僕のテーマのようになっています。
そのため今後もよく言われている一般論や言説などについての解釈や見解を様々な視点から書いていきたいなと思っています。

※過去に言葉の意図と解釈について書いた記事になります。
こちらも読んでみてください。


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之
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