補完的社会
僕はADHD傾向が強く、得意な事と苦手な事がハッキリしている人間です。
得意な事は思っている事を言語化して人に伝えたり様々な情報を組み合わせて想像力を使って新しい知識を得たり分析したりする事です。
苦手な事は単純作業や事務作業、裁縫などの丁寧な作業、スポーツ全般などです。
このように人間には得意不得意があります。
そして発達障害の人など僕のように得意な分野と苦手な分野の能力の差に大きく開きがある人というのもいます。
僕はこの得意•不得意というものの存在を通じて人間同士のコミュニケーションの大切さを痛感しています。
というのも僕のように苦手な事がとことんできない人というのは人の力を借りずにはとても生きられないからです。
日本の学校教育というのは何かに特化している人を評価しない傾向にあるように思います。
トータルの成績が良い事、先生の言う事を聞く事、ルールを守る事に重きを置いているように感じます。
ところが、何かがズバ抜けて得意な人は何かがズバ抜けて苦手である場合というのはよくある事です。
そういった人たちにとって上記に挙げたような日本の学校教育で重きを置かれている事というのがかなりマイナスに働いているのではないか?と考えています。
一言で言うと短所を認めない、もしくは短所は克服するものであるという価値観の押し付けが強いのではないかと思います。
僕は長所と短所は表裏一体であると考えています。
感覚的な話にはなるのですが、何かに突出するには何処かが必ず犠牲になるのはある種の法則のようなものとして捉えています。
つまり短所を否定する事は長所を否定する事に繋がると考えています。
勿論、時には短所を克服する事というのは大切です。
僕自身も魅力的な歌を歌う才能はあるとは思っていますが、良い発声で歌う事というのは決して得意ではないので短所を克服する為にボイストレーニングをしています。
僕の才能をより発揮させる為に短所の克服が必要不可欠だと思うので、苦手な発声のトレーニングをしているという事になります。
このパターンだと僕が自分で歌うというスタンスである以上、人に補ってもらってどうにかするというのはできない事なのでリスクはあれど短所を克服するのに莫大な時間をかけるのは仕方ががない事だと思っています。
強いて言うのであれば、ボイストレーナーさんの力を借りているということは確かでしょう。
しかしもしも短所の部分を誰かに補ってもらう事で成立させられるのであればその方が効率が良いのではないかと思います。
短所は大なり小なり誰しもあるものであってそこをどう他者との関わり合いで補完し合えるかどうかというのが社会という集合体の完成度を上げるのに非常に重要だと僕は考えています。
そういう意味では、家庭において家事をする能力が非常に高い専業主婦(主夫)とお金をたくさん稼げる人で役割分担をする事は方法としては悪い事ではないのかなと思っています。
(少なくとも利害が一致していれば)
近年、多様性という言葉をよく聞くようになりました。
補完関係の形成にはまず多様性を尊重するという事をより深く突き詰める必要があります。
今の日本社会においては価値観の違った者同士が傷つかない為にお互いに関わり合わないという方向性に行きがちです。
これは多様性を尊重しているようで実のところは自分の価値観を傷つけられたくないと個々人が自己防衛的な振る舞いをしているに過ぎません。
みんな違ってみんな良いと言ってお互いに干渉し合わない流れは社会にとって大きな損失だと考えています。
そうではなくて違った人間同士がうまく関わり合って補完関係を形成する事が多様性を尊重する社会の理想系ではないでしょうか。
補完関係を形成する事でより優れた集合知を生み出す事ができます。
「みんな違ってみんな良い」という言葉の解釈について書いた記事があるので、こちらも良かったら読んでみてください。
補完関係を形成する事の価値は社会の生産性を上げる以外にもあります。
人間同士の信頼関係の形成に繋がります。
長所と短所という凹凸を持った人間同士がお互いに助け合う事で人間は精神的な満足感を得る事ができます。
逆に言えば今の日本社会というのは補完関係を大切にしていないので、人間同士の繋がりが希薄になっているように思います。
人間が幸せを感じる為には他者と信頼関係を結ぶ事が必要不可欠です。
今後の日本社会や教育について考えるにあたって、今一度補完関係を構築する事の価値についてはより深く考察する必要があるでしょう。