付加価値軽視

前回までは3連続で付加価値依存症について書いてみました。
付加価値依存症とは何かについてはこちらの記事をお読みください。


今度は逆に付加価値を重視しない人について書いてみようと思いました。
付加価値依存症の記事を書いている最中にとある事に気がついたのです。
僕の母親は付加価値を重視していない人間だなと。
そこから書きたい事が湧いてきたので、とにかく書きたい事を書き連ねてみようかと思います。

僕の母親は子供の事を褒めない人でした。
一般論としては子供の事はどんどん褒めた方が良いというものが主流でしょう。
実際に褒める事で承認されてやる気を増すという事は大いに考えられます。
その為、僕は今まで母の褒めようとしないスタンスに対しては否定的に捉えていました。

ところが、付加価値依存症の記事を書いてみて気が付いたのは母には付加価値依存が全くないという事です。
つまり母はありのままの自分に価値があるという感覚を持ち合わせた人間という事です。
身内ともなるとどうしても僕の主観的な意見にはなるのですが、母は子供の価値を認めたくないから褒めないというようなタイプではなかったのも踏まえるとそうとしか考えられませんでした。

ところが、その息子である僕は残念ながらありのままの自分に価値があるという感覚を身につける事に失敗してしまいました。
その原因は父親や父親の実家の事であったり、兄や姉との関係であったり、ADHD特性との兼ね合い等と多岐にわたるのでここでは省略しますが、一言で言うなら父性愛の欠如が原因ではないかと推測しています。
ちなみに僕の父は付加価値依存症で、付加価値依存にどっぷり浸かった毒親的な両親に育てられたアダルトチルドレンです。
とにかく、僕が無条件の愛を感じられずに育ってしまった事だけは確かです。
今まで散々記事に書いてきたいわゆる愛情飢餓の状態になってしまい、思春期頃から付加価値依存症的な生き方になっていったように思います。

親が無条件の愛を感じられた人であれば子供にもそれが受け継がれて、逆に親が付加価値依存症であれば子供も付加価値依存症になっていく、これが一般的なパターンでしょう。
ところが、僕の場合は無条件の愛を持った親と付加価値依存症の親の掛け合わせで生まれています。
付加価値依存症の人は付加価値依存症の人と結ばれるというケースが多いように思いますが、僕の両親の場合は違ったのです。
ある種、この付加価値依存者と付加価値軽視者の感覚を両方持ち合わせている事が僕自身の個性になっているのかもしれません。

実を言うと、付加価値依存症の記事を書いている最中に自分は本当にそこまで無条件の愛を感じられなかったのか?と疑問に持つような気持ちがありました。
いや、確かにそれが不足していたのは事実としてあります。
愛情飢餓だったのは間違いないのです。
しかし、その割にはそういう人にありがちな自分を責めるような思考がほとんどなかったのです。
つまり愛情飢餓はあるが、自尊心は低くないというあまりないタイプの状態だったように思います。
ある種、今こうして僕が自分のメンタリティに向き合う事や傷つく事に対して怯えずにいられているのは自尊心の土台が存在していたからなのかもしれません。

さて付加価値依存については散々書いてきたのでここからは付加価値軽視について話していこうかなと思います。
付加価値を重視しすぎない事は大切ですが、重視しないどころか軽視する事は果たして良いのか悪いのか。
まず最初に言える事としては付加価値が無くても価値があるという感覚を養えた人にとっては付加価値を軽視される事はそこまでダメージが大きくないという事でしょうか。
逆に付加価値依存の人は付加価値を軽視されたら不満に思う上に付加価値を重視されたらプレッシャーになるのでどちらに転んでもわりと大変という印象ですね。

付加価値軽視について考えるにあたって先日書いたこの記事をふと思いました。

ここで僕が書いたのは競争する事自体が悪なのではなく、競争する前に必要な土台が不足している事が問題だという事でした。
必要な土台というのはつまりありのままの自分に価値があるという感覚です。
付加価値を得るという事は基本的に競争の先にあたると僕は考えています。
それは必ずしも周りとの競争ではなくて、自分自身との競争というものも含まれますので、ありのままの自分に価値があるという土台さえあれば、自分自身と向き合う事に繋がり、自己実現に繋がるのではないでしょうか。

個人の幸せという観点で言うのであれば、競争心がなくともありのままの自分に価値があると思えていれば幸せなので問題ないのかもしれません。
しかし社会という大きな括りで見た場合には競争心がないという事は良くないんじゃないかと思っています。
みんながみんなプロのアスリートのように競争する必要はないかもしれませんが、競争をしなさすぎるのはあまりにも張り合いがなさすきるように思うのです。
張り合いが無くなりすぎると、繋がり自体が減ってしまって社会という共同体が空洞化してしまうのではないかと危惧しています。 

付加価値に依存する事の危険性を散々話してきた僕ですが、ありのままの自分に価値を感じられるという条件さえあれば競争して付加価値を手に入れようとする事は生きる事のスパイスになるのではないでしょうか。
そして、個人がそのようなスパイス的な存在になって合わさる事で新しいものが生まれるといういわゆる集合知的なものが失われる事が社会にとって大きな損失であると考えています。

何より世界という大きな括りで見れば、競争を避けるという事はそもそもできないというのも事実でしょう。
平和ボケしていると他所の国から攻められるかもしれないというシビアな現実もある中で何も競争しない人ばかりになるわけにもいかないでしょう。
一個人の幸せを考える場合と社会という集合体の幸せを考える場合には結論は異なってくると思いますが、競争して付加価値を付ける事はどちらにせよとても大切な事だと考えています。

そう、僕が付加価値依存症について記事を書いてありのままの自分に価値があるという感覚の重要性を書く事は自己実現として付加価値の追求を楽しむ事の価値を伝えたいからなのかもしれません。





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