夜間妄想とメタ認知

目を覚ましたその瞬間に私は私を見る存在に気が付いた。
夜空だ、夜空が私を食い入るような目で見ているのである。
あれだけ遠くからここまでの強い視線を感じさせるという事は夜空にも実は強い恋愛感情があるのかもしれない。
いや、あるいはそれは歪んだ執着心なのかもしれない。
いわゆる過干渉•過保護的なやつである。

何はともあれ夜空が確かに私を見ていた、それだけは確信している。
そこには科学的根拠など何もない。
ただ私がそう解釈したのである、それだけは絶対である。
そこには根拠がなくても良い。
正しいかどうかだけが大切なわけではない。
根拠がない事を確信している心持ちというものは時に美しいものである。
根拠がなくとも迷いや曇りがない、そこには正しいか正しくないかもない、良いも悪いもない。
私は私の解釈を育てる事を楽しみたいのである。
私はそういう生き方がしたいと願っている。

私はどうも海のほとりで目を覚ましたらしい。
この時、私が「目を覚ました」と感じたのは確かではあるが、実際に私が目を覚ましたのかどうかは定かではない。
目を覚ましたという事は私は眠っていたという事になるのであろう。
しかし果たして私は本当に眠っていたのだろうか。
そもそも眠っているという状態の定義とは何だろうか。

今日の私はやけに頭が冴えている。
ある種のゾーンに入っているかのような感覚でもある。
頭が冴えているというのは集中を極めた先にあるものであるとどこかでそう思っていたのだが、実際には違うのかもしれないと思った。
意識があるのにどこか眠っているような感覚があるこの不思議な浮遊感が気持ち良い。

私は妙な万能感を抱えたまま、いっそこのまま気が狂うまで妄想の世界を広げてつまらない日常とは無縁の楽園で生きていきたいとそう思った。
つまらない日常とはまるで無縁の楽園とはどんな所だろうか。
とりあえず私にとっての楽園にはやはりセックスは絶対に欲しい。
もし自分好みの楽園を探すマッチングアプリがあるとしたら、絶対にセックスという項目にレ点を入れるだろう。
セックスという項目の中でさらに好みのタイプであるとか選り好みに付き合ってくれるソート機能があったらもっと良い。
それを想像するだけで胸が躍る。
実現可能性は保留にしておいて、好き勝手に想像する時間が私にとってはとても重要なのである。
やはりセックスが大事である。

性愛については親愛なるフロイトさんが熱く語っていたので、そういう意味でも私はセックスを大切にしたいなと思っている。
いや、しかし親愛なるフロイトさんが存在しなかったとしても私はきっとセックスが大好きであると確信している。
いや、むしろセックスが私の事を好きであるとすら思える。
私は素直に私がセックスが大好きであるという事を伝えられる人間ではある。
しかしそれよりもセックスが私の事を愛しているのであるという視点の方がより面白い。
セックスというものの価値も私というものの価値もその方が際立って感じられるのではないかとそう思った。

私が少なくともセックスにだけは愛されているとして、では私という人間は果たしてセックス以外に誰に愛されているのだろうか。
私を愛してくれる人間などいるのだろうか。
そう考えた途端に顔が浮かぶのは誰だろうか。
恋人かもしれない、親かもしれない、兄弟かもしれない、友達かもしれない、恩師かもしれない、しかしここではあえてこう考えてみたい。
もし誰も私を愛していないとしたら?

それを考えた瞬間に背筋が凍るような緊張感が私の全身を切り裂いた。
「私はあなたの事を愛していない」と言葉に伝えなくてもすぐに分かるような冷ややかな眼差しが無数に私の周りを囲んで私を見ている、そんなネガティブな想像をしてしまった。
走馬灯のように過去が私の脳内を駆け巡る。
ああ私の脳はこんなに傷ついてしまったのか、脳が涙を流している音がまるでヘッドフォンをつけてデスメタルを聴いている時のように私の聴覚を支配してくる。
その音しか聴こえないという一種の過集中状態にいて音と私は一体化している。

これは俗に言うトラウマというヤツなのか?
いや"俗に言うトラウマ"というものはもう少し優しいものであるように思える。
これは俗に言わないトラウマ、それはつまり心の病として解釈できるレベルの深刻なトラウマが存在している事を示しているように思えた
私はとても傷ついていた、それは認めざるを得ない事であった。
そこにはエビデンスも何も必要がない、なぜなら私がそう感じたから。
それが傲慢だと思いたければそう思えばいい、しかし私が感じた事の尊い価値は誰にも奪えはしないという事だけは確かである。
もし仮に憎い相手が墓に入る時があれば、墓に入る直前にでも一筆箋に"私が感じた事の尊い価値は誰にも奪えはしない"とでも書いて肛門を郵便受け代わりにして配達したいくらいである。

「肛門にも郵便番号があったら面白いよね」
「S状結腸3丁目みたいなネーミングも素敵だね」
「アナルセックスってお尻の中に住んでいる人たちからしたら災害みたいなものだよね」
そうだ、いつもこういう時にこの手の下らない下品なアイディアが頭の中に浮かんだりするのである。
ブラックジョークが過ぎるか?
いやそれよりもセックスなどという単語を何度も使うと何やら18禁認定みたいなものをされてしまう可能性がある。
それは私にとって非常に不快な事だ、嘆かわしい。

話が脱線してしまったが、とにかく私は傷ついていたのである。
そして過去の痛々しい経験がどこかに深く刻み込まれている。
古傷が痛みやすいのは私が連想ゲームのように目の前の出来事から様々な想像を膨らませるからなのかもしれないが、それもよく分からない。
この「分からない」という感覚が生というものを抱える私たち人間の宿命なのかもしれない。

そうだ、私たちは何も分かってなどいないのである。
分からないものを分かろうとしている、それが生きるという事なのである。
そして私は今、分からないものを「分かった」と勝手に了承して先へ進んでいく人たちに対して吐き気がして仕方がないのである。
これだけ分からないものに囲まれている人間が何を知ったような口を聞いているのか、私はそんな事を考えていると急に腹立たしくなってきた。

そうだ、私は怒っているのかもしれない。
途方もない年月を怒りという感情に突き動かされて生きてきたのかもしれない。
この「かもしれない」が無限に続いていく螺旋階段のように私の脳内に浮かんでは消えていく。
この螺旋階段の行く先というものは果たしてどこに繋がっているのだろうか。
そしてこのような奇妙な妄想においては私たち人間が認識している物理法則というものが果たして通じるのかすらも分からない。
ただ階段を登っているだけのつもりなのにほんの1時間前よりも実は下は下へと降っているという事もあり得るのかもしれない。

そうだ、妄想というのは何でもアリの世界である。
この何でもアリの世界というものにおいて私は無敵にも無能にもなる事ができる、それはすなわち無限である。
無限とは無敵も無能も包摂した概念と言えるだろう。
たとえば女性器と男性器の両方を持った人間になる事もできるし、生殖器がない人間になる事もできる。

この何でもアリの世界というものを言語で表現する事で何が生まれるのだろうか。
私はそれを知りたい。
己の生み出したものをまた己が見る事で得られる感慨が私が私である事の確認作業として機能するのではないかという期待がある。
そこにはどこか神経症的なニュアンスが含まれているようにも思えるが、私の中のメタ認知モンスターが私の中に生き続ける限りにおいては仕方がない事である。

そして今私はまた一つ気が付いた。「神経症的なニュアンスが含まれている」と言った後にそれを「仕方がない」と言った。
それはつまり「神経症的なニュアンスが含まれている」という事に対してどこかにネガティブな印象を持っているという先入観から生まれたものではないか。
しかしながら果たしてその先入観は正しいのであろうか。

あらゆるものに対して疑問を投げかける事で私という存在はいとも容易く迷宮入りしてしまう。
そしてこれはおそらく私に限らず人間である限りは避けようのない感覚のように思えてならない。
全てを疑えば、全てが疑わしくなる。
この疑いがどこから生まれるのかというと、やはり個々人の解釈によって生まれてくるものではないかと感じている。
解釈というフィルターによって私たちは感じる事を半ば強制されていると言えるのかもしれない。

私たちは解釈した事を感じているのか、あるいは感じた事を解釈しているのか。
これは卵が先なのか、ニワトリが先なのかという論争に近いものがある。
解釈という言葉をどう解釈するのかによって変わってくるというこの解釈の解釈という無限ループのスタート地点を設定する事で私は再び混乱に陥る事だろう。
しかしそのカオスの中を生きる事に価値があるのだと私は確信している。
この価値に気づかないものはバカであり、アホであり、クズである。
コンプライアンスなど知った事か、私は今ここで罵声を浴びせたいと思ったからそのような言葉をわざわざ選択したのである。

何よりも下らない事は特定の言葉を一括で禁止にするという事である。
それは言葉というものが絶対性を有しているという思い違いによって生まれているルールなのである。
しかし実際には言葉というものは個々人の解釈というものによって意味が変化していくものである。

それにしても夜というものは何とも奇妙な体験を味あわせてくれるものである。
1日を通して最もアイデンティティが崩壊しやすい時間とも言えるだろうが、同時に奇想天外な妄想をするにはうってつけの時間である。
しかしここで一つ困った事がある。
夜空というものは夜にしか見られないものであるという事だ。
では朝や昼に夜空をもし見る事ができたのであれば、私はどう思うのだろうか。
そんな無茶な発想が何処からか無限に湧いてくるのもまた夜というシチュエーションの強みなのかもしれない。

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之
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