人に期待しない生き方

最近よく聞く生き方のコツみたいなものとして「期待しない生き方」というのがあります。
期待すると裏切られるので、誰にも期待しないで生きましょうというようなスタンスの生き方です。
僕はこの生き方を推奨する流れはいかがなものかと思っています。

そもそも期待しない生き方をしようという提案が出るのは、なんでだと思いますか?
それは人間が無意識に期待しているからです。
ある程度の期待をしている状態というのが健康的な人間のごくごく当たり前の構えだからです。
期待しているという前提が無ければ、そもそも「期待しない生き方」という提案も生まれないはずなのです。
しかしこのような無意識化にあるごくごく当たり前の期待の存在すらも否定してわざわざ期待しない生き方にしようというのは、もはや三大欲求の存在を否定して抑圧するのと何も変わりません。
抑圧というのは基本的に無理やり我慢をしている状態になるので、必ず反動が出ます。
本心に逆らって生きれば鬱病になったり、どこかで自分の強い欲求が爆発して問題行動を起こしたりとそのような形で歪みのエネルギーが出てくるものです。

期待しない生き方を提案する人というのは、「期待すると裏切られるからだ」と言いますが、そもそも裏切られるのは何故でしょうか。
確かに人に対して過度に期待しすぎれば期待を裏切られる、これは事実でしょう。
例えば、交際相手に対して自分の望んだ通りにしてくれるはずであると身勝手に期待をして勝手に裏切れたと思い、勝手に傷つく人というのがいます。
こういう生き方の人に対しては、"期待しない事"というよりも"期待しすぎない事"を勧めるのは的を射たアドバイスだと思います。

そして期待する事自体が良くないという発想の人には欠けている視点がもう一つあります。
そもそも期待した相手が誰であるのかという視点が抜けているのです。
つまり誰を信じるべきで誰を信じてはいけないのかという視点が抜けているという事です。
基本的に信じるべきものと信じてはいけないものの見極めができない人ほど盲信するか、全く信じないという白黒思考になりがちなように思います。

信じるべきじゃない相手を信じて裏切られたからと言って誰も信じてはいけないと決めつけて生きる事は、食物アレルギーだと発覚した人が食べる事そのものを一切やめるというくらい極端な選択ではないでしようか。
ただ一人の裏切り者を軸に人間というものが信用に値しないと決めつけてしまうのはあまりにも早すぎるのではないでしょうか。

勿論、時には精神的に成熟した人であっても信じる相手を誤る事もあるでしょう。
しかし信じるべき人を見抜けない人というのは毎回相手を誤ってしまうのです。
繰り返し騙されてしまうのです。
そしてその上で信じるべきものを信じた経験もありません。
しかし何故このような状態になってしまうのでしょうか。

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