『加耶/任那 古代朝鮮に倭の拠点はあったか』
『加耶/任那 古代朝鮮に倭の拠点はあったか』仁藤敦史、中公新書
あまり、深くは考えないようにしていたヤマト王権の任那問題ですが、新書でまとまった本が出たという読書界の話しだったので購入、読了しました。これまで、あいまいなままにしていた広開土王碑やいわゆる「任那日本府」の問題について、納得感のある説明の背景を得られたと感じましたし、実は日本国内の磐井の乱が、朝鮮半島情勢を深い関わりを持っていたという視点も得られました。
[広開土王碑と磐井の乱]
まず広開土王碑に関してですが、旧帝国陸軍による改竄があるのではないかという問題に関しては《石灰塗布以前の「原石拓本」がいくつか中国で発見され、編年研究も深化し、改竄の可能性は低くなった(徐建新二〇〇六、武田幸男一九八八・二〇〇九)》(k.653、kはkindle番号)とのこと。なんで改竄の話しが出てきたかというと、広開土王碑には倭軍が強大な軍だったことが書かれていて、そんなことわざわざ書くか…ということからだと思いますが、広開土王の立場に立てば、そんな強大な軍を打ち破ったんだ、というマウントが取れるわけです。
《史料批判を行えば「広開土王碑」は客観的な記述ではない。高句麗中心の世界観や守墓役体制(王墓を守る労役を負担させる制度)の維持を主張するための碑である。そこでは倭の活動が誇張されている》(k.624)が、《百済に主導された九州勢力を中心とする出兵の可能性》(k.698)はある、と。
著者によると1)百済の近肖古王の時代に倭と百済が交渉を開始したという「百済記」の記述2)百済と倭の良好な関係がうかがえる七支刀が存在すること3)「広開土王碑」に記された三九九年、百済が倭と和通しとあり、百済からの働きかけによる出兵が想定されるが、その内実は少数の九州の軍士が中心だったと考えられる、とのこと。
[朝鮮半島の前方後円墳]
百済への援軍は、筑紫国造を中心とする筑紫の兵で(日本書記の欽明紀一五年一二月条)、馬韓では筑紫の人びとが土着していたであろう、と。統制を強めるヤマト王権は五二八年の国造磐井の乱後、筑紫の軍事拠点としてヤマト王権は那津官家を設置。那津官家は朝鮮半島に対する兵站基地の役割を持っており、これ以降、九州の軍勢のヤマト王権への従属は強くなる、という流れだったろう、と。
そして百済が加耶諸国この地域を併合しようとしたときに、独立を維持するため倭系の移住民らが反対勢力として百済と敵対した、という事実もあるようです。
馬韓と称された朝鮮半島南部西端に位置し、百済の領域支配を受けていなかった栄山江流域には五〇〇年前後の一時期だけ造られた倭系の前方後円墳が存在し、その埋葬者たちは筑紫出身の倭系であり、その一部がその後、倭系百済官僚になったと考えられる(k.1983)。しかし、それはヤマト王権による領域支配とは直接の関係がない、と。
[百済三書]
日本書記の朝鮮半島との外交記事には「百済三書」と総称される「百済記」「百済新撰」「百済本記」という百済系史料が多く用いられ、特に本文に付された注(分注)に引用されることが多く《これらは、日本国内にいた百済系の人々によって編纂されたと考えられている》(k.252)とのこと。
《百済三書の時代順は、まず亡命百済王氏の祖王の時代を記述した「百済本記」。つぎに百済と倭の交通および「任那」支配の歴史的正当性を描いた「百済記」。最後に傍系王族の後裔を称する多くの百済貴族たちの共通認識をまとめた「百済新撰」となる。ただし、百済三書は順次編纂されたが、共通の目的により統合され、まとめられたと考えられる》(k.713)。
また、「百済記」には干支を記載した項目があり、このことから《『日本書紀』神功紀は「百済記」記載の干支について、干支の周期六〇年の倍数である一二〇年、場合によっては一八〇年遡らせて、卑弥呼が登場する三世紀の中国史書に合わせようとしている》とのこと(k.1268)。
[任那日本府とは]
著者によると、任那日本府は百済の加耶侵攻に対して、独立を維持し抵抗する倭系の人々の総称と考えるべきで、その背景には雄略天皇時代に、倭の有力豪族が王権の統率を離れて独自に朝鮮半島南部で活動するようになったことがある、と。たとえば、四六三年に吉備上道臣田狭が「任那国司」に任じられたものの、雄略天皇の意向に背いたとの記載がある、とのこと(k.1879)。
こうしたことから、当時の半島にはヤマト王権から相対的に独立した旧倭臣勢力と、百済に敵対する在地勢力の連合が存在した。加耶で土着化した旧倭臣は五世紀後半における雄略天皇の時代から連続する勢力であり、先祖が管理した兵馬船を継承し軍事力を持っていた、と。
《「任那」滅亡後も百済・新羅は「任那」の使者を倭に派遣していた。それは百済・新羅が仕立てた虚構の「任那」の使者である。彼らは倭へ共同入貢していた。倭は定期的に貢納してくれれば満足だった》(k.2685)というあたりも、なるほどな、と。
そして著者は《両属的、あるいはボーダーレスな立場の人々がいたことを、史料から実証・解釈し強調》しています(k.2910)。