怡庵的 徒然なる日々 霜
ツイッターのタイムラインに流れてきた画像の1枚に目が留まった。そこには太い1本の樹木の根元近くにむした苔にこれでもかと降りている霜が映っていた。
そういえば霜を見る機会がほとんどなくなって久しい。土があれば霜が降りたと分かるのであろうが、今の住まいの外へ出るころには既に消え去っているのだ。それでも霜は自分にとってある頃までは随分と身近な存在だった。
怡庵が小学校低学年の頃のことである。「東京都」といえばカッコいいが、それは名ばかりで都会でもない畑ばかりが広がる田舎だった。いや畑しかないという方がふさわしいところだった。うちの辺りはみなどこも百姓家で畑を相手に一年中仕事をしていた。集落は左右に伸びる都道沿いにきれいに並んでいた。その道路には防風林としてけやき並木が形作っていた。
家々から歩いたら5分以上かかる南に、都道と並行したように町道が走っていたが、そこまでが各々の持ち分で、耕作していた。野菜を主に作り、ある農家は麦を、また陸稲を収穫していた。また、雑木林を持って、そこで落葉した葉を堆肥として利用するところもあった。
南北に走る道路は要所要所にしかなく後は各家が畑道を作っていた。若い人に分かるだろうか。畑へ行くための道で当然舗装されていない土の道だ。
この道を歩いて公道に出てそれをとにかく西へ突き当りまで歩いて行くのが常だった。その突き当りに小学校はあった。父親たちが通った小学校でもあった。
日々畑道を歩くのだが。冬になると当たり前のように毎朝霜がおりた。畑には霜枯れて頼りなくなった大根の葉の列、形が違うので牛蒡の葉だと分かるものみなすべてがまるで白く粉を吹いているようだった。何も植わっていない畑も畝になっていればその形に、平なら平らに霜がおりて真っ白な世界だった。ただ白いといっても雪が降ったのとは違うが。出荷しないで取り残した細い白菜もしなびたように元気なく見えていた。それらを見ながら足元の霜柱をつぶしつぶし、少しばかり爽快に歩いたものだっただろう。
ただ。
行きはよいよい帰りは…というが。小学生の低学年は比較的早く帰る。給食を食べて「さようなら」だった気がする。学校を出た当座は何人もいた友だちも次第にひとり減り、ふたり減りやがてひとりになっていき。
さて。
朝来たのと同じ畑道を戻るのだが。この時間の畑道はとてつもなく厄介な道に変貌していた。チューブ状のチョコレートはご存じだと思うが一面があの状態で自分の帰りを待ち受けていたのだ。「さあどうだ、通れるものなら通ってみろ」そんな感じだ。練りに練ってグニュグニュ。色も泥だからまあ同じようなものだが、さすがに食欲はわかなかった。
グニュグニュの中の少しでも歩けるところを探して歩く。間違えばズック靴を取られる。小1なんかにとってはどうしようもなく難儀する。身体もそれほど大きくなくひょろっとしていたから安定感がなかった。もし間違って足を下せば靴下ごとグニュっと。しくじったと思ってももう遅い。足を上げて靴下を脱ぎその足を靴に戻さなければいけない。慎重に、慎重に。万が一また泥の中に足を置いたり、尻もちをついたら悲惨極まりないことになる。そうでなくても長ズボンにべっちょり泥がつく。当時は品もよくなくただ裂が縫い合わせているような長ズボンだった。上手く歩かなければ裾が泥んこにもなる。
失敗して、「洗濯が大変だ」とおふくろよく叱られた。泥というやつはなかなか落ちてくれなかった。そうでなくてもちょろちょろしていた怡庵だから汚して帰る方が多かったから。
ともかく普通に歩いても5分以上かかる道をそうやって日曜日以外は往復しなくてはならなかった。朝になれば悪戦苦闘をけろっと忘れて出かけていくのだが。
そしてまたぐるっと大回りをすればそこを歩かずにすんだかも知れないが例の「通学路」とかの問題があったかも知れないが、親子でその話をした記憶もないのだ。小3の終わりまでこの道の往復は続いた。
小4になるところで児童数増で小学校が家の近くに新設され転校することになったのと、その影響でか新しく舗装された道が造られたので、この「格闘」からは卒業できた。
それでも、「霜」を見るとどうしてもその頃を思い出してしまう。あのグニュグニュ道を。ふらふらと足を取られなが
ら歩く幼い自分の姿を。