「時間は平等」は虚構である
昨日は、久しぶりの学校であった。
1限に間に合うために6時40分に家を出るという生活はあと2年あるらしい。
距離以外、学校は本当に好きだ。
私はふと思うことがあるが、
時間は果たして平等なのだろうか。
多くの人が言う。
「時間は平等である」と。
容姿や家庭は選べないが、時間だけは平等だと言われてきて育ったのではないだろうか。
本当にそうだろうか?
私の答えはNOである。
例を出してみよう。
お金があれば、バイトをする必要もないからバイトに費やす月80時間は浮くであろう。
満員電車に押しつぶされることもなく、タクシーで本を読んで移動することもできるだろう。
また、ご飯を自分で作る必要もないし、家事を人に頼むことだってできる。
お金があれば、時間を買うことだってできるのだ。
世の中の人は、お金というと悪いイメージを持ちがちな気がする。
もちろん、不当であることや、人を騙すことは全く話は異なる。
しかし、お金は生きていく上で絶対に必要であるし、お金があれば時間だって買うことができる。
だから、世の中の時間は平等であるという認識は虚言である。
時間は平等であると思わされているだけだ。
ここまで読んで嫌な気持ちになってしまったなら申し訳ないが、批判するつもりはない。
私の一意見、個人的見解であるので流して欲しい。
ここまで言っているが、人生の中での時間という意味では平等だろう。
昨日の1時間と今日の1時間、明日の1時間は、全て同じ1時間に変わりはない。
同じように、今、生きている1年と死ぬ前の1年間も同じ1年間である。
もし、明日死んでしまうとしたら、今日の時間の使い方に自信を持てるだろうか。
胸を張って生きるために、努力で変えられるものは全部変えていけるように頑張ろうと思う。