【共感がなくても共鳴は起こる】
noteの面白い企画 #熟成下書き に参加します笑 書き上がらずにしばらく熟成させていましたが、公開します!
伝え方を学ばなくては。。。そう思ったことありますか?
2021年に「誰もが自分の経験、知恵、学びをシェアできる世の中に。」というビジョンを持って、学びの場を作りたいと思っています。それをnoteに綴っていきます。
私も伝え方を学びたいと思っていました。スーパープレゼンテーション!系のものはいろいろ読みましたし、研修も行きました。大学で教鞭をとっていることもあるので、場数はあり、テクニックと度胸はそれなりに磨かれました。ですけど、私は「伝わらない」で悩み続けました。
自分としては世の中にも十分意義のあることだと思ったことでさえも、話題にならず、時には門前払い的に話が終わってしまうこともありました。
わかってないなぁ。だから、世の中はこんななんだ。。。
みたいな愚痴を漏らしたり。
これをわかっていない人がおかしいという考えがありました。
でも、今はそういうことで悩まなくなったんです。
なぜなら、自分自身での解決方法がわかったから。
それはずばり
共感を求めない
でした。
共感、共感とあちこちで言われていますが、私自身は「そこでいう共感ってなんだろう?」という違和感もありました。
もちろん相手の立場になって思うことはするものの、結局は当事者並に共感することはできなかったのです。
どうしてもやや冷めている。
なぜ?
私は冷たい人間なのだろうか?
話を想像できなかったり、自分にはないものであっても、通じ合う方法を見つけたい。と思ったのです。
私は共感と聞く時に、優しさや思いやりというソフトなイメージです。
ですけど、自分自身や周りのいわゆるトンガった人たちを見ていると、そういうイメージではなくて、魂をぶつけ合って、それで最後はわかり合うという感じがします。喧嘩ではないんですけど、わかり合うために、ぶつけ合う方法を取る人がいます。否定的なことも、はっきりというタイプの人です。好き嫌いもはっきりというタイプの人です。
地球上にはいろんな人がいる中で、共感だけでは通じ合うことができないものがある。その感覚が私にあったのです。
ではどうしたらいいのか?
それは、その相手と話している最中に違和感を感じたら、応えるのではなく質問することだと思います。
ある日、こんなことがあったんです。
私が「誰もが自分の経験、知恵、学びをシェアできる世の中に。」というビジョンの話をしていた時でした。
それはどういうこと?と聞いてくれた方がいたんです。
私は、今できる限りの表現で思いを伝えました。しかし、伝わった感覚がなかったのです。それは、相手の反応がこんな感じだったからです。
「そんなのもうとっくにあるでしょ」
「弱い人をかわいそうだと思って助けたいの?」
「愚痴ばっかり言っている人は、自分が悪いんだよ」
私の話がまるで弱者救済サービスのように聞こえてるのかな?と私は「解釈」をしました。そうじゃないんだと思っても、相手にはそうにしか聞こえなかったようです。
ああ、伝わらない。もっと考えなくては。。。もっと言葉を選ばなくては。。。
というのが以前の私。
私は相手が自分の期待と異なった反応をした時が「わかり合う」チャンスだと思います。