わたしが行きついた 【わたしで在る】ということ それは わたしが感じる気持ちを大切にするということ わたしから生まれた望みを無視しないということ 誰かの期待に応えて 誰かより秀でようとして 本当はどうしたいか? 本当は何を感じてるか?を無視していた期間が長かった過去の私は わたしであってわたしでなかった。 わたしの体はあるけれど わたしの心は死んでいたと思う。 【わたし】を取り戻しつつある中で 感性、感情という 感覚一つ一つが わたしの成分を作り上げていて わたし
思いがけず 自分に刷り込まれていたことに 気付いて 朝からハッとしたんです。 それは何か?というと 【人のことを悪くいうこと】 わたし ずっと人の悪口を聞くとき ザワザワしてたんです。 嫌な気持ちになるだけじゃなく 気分が重くなってしまって 一緒に泥沼に沈むような感覚を味わっていたんです。 なので 私自身も 相当追い詰められない限り 誰かの文句や悪口を言うことを 無意識に避けていました。 でも 胸の内にとどめて どちらつかずの態度を取ることも 何気にダメージを喰ら
焦ってたり 不安なとき 今ここに心がない時って イライラするよね。 今、ここ に気持ちがなくて 過去や未来に意識が向いてる まさに 【ココロここに在らず】で 落ち着かない。 過去、未来 いいことを見てる場合は ふわふわしてお花畑みたいな感覚だし 嫌なことを見てる場合は 苦しくて悲しくて苛立ちが溢れる感覚。 でも どちらも 【今】のわたしがおざなりになってしまうものだと思うんだよね。 どちらの場合でも 今に意識を置くことが大切だなぁと わたし自身が感じる理由
メンターさんと話していて思った。 人生は実験なんだ、と。 とりあえずやってみて そこから見えたものや 感じたことをもとに 次の行動を起こす。 いつまでもいつまでも 実験は続き きっと最期はこういうんだろうなぁ… 「あぁ、楽しい人生だった」って。 そう生きたい、そう思った。
子どもたちがする音読 いいこと言うなぁと感じながら 毎日「音読聴かせて」とお願いしています♡ 息子たちからすると なんでやねん?自分で読んで??って 思っている様子ですが… 息子が読んでいる国語の教科書に 【弱いロボットだからできること】 というお話があります。 このタイトルを初めて聞いた時 どんな風に話が広がるんだろう?と 思いましたね。 この話の内容を聞きながら わたしは 【弱いロボットだからできること】は 全てにおいて通じる話だと感じました。 発達障害、 周り
約一年ほど前から ラジオ体操を全力でやっています。 小中学生のときは これやって意味ある??ってくらい 余裕のよっちゃん!で 難なくできていたことなのに 43歳になった今では こんなに筋肉使うの!?ってくらい 息が上がります(笑)!! 身体の柔軟さや 筋肉量が減ってるんだなぁと やり始めた当初は思いましたし なにより 身体を思うように動かすことができなさすぎてショック…!というのが 率直な感想でしたね。 今は ヒィヒィ息は上がるけれども 可動域が広がってる感覚や 脇腹、
合わない人に対して 怒りの感覚をもって排除する、 というより あーそういう考え方なんだなぁって 心から感じられるようになると 世界が広がる気がするなぁ… 自分の心を大切にしながら 他人も大切にしてるような気がする。 これが腑に落ちたら面白いだろうなぁって思いながら呟く♡
とりあえずやってみた 【イラストを30枚描く】ことから わたしの中で ある変化が生まれました。 その変化、とは わたしの絵に価値をわたしがつける というもの。 というのも わたし自身 絵を描くことが好きで描いてるけど 【絵を学んだこと】はないので そんなわたしの描く絵に 【価値】をつけたことがなかったんです。 そもそも 価値なんてないと思っていたくらい… だから絵を描いて よかったらもらって欲しい!と 大切な人にプレゼントしていて。 でも これって 逃げていた
とりあえず やってみる。 やる!と言ったことを やり遂げてみる。 これって 途中で投げ出したくもなるし 何でやるとか言ったんやろ?とか いろんな感情も生まれるけれど やりきった時の達成感は やったことないことをすればするほど 大きくなるもんだね。 それは 当たり前のことなんやけど 【自分の決めたことをやり遂げる】 ことは 【自分との約束を守る】 ことになる。 それは 【自分を信じる経験】 になって 結果として 【自信がつく】 と、なるのを はっきり体感しました。
わたしが 今日感じたことは 【視野を広げる生き方がしたい】ということ でした。 わたしが楽しくできていて エネルギー乗ってたら ぜーーーんぶうまくいくに違いない!と 我流でやってきてるけれど それだけでは うまくいかないこともあるんだなぁと感じたんです。 原理原則を知る、というか 基本的なことを踏まえないと エネルギーだけでは まかないきれないこともあるんだと 考えさせられたんです。 でも そうだよなぁと 改めて感じたというか… 水泳で例えたら 浮くことや息継ぎ、バ
いろんな出逢いがあって そこで いろんな気持ちを感じる。 それが 気重な時もあったけれど 今はその出逢いを通じて 心がどう動くかを楽しんでいる。 心が動くとき わたしを俯瞰してみているわたしがいて ますます愛おしくなるんだ。 情動が動くって 生きてる感じがするからなのかな
これは わたしがよく自分自身への問いかけで していた言葉です。 「それってほんとにそうなの??」 この質問って 自分が自分の思い込みに気付くための 魔法の質問な気がしてます、勝手に♡ 例えば 何か物事をするかしないか決めるにしても 「こうやったら 批判されるかなぁ… また馬鹿にされるかも… うまくいくはずかないよね…」 なんて思ってる時 「それってホンマにそうなん?」と聞く。 すると不思議! 少し不安にのまれているわたしが 視座が高くなるというか 冷静になれるん
誰かと比べて いいことなんて ひとつもない。 あの人は わたしより ココが優れてるとか すごいとか… そんなの 比べて疲弊するだけだった。 わたしはわたし あの人はあの人 果物に例えるなら リンゴなのに 他のフルーツになりたいって 言ってるようなものだったんだ。 タンポポが バラを羨ましいと 言ってるようなものだったんだ。 りんごにはりんごの タンポポにはタンポポの ステキなところがたくさんあるのに。 誰かと比べて 誰かになりたいと自分を否定するなんて 悲しい
今日は 長男の12歳の誕生日です。 何年経っても 生まれた日のこと 生まれるまでの日のことは 昨日のことのように想いだします。 長男が生まれたことで わたしは 一つの布石が投げられた、と 感じています。 それまでたくさん人間関係に悩んできたわたし。 その悩みの根源は 【嫌われたくない】という わたしの想いが引き起こしたもの。 嫌われると 必要とされなくなって 孤独になる そう思い込んでいたわたしに 揺らぎを与えたのが 長男でした。 こんなにも大好きなのに こんな
自由になりたいと思いながら 自由になることを拒否していたんだなーと 気が付いたとき なんか納得、という感覚になったんですよね。 「自由になった時 自分で全部決めなきゃいけない。 それがもし間違いだったら? それがうまくいかなかったら? そこまで考えて動くくらいなら 自由なんていらない。 その方が安心だもん」 そう思ってたんですよね。 たしかに安心、だったなぁと 思う。 自分で考えることをしなくていいし 何かあっても わたしのせいじゃないもんね。 でも それ
「一人でいい。 結局人はみんな一人なんだ」 ってわかってても 「一人は嫌で、みんなと一緒がいい」 って思うわたしがいるし、 「嫌われてるいい」 と思ってても 「嫌われたくない」 と思うわたしがいる。 それでもいいと、ふと思う。 人間らしいじゃない?って思う。