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肉体は一時的な借り物である



肉体は一時的な借り物であると思っています。

自分が、一定期間中にただボデーを持ち合わせているということです。

それも限定的にただ、神様から預かっているのだと思っています。

僕の今あるボデーは、僕が生まれる前に既に誰かが持ち合わせていたんだと思いますし、僕が死んだ後も僕の体というのは、また誰かに引き継がれるのだと思っています。

“輪廻転生”ではないですが、僕はそんな世界観で自分の体という存在を捉えています。

確かに今の僕の体は、字の如く僕のものというふうに一般的には思いがちですが、僕はそのようにはあまり実感がないんです。

ただ神様から箱を、入れ物を借りているというのが、表現として表すのであれば、それが1番の適切な言い方でしょう。

キリスト教では、精神(soul)とボデー(body)の感覚が、日本とは異なっているというのは、よく感じます。

例えば、ご臨終した際に日本では、”あの人は帰らぬ人となった”と表現することがありますが、西洋ではあの人をそのように表すことはあまり聞いたことがありません。

あの人の体(body)は無くなったけど、あの人の精神性(soul)は今もご存命である、というニュアンスをよく浴びます。

アスリートがパフォーマンス前に、天に向けてサインをするあれです。サッカーならゴールをした後に、陸上ならスタートを切る前に
パフォーマンスをするあれです。

日本人では、あまりそういう光景を見ることがないと思いませんか?

それは、日本と西洋とでは死生観が違うからだと僕は思っています。


殉教者の生きるか死ぬか

“殉教者”なんて、まさにいい例です。

殉教者は自分が信じている宗教が棄教させられたり、迫害を受けた際に迷わずに自らの命を立つという人ですが、これもsoulが永遠に不滅だからという前提で立っているからある意味、死を選ぶことができてしまうのです。


魂は永遠、体は一時

もしその殉教者も、魂を軽んじて、ボデーに執着するのであれば、当然生きる方を選択すると思いますが、もうその人は厳密では一神教ではなくなっているので、もうそうなってしまったらその人は本当の意味で信じるものがない状況になるのだと思います。

そうなると信じていたふりをしていたことになります。

だから、多くの一神教者は、迷わず永遠というsoulを選ぶことになるんでしょう。

自分自身を永遠に汚しておきたくないから、汚すくらいなら入れ物はくれてやる、というニュアンスに近いでしょう。

つまり、肉体よりも魂をより大事にしているんだ、ということがわかります。


で、僕個人的な話に戻りますと、僕も宗教的な信じる信じないというのは、あまり馴染みがないというか、薄くどちらかというと無神論者だと個人的には思っており、彼らのようなsoul or body?の究極的な2択を迫られることはないんですが、(苦笑)

マインド部分では、西洋的な感覚に近い感じを持っているように感じます。

だから、僕はいい意味で自分の体に変に固執することもなく、執着することもなく、見返りを求めたりが少ないように思えるのです。


筋トレ界隈のsoulとbody

筋トレ業界で、

「こんだけ筋トレをやってるのに、筋肉がまるっきりつかないじゃないか!!、、」

「仮に僕が早い段階で、筋肉がついていなかったとしたら、恐らく今は大会に出場なんてしていないだろう、、」

なんていうフレーズをよく耳にしますけれども、(それは有名な人も含めててですよ)僕にはありえない感覚ですね。

聞いた時は、なんでそう自分の体に固執しているんだろう、という素朴な疑問が即座に感じました。

でも、これは先ほど見てきた死生観じゃないですけど、その人にその感覚が馴染んでいるかそうでないかの、違いなので。


僕の言葉で言い表すのであれば、筋肉に見返りを求めているのか、いないのかという以前出した記事にも、書いたようにそんな感じが映ります。

平たくいうと、僕は筋トレ行為自体が、楽しいのでいわば、soulにより忠実であるということがわかります。

仮に筋肉という見返りがなくても、それはそれでまた、楽しさを見出している感じが僕にはあります。

だけど、一般的にはそうではない方が多いそう。

筋トレを通して、一定以上見返りを求めてしまうというのが実際のところでしょう。

確かに、始める動機にしたって、

「女の子にモテたいから」

「大会で勝ちたいから」

「自分を悪く言った奴を見返すために」

という少し打算的な感情、soulよりもbodyにより、近い感情、執着を感じてしまいます。


と、ここまで肉体についてのマインド部分はこの辺として、各々が各自で自分はどちらより側なんだろうか、ということを考えて頂くこととして、

今回は個人的に、この前提に立った上で考えることは、


肉体は借り物なんだから、だったら借りた状態よりも、それ以上いい状態で返してやろうじゃないのかい、と思うわけです。

これは例えると、”利子”に近い感じです。

借りた額よりも、それを上乗せして返金をするという感覚が僕にはあります。

そうしないと、なんか申し訳ない気持ちと言いますか、なんか神様に対しても、今生きている僕のbodyにしても、過去の貸出人にも、来世の僕にも失礼だなぁと思ってしまうから。

ぐうたら
無気力
怠慢
怠惰

こんな表現が相応しいでしょう。

実際として、これらは僕が毛嫌いするワードですし、そんな人生を僕は望んではいません。

一方で、僕が好きなタイプのワードは、

ミッション
使命
存在理由
血気盛ん

という言葉を見ると、全身からワクワク感が走って、なんか頑張りたいなぁ、と強く感じてしまうのです。


唯一の神様が、唯一の僕にだけ、唯一の体を与えてくれた

これ以上の偶然はないですし、これ以上の喜びはないんです。

だったら、人生を謳歌して薔薇色を、そして我が肉体に筋繊維を走らせてみようじゃないのか、と心強く感じるのです。


筋肉代行屋 J

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