筋肉という見返りを求めるのか、求めないのか
こんにちは。
筋肉代行屋 Jです。
今回の記事では、筋肉をつけていく過程で思うことを僕なりの考えをシェアしていきたいと思います。
これまでの記事では、トレーニングをしていくこと自体の方法を伝えたことはありませんでしたが、筋肉がつくということは人生という単位を考えるといかに楽しいものなのか、素晴らしいものなのかということは、それはそれはもう口うるさく発言してきたと思います。
つまり、筋肉量に比例して人生が愉快になると。
そう断言していたと思います。
でですが、勿論筋肉がついて肉肉しく逞しい体つきになると、日々の鏡の前でのニヤニヤ感は止まらない、辞められない、気がつけば1時間過ぎている、なんてこともあるかもしれません。
結果として、バルキーな体つきになることが日々の充実感に繋がり、そして日々の心の精神安定剤になっている状況であると。
確かにそうなんですが、こういったある種の”筋肉という絶対的なものである”と認識している時は、筋肉というものに依存心といいいますか、フラットの目で見てみると振り回される感じが強くなっていくというのは、ぼでぃーびるだーや、ふぃじーかーを見てみると強く感じます。
その代表的な例として、”筋肉に対しての見返りを求めているのか、そうでないのか”という基準が大切になってくるのだと個人的には強く思います。
この見返りを期待するというのは、日々の筋肉をつけていく為のその過程となるトレーニングや食事や、休養という部分です。
つまり、「これだけやったんだから、当然こうなるよね?」という感覚です。
トレーニングという要素でを例に取ると、恐らくトレーニングをしている殆どの人が、筋トレをやっている目的、理由は何ですか?と問われたとしたならば、筋肉をつけて、かっこよく美しくなりたいから、
と即答すると思います。(え、それ以外あるの?とおまけに平然とした顔をしながら)
“頼りないこの細い腕”を、
“乏しいこの胸板”を、
“厚みがなく頼り甲斐がないこの背中”をね、
そんな劣等感や、コンプレックスを抱いているのであれば、当然としてトレーニングをしている理由はこれらのコンプレックスを克服し、自分が理想とするボデーを追求したい、
という欲求がまさに先行するでしょう。
筋肉がつくんだという感覚、態度が日々の運動をする源泉となっているわけです。
若い方であれば、筋肉の成長具合も早いですし、過去にとんでもないくらい程の、バーガーキング然り、ミスタードーナッツ然り、等々いわゆる、ジャンク系統を食べ尽くしに尽くした大食漢と言われる人々は最初の数ヶ月で激減することは容易いため、何かと近視眼的な発想に至りやすいと思います。
1年前より
1ヶ月前より、
1週間前より、
昨日より、
という過去の私と現在を比べて、日々のボディーメイクのモチベとしている、
そんな境遇だと思うんです。
こういった心境は仕方のないことですが、僕がここで強く言いたいことに、その”過程も含めて日々を楽しめていますか?”ということなんです。
日々の行為(筋肉がつきそうと思って運動をすること)に対しての見返りを求めたり、少し打算的な自分への利己的な考え方や、自分本位の考え方がその言動に強く現れているのではなかろうかと思うのです。
そういう生き方って、すごく都合良すぎやありゃしませんか?
とフラットに考えてみるとどうでしょうか?
そういった類のものは良く目的思考、逆算思考と言われ、計画通りに実行できていない行動は、意味がないんだ、効率性が悪いんだ、
と真っ先に会社勤めのおっさんや、オヤジと言われる世代の人とかが顕著に言う言い回しかもしれませんが、そこには一切として筋トレというロマン度数が削り取られている感覚があります。
筋肉という素晴らしい物体への敬意が欠けると言いますか、体を動かすということは人体ではどう機能しているのか、
という人間としての崇高な営みを無視しているような、すごく甘く見ているなぁとSNSを始めとする人を見て感じる事が多いです。
「筋トレは筋肉だけを養う行為ではない」
ただ器材をぶん回して、はい、このくらいの重さをこのくらい振り回したからこのくらい筋肉がつくよね?というある種舐め腐った態度、姿勢が僕にはすごく違和感を覚えます。
そういった打算的なマインドで生きている人ほど、怖いものはありません。
よく巷のひ弱な、女性陣が最も言いそうな(実体験として言われたことに)代表的なのは、”筋肉は最高のファッション”だよね?
というよく聞くフレーズですが、
これこそが”見返り人間の典型的な一例”だと思います。
この発言をする彼らがどういう意図で、それを言っているのかは分かりませんが、もしこれを面白おかしくジョークで言っているのであれば、その人への価値観は賛同しますが、
これを心底で本心でそのように思っているのであれば、一見ちょっと僕とは同じ、筋トレをするということは同じでも、同じトレーニング歴5年と言われても、違和感でしかないですし、何よりも嫌ですね。
筋肉を軽んじている、ただの目先思考で、ただよさげそうなエクササイズを行い、人類が何百年とも言われてきた筋肉DNAを培ってきた太古の歴史を真っ向から否定している感じが映ります。
“”筋肉を単純消費、お手軽メソッド、あわよくばファッションとも絡めちゃえ””
という精神性の輩とはだいぶ、系統が異なります。
「君には、誠の愛があるのかね?」
と思ってしょうがありません。
自分本位で、自分からの方向性でしか考えられず、筋肉との対話をしてみようという相互からの関係性がまるでなっていません。
究極的には、筋トレという行為を純粋に楽しんでいないのでは?と薄々感じています。
だって、そこには見返りをするという依存性が伴いますので、トレーニングを3年以上やってきた人ならわかると思いますが、
一定数のところまでの筋肉レベルに達したら、そこから停滞期が大なり小なりと発生してしまうので、その瞬間では筋肉への見返りができないからです。
“ああやってもだめ”
“こう工夫してもいまいち”
と筋発達がされているのか、それとも低下しているのかということがわからないほどに、体の変化がないわけなので、当然として、見返りマインドという生き方ではきついのです。
この現象は僕の経験談から言いますと、トレーニングを始めて2年くらいまでと見ています。
つまりは、トレーニングを始めてから2年間の間でどれだけ筋トレというものに対し、真剣に向き合っていくのか、
筋トレの意義であるとか、自分なりの価値観がそこに反映されていないと、どう考えてもそれからの2年以降からのトレーニング感が陳腐なものになるざるを得ないでしょう。
要は、2年間かけて”筋トレロマン度数”を増やしなさい
僕はトレーニングを真剣に始めたきっかけは、日々のたるんでいる生き方を改心したいと思い、まずは物理的なストレスで、、
というわけでトレーニングを初めた理由が大きいのですが、それ以外にも当然コンプレックス、劣等感という感情で実行したとも言えます。
最初の動機として、殆どの人がこの見返り感が大なり小なりあったと思いますので、それはそれで別にいい事だと思います。(打算的な生き方)
最初は外的なモチベーションで、始めることもそれはそれで、かっこいいです。
が、それだけですと筋トレという素晴らしい、あらゆる可能性が秘めている稀有な感情に浸れないので、2年という期間で、体の内から来る内的なモチベーションを高めて貰って頂きたいなと極めて個人的には思うのです。
これが常々申している、生き甲斐や没頭に直結しますし、最終的には他人以上に幸福感を強く感じて、日々充実しているんだという実感のもと、筋トレしかり、ビジネスしかりと進んでいけれるのだと思います。
これと似た様な感覚で、こういうものがあります。
「”ごめんな”と言われたら、”先ずはいいよ”という感覚」
普段生きてきて、どうしようもない救いのないようなやつと会ったこと、若しくは同じ職場でともにしている人がいるかもしれません。
そんなどうしようもない奴ですので、どうしようもないことをして、どうしようもない態度に日々頭を悩ましているかもしれません。
何かをしたら、いちいち揚げ足を取ってくる。
いちいち感情的で一向に会話なんてできやしない。
が、いつもぶっきらぼうで、人相が悪い人でも、何かがきっかけで今まで気になっていた態度がそう気にならなくなってきた。
心なしか、少し彼の”表情が柔らかく”見えてきた、、
となぜだが思ったりもする事があります。
彼とは一度も本心で会話を交わしたこともなく、彼の前で笑顔を見せることもないのですが、そのような表情がふとした時に転換するのは、彼という生き物自体、今発言した諸々を含めてリスペクトをするという精神性が持てれるのか否か、
つまり、自分の心が健全であれば、今までとなんら変わらない彼の表情も、ふと柔らかく感じたり、温かみを僅かに厳密には彼からの表情から汲み取れる気がします。
そんなごめんなに対して、いいよという精神性でいることが大切なのではないのかなと思うわけです。
つまり、彼の現象(”ごめんな”)に対して、先ずは”いいよ”という思考が働くということ。
そこには、彼の存在としてのうざい奴だからという理由で耳を塞ぐのではなくて、僕とは合わないから絶対に許さないというのではなく、
まずは、その一言動としての評価、フィードバックをするべきであると。
彼にも何がしかの理由で口を発する訳ですが。
ここではその発言する内容は吟味しませんが、少なくともまずは聞き入れるという態度が必要ではなかろうか、と色々な場面で思う事が自身も含めて多いです。
聞きいった後で、彼の人間性を詳しく見ていけばいいのではなかろうかと思います。
今目の前で起こっている現象をまずは楽しんで(筋トレ自体)、そこから意義性だったり、効率性を考えればいいじゃんと思います。(筋トレの効率性)
今では何か新しいことを学ぶ際に、その前から外野の声というものが足枷ではないですが、不安要素が実際に行う前から襲ってくる感覚があります。
これは意図しなくても、半自動的に耳に入ってくると思います。
ですが、まず真っ先に考えることは何よりもまず自分という素晴らしい一人の人間が、良いと思った感性をまずは褒め称えるべきで、
そこから自分という内なる声との対話の中で自己磨きをしていくのが幸福論的に考えるとい非常に建設的なんだと思います。
と、この様に筋トレに対する態度が何気ない日常でも垣間見えることが多々あります。
そういう訳で、まずはそれ(筋トレをするという行為)を楽しめばいいじゃんということです。
純粋に鉄のバーベルを持ち、挙げ、押して、引いてという行為自体を楽しんで、筋トレというものに向き合ってくだせぇー、と。
それが楽しいなら続けて、それが嫌なら距離をおくというジャッジを2年の間で判断を下し、
それから、筋トレという行為自体を探求していけば宜しいのでは、と個人的に感じています。
人間という表情も時間をかけないとわからないのと同様に、筋トレという行いも時間をかけてみないと、その素顔はわからないのです。
筋肉がつきたいという思いが独り歩きになっているという現状に少し違和感を感じていたので、僕なりの気持ちをシェアしてみました。
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Ps:
筋トレ人口って日本では数年前に比べれば増えてきているものの、果たしてその中から本当にトレーニングが好きで、筋肉の見返りを求めずに一体どれだけの人がそういう姿勢で筋トレをしているのであろうか?
普段ジムに通っている習慣がある方がいれば、ジムにいる自分の近くにいる人や、辺りを少し見渡してみて下さい。
どんな表情でトレーニングしているのかな、二人以上いればどんな会話をしているのかな、その人にとっての筋トレとはなんだろうか、
と自身がトレーニングする合間に少し考えながら、トレーニングをしてみると自分のトレーニングに対する向き合い方に”新鮮度”を覚えますよ。
そして、それが”自己生成”、”理解”をする上で欠かせない日々のワークになるんだと薄々思っています。
筋肉代行屋 J