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今日TMS治療を受ける 治療前

可塑性、不可逆性を検証するため、TMS治療1時間前の気持ちと考えを文章に残しておく。

知り合いにたまたまTMSを受ける人がいた(その人はADHDと鬱を診断され自費で受けた)のでそこまで怖くはない。保険が適応される&自立支援が適応されて、格安、もしくは無料で受けられるので、金銭面の心配はない。

今日から2ヶ月間、朝の10時半からTMSを受ける。計60回。朝起きるのがしんどい気持ちもあるが、朝方生活に矯正されて日光を浴びることができるのでそれはそれで。

前にnoteで書いたのは、鬱病が脳の炎症なのではないかという仮説と、それに対する現代的なアプローチとして脳に電気を流すTMS治療というものがあるらしいが、受けても良いものか悩む。怖い。というものだった。
それでも、慶應大学病院という大規模で有名な大学病院で受けれる治療であれば怪しい悪徳治療ではなさそうという安心感と、保険適応されれば安く済むという事、あと多分一番大きな理由として、「4年間投薬治療を受けていて、十分に可塑性のある治療をしている、既にリスクを負っているのだから、今更気にしてもしょうがないだろう、むしろ以後投薬治療を減らす無くすができたらそちらの方が身体にいいのではないか」という考えがある。

昨日、ハヤカワ五味さんという実業家でAIを追っている人のブログを見た。その人は自身が双極性障害のⅡ型であり治療を受けている事を数年前にアクティング(公表)していた。その事を言及しているハヤカワさんのnoteには、「自分の積極性やある種の狂気のようなものは、双極性障害の躁状態に因るものなのではないか、治療する事でその部分が失われる=自分が自分でなくなるのではないか、という懸念をしていた」と書いてあった。だけど、治療をして寛解をしている今、自分が自分でなくなった感覚はなく、むしろ自分らしく生きることができるようになった、とも書いてあった。

自分らしさとは何か、自分の創造性や情熱は躁由来のものなのか、それが失われたら自分はどうなってしまうのか、それらに対する押し込めていた不安が、こうやって言語化している人の記事を読んで、少し安心した気がした。

「この高校でよかった」という感想を僕は全く信用してない。だって、その高校じゃなかった世界線を知らないのだから。比較しようがない。この話はちょっと違うかも。
何がいいたいかというと、ハヤカワさんの「治療を受けたけど、今の方がむしろ自分らしい」という感想に対して訝しく思う気持ちもあるという事。だって自身が観測者であり、その観測者が何用かで変化してるのだから。あれだ、高校理科でやる対照実験になってないのだ。

最近、自分自身とその生活を客観視して、「この動悸は何由来なのか」や「なにが原因で鬱になったのか?コロナか、自我の芽生えか、当時の彼女か」、「この状態が続くとしたらどう日銭を稼ぐか」とか。

その中で見えたものの一つに、「どうやら交感神経がずっと優位になっているのかもしれない」ということがある。交感神経は緊張とか昂りの時に優位になるもの、副交感神経はリラックスしてる時に優位になるもの、とザックリ認識している。

何をソースにどう思ったのかは覚えてないが、交感神経が優位になっている状態は「戦うか、逃げるか」状態ならしい。この、「戦うか、逃げるか」というフレーズにピンとくるものがあった。

確かに、鬱になった当初の、下北沢のルームシェア時代は、中退してやれることとやりたいこと、やるべきなことが一気に増えて頑張ってた時、その後身体が動かなくなって、ただただ強い焦燥感だけある状態な時だった。それ以降も、最近も、鬱じゃない時はそれまで動けなかった分を補うように、いつ鬱になってもいいようリードを稼ぐように、ぐぉっと集中して焦りながら作業をしていた。これは多分「戦っている」状態だったんだと思う。

もちろん、臨戦体制をずっと保つことはできない。ライオンだって休んだりする。だけど、交感神経スイッチがずっとオンになっている状態で、ガソリンがなくなった状態。ガソリンがないのにエンジンだけ回そうとしている状態は、「戦うか、逃げるか」の二択なら、「逃げる」しかない。

身体は逃げているから必死に休もうとする=身体が動かない、気力が湧かない(これは脳の物理的状態由来かな)なのに、交感神経はオンになっているから気持ちだけは「戦う」状態になっている。気持ちと身体でチグハグになっていて、それがより辛さを増す。

こんな状態だった&状態ナウなのかもしれない、と考察した。

なので数日前から、「ちゃんと副交感神経をオンにする」を意識してみてる。多分まだうまくいってないけど。3,4時間ぶっ続けで休憩なしで集中して作業することが多いのだけど、なるべく休憩して頭を休めるようにポモドーロを実践してみようかな、とか思っている。

今は2024年7月30日、9時40分。慶應大学病院1階の受付スペースで、10時半からのTMS治療を待っている。

動悸がしている。ちょっと苦しい。深呼吸をして、大胸筋の付け根を揉む。少しでも身体をほぐす。

こうやって気持ちや考えを言語化して文章に残す事が最近できるようになってきた。Twitterに気軽に投稿できるようになってきた。これは多分、奥さんと2年間ほぼ毎日続けている交換日記のおかげかもしれない。素直に、人にどう思われるとか気にせず、思ったこと考えた事を出力できるようになってきた。

この記事は、1,2時間後の自分へのタイムカプセルかもしれない。「カッコウの巣の上で」でロボトミー手術を受けた主人公のように、何も考えられない人になってたらどうしよう。腕脚が無くなるよりもショックかもしれない。

「何のために生まれて、何をして生きるのか」という命題について私はニヒリズム(虚無主義)から一周まわった「超ニヒリズム」として考えを持ってる。

1 すべての事象の根底に虚無を見いだし、何物も真に存在せず、また認識もできないとする立場。 2 既存の価値体系や権威をすべて否定する思想や態度。

コトバンク

通常のニヒリズムを噛み砕くと「人生に意味なんかねーから、お前が何しても無駄だよ」だと思っている。僕はこの自認から一歩進んで「人生に意味なんかないし、自分が何をしても日本も、地球も、太陽系も銀河も宇宙もなーーんも影響ないんだから、じゃあせめて自分が好きな事を好き放題しよう」だ。もちろん、犯罪やりまくるぜ的な思想ではなく、自分が幸せになることに全力になろう、やりたくない事をしてる場合じゃねぇ、の思想だ。

このような思想を持っているので、「自分で考え、道を切り拓く事」が僕が自分らしく生きる上での必須事項なのかもしれない。

つまり、もし自分が自分でなくなる状態、例えば加齢によるボケな状態の自分は、もう自分の手元を離れ自分でない者になってしまう、くらいに思っている。

「人間は考える葦である」という言葉があるが、ひっくり返すと、「考えない奴(葦)は人間でない」になる。まあこれは対偶が成り立つならの話だが。他人に求めるわけでは決してないが、自分には求める。求めたい。

なんかちゃんと10時半からで合ってるか心配ななったので、早めに受付にいってみる。焦る。

あんまりずっと文章書くのも疲れるので、この辺で締める。目を瞑ってゆっくりリラックスしておく。

グッバイ、自分。

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