仏教における空
前回のnoteでは、仏教が現世の本質を苦しみと煩悩と説き、煩悩があるから輪廻することを説明した。そして、煩悩を取り除くための方法論として四諦と八正道を説明し、煩悩を取り除いて解脱をすることができれば涅槃の境地に達することを説明した。
では具体的に煩悩を取り除くにはどのようにすればよいのか。煩悩は現世における執着や欲望であり、これらは「われが存す」という考えがあるからに他ならない。例えば、良い職業に就きたいと考えるのは、それを考える個が存在するからであり、「その存在がある」ということを否定できれば、煩悩もなくなり、解脱できると言える。
しかし、この文章を読んでいる人は、「そんなことを言っても確かにこれを読んでいる個は存在しているし、私という個が存在するからこそこの文章を読むことができるのだ」と反論するかもしれない。その意見はもっともである。だが、ここで一度しっかり自分が存在していると言えるのかをしっかり考えるとよいだろう。
例えば、ドーナツの穴を考えてみよう。一般的に、ドーナツには穴が開いている。これは、ドーナツを揚げるときに中まで火を通すためである。確かにドーナツを手に取ると、我々は穴が開いていることを認識することができるし、「穴がある」ということをまざまざと実感することだろう。しかし、ドーナツに穴があるからと言って、ドーナツの穴だけを残すことは極めて困難である。あるいは、ドーナツの穴を誰かにあげることは不可能と言える。これがドーナツそれ自体であれば問題はない。ドーナツを例えば半分に切ってそれを誰かにあげることはできるし、その場合確かにあげたものはドーナツであろう。しかし、ドーナツの穴の場合、このように穴だけを誰かに渡すことは難しい。では、穴は無いのだろうか、穴は存在しないのだろうか。
このドーナツの穴という不思議なものは、まさに仏教における「空」という論理を表していると言える。空とは、「すべてが仮説であり、すべては関係であって、実在するものは何もない」というものである (小室, 2000)。ドーナツの穴が存在する、というのはあくまで仮の状態であって、実際は「ドーナツの穴の周囲のこんがり揚げられた小麦粉」と「穴という空洞」の関係によって穴が成立しているにすぎない。だからこそ、ドーナツを半分食べるといった、この関係性を壊してしまう行為によって、仮初めの状態はなくなってしまうのである。
空は仏教において重要な論理となる。なぜなら、この空を悟ることこそが本当の悟りであり、仏教理解のカギとなるからである (小室, 2000)。空は関係性についての論理である。あるものとあるものの関係性があるから存在が生じているのであり、ひとたびその関係性が途絶えてしまえば、存在していたものは消滅してしまう。例えば、母親が存在していたとする。母親は単独で母親とはなりえない。母親は子どもがいることで初めて母親となる。よって、母親という存在は母親と子との関係によって生じていると言える。そして、子は母親から生まれるという点でその存在を母親に依存していると言えるが、母親もまた子が存在しているから母親たりうる、という点でその存在を子に依存しているのである。
さらに、母親という存在は他の人間との関係によって変化するものである。例えば、母親は夫にとっては妻であり、母親の両親にとっては娘である。このことからも、何かが存在している、というのはある一定の条件が備わったときに生じる仮の状態であり、その状態は何と何との関係性によるものなのかによって変化すると言える。
以上の考えは、釈尊の諸法無我及び諸行無常という三法印の二つの教えを示すものである。諸法無我とは、すべてのものは因縁によって生じたもので実態がない、ということを意味し、ここで言う因縁とは簡単に言えば因果関係のことである。母親と子との関係で見たように、母親という存在は、子がいる、という因果によって規定され、子もまた母親という存在に規定されるという点で因果関係にある。また、母親と子以外の関係性によって、母親という存在は妻となり、娘となることを事例で述べた。このことは、万物は常に変化してやむところがない、という諸行無常と一致する。関係性は常に移ろいゆくものであり、時と状況によって変化するのである。
それでは、ここまでの議論をまとめておこう。煩悩が生じるのは「われが存す」というところから生じていた。自身が存在しているから、様々な欲望、恨み、妬みなどが生まれるのである。しかし、実際にはあらゆるものが絶えず変化し(諸行無常)、その変化は関係性によって生じるものであり、あらゆるものに実在はない(諸法無我)、ということが仏教の「空」の論理によって示された。よって、「われが存す」という考えそのものが間違っており、それは関係性によって規定されるかりそめのものにすぎず、このことが理解できれば煩悩も生じず涅槃への道が開かれるのである。
Reference
小室直樹 (2000)『日本人のための宗教原論』徳間書店.